第5話 十九袋
「帰りは、何を積む」
出発の朝、宿の戸口で師匠が言う。
見送りの言葉にしては、ずいぶん商売くさい。もっとも、この人に「気をつけて行け」なんて言われたら、そっちのほうが心配になる。
「豆と、パンと……」
荷台の縄を引いて、結び目を確かめる。指がかじかんで、うまく締まらない。二回やり直す。
荷台は空に近い。祭りの荷は、居残りを決めた日に宿の物置へ預けてある。
「数です」
「ああ」
それで終わりだった。師匠は食堂のほうへ戻っていく。
懐の革袋を押さえる。師匠から預かった銀貨16枚。いつもは師匠の腰で鳴っている音が、今日は自分の腰で鳴っている。歩くたびにちゃりちゃりとうるさい。
御者台に上がると、反対側からカイルが乗りこんでくる。いつもは師匠が座るところだ。
「狭いな、ここ」
「師匠が座ると、ちょうどいいんです」
「それ、俺の肩幅の話?」
「御者台の話です」
手綱を鳴らす。
砦からの下り坂は、上りより厄介だ。荷が軽いぶん、荷馬車が前へ前へと押し出される。車輪に歯止めをかませて、馬の首が下がりすぎないように手綱を詰める。
「下りのほうが、馬はきついのか」
「坂の途中で止まれない荷馬車は、終わりですから」
「あんたが言うと、全部商売の話に聞こえるな」
「商売の話ですよ」
振り返ると、灰色の石壁が朝霧の向こうに半分沈んでいる。
柳橋の宿場の大部屋は、煙と人いきれで暖かい。外の寒さが嘘みたいだ。
暖炉の前では行商人たちが靴を乾かしていて、隅の卓では荷運びの男たちが骰子を振っている。出てきた豆のスープは、塩より水のほうが多い。
「で、宿代は一人8枚。俺の分も、行商持ち」
匙をくわえたまま、カイルが言う。
「契約どおりです。昼のパンも一枚。それ以上は出ませんよ」
「昼にさ、川魚の串焼きを見かけたんだよ。脂がこう、炭に落ちて」
「見るのは、ただです」
「嗅ぐのは?」
「嗅ぐのも、ただです」
「親切な店だな」
カイルは笑って匙を置く。手首で、擦り切れた赤い布が揺れる。
もとはいい茜染めだったのだろう。色はすっかり褪せて、縁はほつれている。そのくせ結び目だけが新しい。何度もほどいては結び直しているらしい。
「その布、何かの印ですか」
「ん? ああ、これか」
カイルは手首を持ち上げて、暖炉の明かりにかざす。
「赤錆団。昔いた傭兵団の印だ。見習いのころに、団長が巻いてくれた」
「どうして抜けたんですか」
カイルはすぐには答えない。
隅の卓で骰子が転がって、誰かが「くそっ」と言う。
「金の分け方で揉めた。……ってことにしといてくれ」
いつもの人懐っこい笑い方だ。結び目の上で、指だけが止まっている。
「分かりました。そういうことにしておきます」
「……訊かないんだな」
「訊いたら、答えてくれるんですか」
「いや」
「なら、訊きません」
カイルは目を丸くして、それから息だけで笑う。
「じゃあ俺も一個、訊かないでおく。あんたがなんで行商なんかやってるのか」
「訊いてくれていいですよ。師匠に拾われて、気がついたら秤を持ってました。それだけです」
「それだけ、ね」
カイルはそれ以上は言わずに、残りのスープを飲み干す。
「……薄いな、これ」
「ただじゃないのに、薄いですね」
骰子の卓で、また誰かが「くそっ」と言う。
三本松の宿場に入ったのは、二日目の夕方だ。
宿場の入り口まで、粉の匂いが流れてきている。古い松が三本、黒い影になって街道を見下ろしていて、その根もとで水車小屋の石臼が低く唸る。挽きたての粉の、ほんのり甘い匂い。冷えた鼻が、それでやっとゆるむ。
馬に水をやろうと、宿場の端の水場へ回る。
隣に大きな馬宿がある。厩が長くて、屋根は葺き直したばかりらしく、藁がまだ黄色い。その前に二頭立ての荷馬車が一台止まっている。荷台は空で、車輪の鉄輪には油が引いてある。
後板に、焼き印がある。
車輪の上に、一本線。
手綱を持ったまま、リナはそこに立っている。
