第7話 承認済
「豆を二つ。……二つまでだよな、分かってる」
先に言われてしまう。リナは笑って銅貨を受け取る。
朝の売り台には、夜のうちの霜がまだ薄く残っている。袖で払うと、袖のほうが濡れる。
今朝の兵たちは、押し合わずに並んでいる。昨日の夕方に一度売ったから、今日もあると分かっているのだ。列の後ろのほうで、誰かが昨日の「明日の値段」の話をして、また笑っている。
豆が10袋、パンが8包み。銅貨36枚。
荷台の豆は、残り18袋。
売れ行きはいい。ただ、これは砦で売る分の40袋だ。見積書の100袋は、まだブリュックの倉庫で寝ている。砦が買うと決めなければ、手付の銀貨1枚は向こうのものになる。
懐の書付を指で触る。紙の角が、だいぶ丸くなってきた。触りすぎだ。
十日前、自分で書いた一行に、自分で線を引いた。だから今日は、数字と一緒に、隊長が欲しいものも持っていく。
売り台を畳んでいると、ハンスが門から顔を出す。
「隊長さんに、取り次ぎをお願いできますか。見積書の豆の件で」
「嬢ちゃん、首を突っ込むなって言われたろ」
「豆の話です」
「豆の話か」
「豆の話です」
ハンスはしばらくリナの顔を見ている。それから帽子を深くかぶり直す。
「……豆の話なら、まあ、な」
隊長室は、十日前と同じように寒い。暖炉の火も、十日前と同じくらい小さい。宿の主人の話では、今年の薪は高いらしい。
「豆の話だと聞いたが」
腕を組んだバルドの前に、見積書の写しを置く。
「干し豆の小袋を100袋。銀貨18枚で、冬の備えにお納めできます」
「それは前にも聞いた」
「ブリュックの仕入先に、取り置きを頼んできました」
「補給は足りてる、とも言ったはずだ」
「その、足りてるかどうかの話です」
見積書の上に、自分の帳面を開いて重ねる。
「ブリュックで、補給の第46便が積まれるところを見ました。自分で数えて、19袋です」
バルドは黙っている。
「門の帳面にも、送り状は19袋と書いてあります。でも、ハンスさんの分隊が担いだのは、17袋でした」
バルドの太い眉が、ゆっくり寄る。
「数え直しの報告なら、もう受けた。在庫は帳簿と合ってた」
「帳簿と在庫は、合ってると思います。帳簿に書かれる前に、2袋なくなってるので」
バルドは帳面に目を落としたまま動かない。組んでいた腕がほどけて、指が机の縁を一回叩く。
「トマス!」
トマスは、今日は綴りを脇に抱えていない。両手で、胸の前に持っている。
十日前、この部屋で最後まで机に置かなかった束だ。
「送り状は19。着いたのは17。どういうことだ」
トマスは一度、目をつぶる。それから束を机に置いて、紐をほどく。
一番上は送り状だ。角が丸くなって、端に泥の指の跡がついている。第36便、麦19袋、運送ハック運送。
その下に、トマスの几帳面な字。第36便、送り状19、受領17、損耗2。
その下に、赤い封蝋の押された紙。
――第36便、輸送損耗2袋、承認。輸送担当官 D・ロス。
「損耗です」
トマスの声は落ち着いている。
「届けを出し、承認も下りています。上限内です」
「上限?」
「ラーベ街道では、1便につき2袋までの損耗は、補給局の担当官の判断で承認できる決まりです」
「そんな決まりがあったか」
「昔、この街道がひどかったころにできた特例だそうです。運送屋の弁償も、要りません」
トマスが綴りをめくっていく。送り状、届け、承認書。送り状、届け、承認書。先月の第36便から第43便まで、三枚ずつ。
八組ある。
紙をめくる音しかしない。
「……報告で聞いた」
バルドが言う。誰に向けたのでもない声だ。
「差は承認済みの損耗だ、と。承認済みなら、片がついてると思った」
目が、机の端の紙の束へ動く。補給局へ送る月の報告の控えだ。一番上に、大きな手で押した判が見える。
バルドはその判の上に、手のひらを載せる。
「俺が判を押した」
リナは頭の中で足している。
送り状、19袋が8便で152。受領、17袋が8便で136。承認された損耗、2袋が8便で16。
136に16を足して、152。
(合ってる)
届けは出ている。承認も下りている。紙は一枚も欠けていない。帳簿はきれいに締まっている。
手が、帳面を閉じかける。
閉じる前に、トマスの綴りのほうへ指が行く。
「並べてもいいですか」
バルドが顎で促す。
八組の中から、損耗の届けだけを抜き出す。一枚ずつ、机に横一列に並べていく。
第36便、損耗2。第37便、損耗2。第38便、損耗2。
並べる手が、だんだん遅くなる。
第39便、2。第40便、2。第41便、2。第42便、2。
最後の一枚。
第43便、2。
同じ数字が、八つ並ぶ。
「毎回、上限ちょうどですね」
トマスは何も言わない。
理由の欄も見る。
――雨による濡れ損じ。三本松にて廃棄。
八枚とも、一字一句同じだ。
「トマスさん。毎回同じ数だってことは」
「……知っていました」
トマスの声がかすれる。
「毎回2袋。上限内で、承認も下りている。だから、それ以上は……」
続きはない。
カイルがトマスの横顔を見ている。口数が減っているときのカイルは、相手を読んでいる。
「写してもいいですか」
「好きにしろ」
