第6話 十七袋
豆40袋とパン40包みを積んでも、荷台の四分の一も埋まらない。
一頭立てで400kgまで積める荷馬車に、80kgと少し。馬は軽そうに首を振っている。カイルはその軽すぎる荷台を見て、首をかしげている。
「これだけのために、三日かけて下りてきたのか」
「これだけのために、三日かけて上るんです」
「余計に悪いだろ」
「豆は軽くて、日持ちがして、砦でいちばん売れます」
「で、儲かるのか」
「重さで儲ける商売じゃないんですよ」
答えになっていない気がする。カイルもそれ以上はつっこんでこない。
懐に手を入れる。ドルン乾物店の預かりの書付。100袋の取り置きと、手付の銀貨1枚の証文だ。荷台が軽い本当の理由は、こっちにある。
手綱を鳴らす。昨日の朝、第46便が出ていったのと同じ道だ。
三本松に着いたのは、日が傾いてからだ。
帰りに見ると決めていた粉の値を、確かめに行く。
水車小屋の戸口をくぐると、粉の匂いが鼻の奥まで入ってくる。くしゃみが出る。二回出る。
「おう、大丈夫か。慣れねえとそうなる」
帳場にいるのは、肩から髭まで粉で真っ白な、樽みたいな男だ。
「粉かい。小麦なら、この小袋で銅貨3枚」
5kgほどの小袋だ。口を少し開くと、挽きたての粉が甘く匂う。ブリュックの河岸で見た値より、一割ほど安い。
「ずいぶんお安いですね」
「うちは麦の仕入れがいいからな」
男は得意げに、台の上の帳面を叩く。表紙が手垢で黒い、分厚い仕入れ帳だ。叩いた拍子に粉が白く舞い上がって、リナはまたくしゃみをする。
「何でもここに書いとくんだ。書いとかねえと、女房にどやされる」
「奥さん、厳しいんですか」
「厳しいなんてもんじゃねえ。去年、一回書き忘れたら、晩飯が三日、豆だけだった」
「……豆、お好きじゃないんですか」
「好きだよ。三日目まではな」
豆を売っている身としては、聞かなかったことにしたい。
粉屋のオットー、と男は名乗る。
秤の皿は磨いてあって、分銅の箱には欠けが一つもない。帳面を叩く手は乱暴なのに、量る道具だけは大事にしている。
(冬のあいだ、パンの材料をここで仕入れられたら)
砦までは、ブリュックより丸二日近い。運び賃が浮く。頭の中で、豆とパンと粉の値が勝手に並び替わりはじめる。
「冬に、まとまった量をお願いするかもしれません。また来ます」
「おう。いつでも来な。書いとくよ」
本当に帳面に書いている。『パンの嬢ちゃん、冬』。
宿場の端の馬宿の前には、今日も車輪に一本線の荷馬車が一台止まっている。行きに見たのと同じ荷馬車かどうかは、後板だけでは分からない。
自分が数えた第46便は、ゆうべここに泊まって、今朝もう発っている。
翌日も、その翌日も、霜の朝と乾いた昼だ。
坂道の土は凍って固い。車輪がよく噛む。荷崩れなんか起こしようのない天気だ。
「さっきから、地面ばっかり見てるな」
「麦がこぼれてないかと思って」
「こぼれた麦なんて、鳥が先に拾うだろ」
「……知ってます」
知っている。それでも目が勝手に轍の脇を探す。一粒でも見つかったら何か分かる気がする。見つからなくても、何も分からないのに。
しばらく、蹄の音だけが続く。
「なあ」
カイルが前を向いたまま言う。
「ツケを取り返すだけなら、ここまでしなくていいだろ。三日下りて、三日上って、袋を数えて」
「得意先が潰れたら、来月の売上がなくなります。それに、23人分の未収金もあるので」
「ふうん」
カイルは手首の赤い布を指でいじる。
「じゃあ、そういうことにしとく」
柳橋の宿で、自分が言ったのと同じ言い方だ。
何か言い返そうとして、何も出てこない。
(嘘は言ってない。……言ってない、はず)
リナは手綱を握り直して、馬の耳と耳のあいだを見る。
柳橋で一泊して、三日目の昼過ぎに灰色の石壁が見える。
門前の宿の窓際の席に、師匠はいる。六日前と同じ席で、同じ杯で、同じ座り方だ。ずっと動いていないのではないかと思う。
「戻りました」
「ああ」
「豆40袋とパン40包みで、88枚です。見積書の100袋は、取り置きにしてもらいました。手付が銀貨1枚。砦の注文が下りなければ、その1枚は向こうに置いていきます」
師匠は杯から目を上げない。
「そうか」
買うと決める前に言う、と約束した。決めてきたのは、まだ買わないということだけだ。
留守のあいだ、何もなかったらしい。
「豆だ! 嬢ちゃん、豆が戻ってきた!」
夕方の交代の鐘が鳴ったとたん、売り台の前に人垣ができる。
札は二枚に増えている。「現金だけ」と「お一人二つまで」。
「豆とパンで、銅貨4枚です。……はい、二つまでですよ。次の方」
三つ目に伸びてきた手を、笑って押し戻す。押し戻された兵は、恨めしそうに財布の紐を締め直す。
「明日も来るから、明日の二つにしてくれよ」
「明日の分は、明日の値段です」
「値段、変わるのかよ」
「変わりません」
「じゃあなんで言ったんだよ」
後ろの列が笑う。