焼き印の線は深くて、縁がすり減っていない。荷馬車にここまで手をかける店は、懐に余裕がある。
荷印は店の顔だ。師匠の横で何年も見てきたから、たいていの印は分かる。けれど、これは知らない。
鞄から帳面を出して、ページの隅に描き写す。車輪の丸。輻を四本。その上に横一本。
描いてから、輻が四本だったか五本だったか自信がなくなる。もう一度見に行く。四本だ。
戻ると、馬はまだ水を飲んでいなかった。
ブリュックの河港は、夕方になっても声が絶えない。
エッセ川の水は、冷たい泥と船底に塗った松脂の匂いがする。船着き場には川船が並んでいて、太い綱が杭にこすれてきしむ。人足の掛け声。荷車の轍の音。どこかで魚を焼く煙。
岸に積まれた樽や袋には、どれにも店の荷印が焼きつけてある。麦の穂、錨、三つの輪。字の読めない人足でも、印を見ればどの荷がどこの店の物か分かる。
グリム穀物店は、河岸の倉庫の並びにある。補給局に麦を納めている店だ。
扉をくぐると、乾いた麦の粉が夕日の筋の中に舞っている。
「補給の便の日取り、ですか」
帳場の番頭が、帳面から顔を上げる。指の腹まで墨で黒い。
「ラーベ砦の門の前で、商いをしているんです」
「それが、うちの麦と何の関係が」
「補給が届いた直後は、豆が売れにくいので。売る日を合わせたくて」
番頭は、ふん、と鼻を鳴らす。それから、リナの顔をもう一度見る。
「……あんた、ひょっとしてベルクの旦那の連れか」
「はい。弟子です」
「なんだ、それを先に言ってくれ」
閉じかけていた帳面が、また開く。
(私の顔じゃ開かなかった帳面が、師匠の名前で開く)
悔しい。悔しいけれど、使えるものは使う。
番頭は分厚い帳面をこっちへ向けて、墨の指でたどる。
「ラーベ砦行きは、今月はこうだ。一日に第44便、四日に第45便。どっちも麦19袋で、運送はハックのところ。次が第46便で、明日の朝に出る。これも19袋」
運送屋の欄に、小さな印が押してある。
車輪の丸。輻が四本。その上に横一本。
帳面の縁を押さえていた指を、そっと引っこめる。膝の上で握る。昨日、四本か五本かで迷って、わざわざ見に戻った輻だ。
「ハックさん、というのは」
「ハック運送。親方はブルーノって男だ。気は荒いが、坂の便を引き受けてくれる店は少なくてな」
ブルーノ。
四日前、砦の門で「高えな」と言いながら塩を一つ買っていった男だ。
礼を言って外に出ると、川風が頬に冷たい。
「19袋、だな」
カイルが言う。
「出るときは19袋。砦の帳簿は17袋」
帳簿を書いているのはトマスだ。受け取った数を書いただけだと、あの人は言った。嘘じゃないが何か隠してる、とカイルは言った。
最後まで机に置かなかった、紐で綴じた薄い束。
(隠してるのが、その2袋だとしたら)
考えかけて、やめる。まだ、出るときの数をこの目で見ていない。帳面の数字は、誰かが書いた数字だ。
「明日の朝、積むところを見ます」
カイルは何も言わずに、対岸の灯のほうを見ている。
息が白いうちから、河岸は動きはじめる。
船着き場の板が霜で白い。靴底がきしむ。川面から薄い霧が上がっている。
仕入先のドルン乾物店は、グリム穀物店の三軒先だ。売り物の豆の段取りで早めに来た。誰かに訊かれたら、そういうことにする。
倉庫の前に、二頭立ての荷馬車が一台ついている。
後板に、車輪に一本線。手綱を持っているのは、四日前に砦で見た御者とは違う。そばかすの残る若い男で、寒そうに足踏みしている。
倉庫の扉が開いて、人足たちが麦袋を担ぎ出してくる。肩で袋を跳ね上げて、荷台の上の相棒へ放る。受けた男が膝で勢いを殺して並べる。どさり、どさり。
リナはドルン乾物店の軒先に立ったまま、荷台を見ている。
一段目に、五袋。
二段目に、五袋。
三段目の途中で、人足が一人、目の前を横切る。肩の袋で荷台が隠れる。
(今ので三つ目……いや、四つ目?)