ペン先をインク壺に浸して、届けと承認書から日付を一行ずつ写していく。
第36便 届 三日 承認 六日 第37便 届 六日 承認 九日 第38便 届 十一日 承認 十三日 第39便 届 十三日 承認 十六日 第40便 届 十七日 承認 二十日 第41便 届 二十日 承認 二十三日 第42便 届 二十五日 承認 二十七日 第43便 届 二十七日 承認 三十日
写しているあいだに、トマスが今月分の綴りを別に出してくる。第44便は承認済み。第45便と第46便は、届けの控えだけで、承認書はまだない。
「承認書は、後の便の御者が持ってきます。届けがブリュックに着いて、承認が下りて、それから上ってくるので」
第46便の届けには、一昨日の日付と、損耗2の字がある。
河岸で自分が数えた19袋の、その先の紙だ。
「トマス」
バルドが、机の端の別の帳面に手を置く。十日前に出させた、配給の記録だ。
「お前の報告では、配給は一割の節約だったな」
トマスの喉が動く。
「……隊長には、一割と申し上げました」
「実際は」
「二割、減らしています」
バルドの拳が、机の上に置かれる。叩きつけはしない。置いただけなのに、並べた届けの端が浮く。
「なぜ、俺に言わなかった」
「……足りないのは、分かっていました」
トマスは綴りに目を落としたまま言う。
「ですが、損耗は承認済みで、残りは繰越だと返事が来ていました。冬の備えの目標は、変わりません。足りないと書いて出せば、承認を出した担当官に盾突くことになります」
「だから、黙って削ったのか」
「秋のうちに少し絞っておけば、冬は越せると、そう判断しました」
トマスは顔を上げる。
「隊長に一割と申し上げたのは、私です。二割と申し上げれば、止められると思いました」
リナは、初めて主計係の部屋を訪ねた日の、机の端の皿を思い出す。手を付けていない黒パンが一切れ。
書類には、嘘が一つもない。届けは本当に出ていて、承認は本当に下りていて、帳簿は本当に合っている。
それなのに、兵の粥は薄い。
もう一度、送り状の数を足す。152袋。補給指示書には、160袋とあった。
「残りの8袋は、どうなってるんですか」
「補給局からは、翌月に繰り越すと聞いています」
リナは帳面の隅にそれを書いて、それ以上は訊かない。
トマスが綴りの紐を結び直そうとする。指がうまく動かなくて、結び目が二度ほどける。三度目で、ようやく締まる。
バルドが長い息を吐く。
それから、机の上の見積書を太い指で引き寄せる。
「嬢ちゃん。首を突っ込むなとは言ったが……豆の話は、別だ」
「……はい」
「麦の穴は、豆じゃ埋まらねえ。それは、こっちで補給局とやる。だが、冬の足しにはなる」
太い指が、見積書の「100袋」を叩く。
「購入願を書く。今日のうちに、伝令でブリュックの調達係へ出す。許しが下りるかどうかは、向こう次第だがな」
隊長室を出ると、中庭はもう影の中だ。カイルが黙って隣を歩いている。
門の手前で、カイルがやっと口を開く。
「あの主計係、嘘はついてなかったな」
「……はい」
「ただ、隊長に一割だの二割だの言わされてるときより、担当官に盾突く、って言ったときのほうが声が小さかった」
「隊長さんより、補給局のほうが怖いってことですか」
「さあな。補給局か、紙の向こうの誰かか。俺の読みだ。外れることもある」
カイルは手首の赤い布を一度なぞって、それ以上は言わない。
リナは振り返る。主計係の部屋の窓に、灯りが一つ点いている。
夜、宿の食堂で、リナは帳面を開いたまま師匠の向かいに座る。
話すことは山ほどある。最初に出てくるのは一言だけだ。
「全部、合ってたんです」
師匠は杯を両手で包んだまま、目だけを上げる。
「送り状も、届けも、承認書も、帳簿も。一枚も抜けてませんでした。合ってるのに、兵の粥は薄いままです」
師匠は黙っている。
宿の主人が卓の脇を通って、師匠の杯に湯を足していく。師匠はその袖を軽く引いて、何か言う。
しばらくして、リナの前にパンが一つ置かれる。
(……昼、食べてない)
パンを見て、やっと思い出す。朝の売り台から隊長室へ行って、そのまま日が暮れた。
師匠は、それきり何も言わない。
パンをかじりながら、昼に写した日付の横に、届けの理由を書き足していく。雨による濡れ損じ。三本松にて廃棄。同じ文句を八回書くと、手首がだるくなる。
濡れた麦は、ほかの袋まで腐らせる。だから捨てる。捨てた、と書いてある。
(捨てた麦を、拾った人がいたら)
ペン先から、インクが紙に染みていく。手は動いていない。
三本松。
水車の音と、くしゃみの出る粉。肩から髭まで真っ白な、樽みたいな男。河岸より一割安い小袋。手垢で黒い仕入れ帳と、それを叩いた分厚い手。
冬のあいだ、パンの材料をあそこで買えたら、と思ったのは、まだ三日前だ。
豆は高い。粉は安い。
写したばかりの八行を、上から下へたどる。三本松にて廃棄。三本松にて廃棄。三本松にて廃棄。
あの粉屋は、得意げに笑っていた。
「うちは麦の仕入れがいいからな」
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