豆が12袋、パンが10包み。銅貨44枚。一人二つまでにしていなかったら、一刻で荷台が空になっている。
売り台を片付けながら、門のほうを見る。
詰め所の前で、カイルが門番と話しこんでいる。リナを門の外に追い出してから、目を合わせようとしない門番だ。
「――だからさ、あんたも悪いと思ってるんだろ」
「俺が決めたんじゃねえよ」
「分かってるって。だから、帳面を読み上げてくれるだけでいいんだ。何か書き足せって言ってるんじゃない」
門番は渋い顔で頭をかく。詰め所の中を振り返って、門の内側を確かめて、もう一回頭をかく。
カイルは門柱に肩を預けて待っている。何も言わない。急かしもしない。
門番が三回目に頭をかいたところで、詰め所の棚から帳面を一冊抜き出す。
「……補給の便だけだぞ」
カイルが手招きする。リナは帳面を抱えて駆け寄る。
詰め所の中は、炭の燠と濡れた外套の匂いがする。門番の太い指が、帳面の行をたどる。
「三日、第44便。送り状、麦十九」
指が一行下りる。
「六日、第45便、十九」
もう一行。
「それから、昨日の十日。第46便、十九」
リナは自分の帳面を開く。河岸で書いた一行。第46便、19。ペン先で紙がへこんでいる。
同じ番号。同じ数。
「数えるのは、俺の仕事じゃねえぞ」
門番が先回りする。
「送り状の番号と数を写すだけだ。荷台の袋なんか、いちいち数えちゃいねえ」
「分かってます。ありがとうございました」
帳面を棚に戻す門番の手が、少しだけ丁寧になる。カイルは礼の代わりに、門番の肩を一つ叩く。
売り台に戻ると、ハンスが帽子を持ち上げて待っている。
「嬢ちゃん、約束のやつだ」
覚えていてくれた。
「数えてくれたんですか」
「おう。三回ともな」
ハンスは指を三本立てる。
「最初の、親方が乗ってきた便が十七」
一本折る。
「次も十七」
二本目。
「昨日のも、十七だ。俺の分隊で担いで、倉庫の前で一袋ずつ数えた。若いのに数えさせたら途中で分からなくなりやがったから、二回数えた」
「ありがとうございます。約束の塩です」
塩を一包み渡すと、ハンスは「悪いな」と言って懐にしまう。手の甲に、麻袋で擦れた赤い筋がついている。
その夜、宿の食堂の隅で、リナは帳面の前のほうのページを開く。
ブリュックへ発つ前に書いた、四つの言葉。
出荷。
輸送。
受領。
記帳。
受領の横には、分からない、の三角が一つ付いたままだ。
出荷の横に、19と書く。自分の目で数えた数だ。
受領の三角に、細い線を一本引く。その横に、17。ハンスの指が数えた数だ。
記帳の横に、17。トマスの帳簿の数。
ペンを置く。
四つのうち、輸送の横だけが白い。
ハンスの分隊が担いだのは、倉庫に入る前の袋だ。倉庫の鍵を持っているトマスの手に渡る前に、2袋はもうない。
「三回続けて、ちょうど2袋ずつ落とす荷馬車があるか?」
向かいで、カイルが帳面をのぞきこむ。
「重すぎる荷は、毎回同じところで崩れることもあります。坂の分は一銭も出ないって、ブルーノさんも言ってました。19袋は、あの坂には多すぎるのかも」
「で、毎回ちょうど2袋崩れる」
「……かも、です」
自分で言っていて、自信がない。この三日、坂は凍って固くて、空は一度も崩れなかった。もっとも、それは自分が通った三日の話だ。2袋が消えたのは、一日前の三日間だ。
「俺なら、主計係より運送屋を先に見るけどな。荷をいちばん長く持ってるのは、運ぶやつだ」
「運ぶ人が抜いたなら、送り状と合わないことは、トマスさんにも分かったはずです。19と書いてある紙を見て、17を受け取っていたんですから」
「分かってて、黙ってた」
「それが分からないんです」
カイルは湯の杯に口をつける。熱かったらしく、すぐ離す。
奥の席で、師匠は杯を前にしている。
帳面を抱えて向かいに座る。今日分かったことを順番に話すあいだ、師匠は一度も口を挟まない。
話し終えると、杯が卓に置かれる。
「そこから先は、砦の帳簿だ」
いつもより、声が低い。
「隊長さんにも、同じことを言われました。でも――」
「明日も、売り台がある」
「……はい」
「なら、寝ろ」
それきり、師匠は窓のほうへ顔を向ける。板戸は閉まっていて、外は何も見えないのに。
リナは膝の上の帳面を見る。
白い輸送の欄。その下に、線を引いた三角と17。
寝ろと言われて寝られるなら、苦労はない。指が勝手に卓を叩きはじめる。数を数えるときの癖だ。
(送り状と荷が合わなかったら、商人はどうする)
届けを出す。足りません、と。黙っていたら、損をかぶるのは受け取った側だ。
トマスは、損をかぶって黙っているような人には見えない。机の上の羽根ペンまで、まっすぐに置く人だ。
あの人は、黙っていたんじゃない。
師匠はまだ、窓のほうを向いている。
リナは帳面を閉じない。
「師匠。足りない2袋は、どこかの紙に書いてあるはずです」
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