分からなくなる。
息を一つ吐いて、最初からやり直す。下の段から、袋の縫い目を一つずつ目で押さえていく。
三段目に五袋。最後に、御者台の側へ寄せて四袋。
19。
人足が手を払って、荷台から飛び降りる。もう誰も袋を運んでこない。
上からもう一度数える。
19。
荷台の脇を通りがかったふりをして、袋の一つに手の甲を当てる。麻は乾いていて冷たい。押すと、中の麦がざらりと流れる。
番頭が送り状を持って出てくる。
「第46便、麦19袋。運送、ハック運送。……ほら、ここに名前」
御者がかじかんだ指でペンを握って、名前を書く。紙を四つに畳んで、懐の奥へしまう。
その横で、カイルがいつの間にか御者と話しこんでいる。
「三日も坂を上るんだろ。宿は決まってるのか」
「一泊目は、いつも三本松だよ。親方の馬宿があるから、飼い葉が安いんだ」
「いいなあ。俺の雇い主なんか、宿代に厳しくてさ」
「聞こえてますよ」
リナが言うと、御者が吹き出す。カイルも笑う。
御者が手綱を鳴らす。二頭の馬が首を振って、鉄輪が霜の板を噛む。荷馬車が動き出す。
荷台が遠ざかってから、カイルが戻ってくる。
「普通の若いのだ。後ろめたい顔は、どこにもなかった」
「そうですか」
「何も知らないか、何も気にしてないか。どっちかだな」
帳面を開いて、一行だけ書く。
第46便、19。
力が入りすぎて、ペン先で紙がへこむ。
「10袋で、銅貨12枚。今年はこれ以上まけられないね」
ドルン乾物店の女主人が、豆の袋を平手で叩く。中で豆が跳ねて、乾いた音がする。棚には豆の袋が天井まで積まれていて、店じゅう香ばしい埃の匂いがする。
秋の終わりは、河港の豆が高い。師匠の言ったとおりだ。
見積書の100袋を買えば、銀貨12枚。砦に納めれば18枚。ただし、砦が買うと決めたらの話だ。
トマスは、自分一人では決められないと言った。隊長の判断と、補給局の許しが要る。どっちも、まだ出ていない。
注文のない100袋は、ただの重さだ。坂の上まで運んで誰も買わなければ、うちの荷台で冬を越すことになる。
「100袋、取り置きをお願いできますか」
「買うんじゃなくて、置いとけって?」
「砦の注文が下りたら、引き取ります。下りなければ、手付は置いていきます」
「手付は?」
「銀貨1枚」
女主人は黙って、リナの顔を見る。値踏みする目だ。リナも目をそらさない。ここでそらしたら、手付が2枚になる気がする。
「ベルクの旦那の弟子にしちゃ、慎重だね」
「旦那なら、手付も払わずに帰ってます」
女主人は鼻で笑う。
「1枚なら、置いとくのは今月いっぱいだよ」
「祭りのあとでないと、ここを通れないんです」
「なら、注文が本物だって証拠を見せな。砦の印のある書付の写しが月末までに届いたら、来月の十五日まで置いといてやる」
「追加の手付は」
「要らないよ。注文が本物なら、こっちも売り損じはないからね」
女主人は手付の帳面を開いて、条件を一行書き足す。リナも自分の帳面に、同じ一行を写す。
砦で売る分は、量を減らす。豆を40袋。隣のパン屋で、堅焼きパンを40包み。門の外で一人二つまでなら、残りの日数で売り切れる量だ。
豆が48枚、パンが40枚、手付が10枚。合わせて銅貨98枚。持ってきた銀貨16枚のうち、出ていくのは10枚に届かない。
銅貨を数えて渡すと、女主人は受け取ってから顔をしかめる。
「ただね。今日は人手が足りなくて。袋詰めが終わるのは、明日の朝になるよ」
奥の倉庫を振り返る。若い店員が一人、豆の山の前でぼんやりしている。
「……明日の朝」
補給の便と同じ日に発つつもりだった。あの19袋が坂を上っていくのを、すぐ後ろから見ていられるはずだった。
店の戸口の向こうに、上りの街道が見える。泥の上に、荷馬車の轍がまだ新しい。
でも、豆がなければ、ここまで来た意味がない。
「待ちます」
その夜、宿の窓からエッセ川が見える。暗くて、水の音しか分からない。
窓の隙間から入る風が、帳面のページをめくろうとする。手で押さえる。
ページの隅に、三本松で描いた荷印。輻が四本の車輪に、横一本。その下に、今朝の一行。
第46便、19。
こっちは一日遅れで、あの轍を追う。砦で何袋降ろされたのかは、ハンスが数えてくれるはずだ。
そばかすの御者の声を思い出す。一泊目は、いつも三本松。親方の馬宿があるから。
リナは、荷印の線を指でなぞる。
今夜、自分が数えた19袋は、あの藁の新しい馬宿の前で眠っている。
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