第3話 指示書の数字
門の外に売り台を出したら、最初に来たのは山風だった。客ではない。
布がめくれる。押さえる。塩の包みが一つ転がって、カイルの靴に当たって止まった。拾ってくれるかと思ったら、つま先で器用に蹴り返してくる。
(商品を蹴らないでほしい)
石壁の影が売り台の半分にかかっていて、そっち側に立つと指がすぐ言うことを聞かなくなる。売り台ごと日なたへずらせばいいのだけれど、そうすると門番の真正面になる。それはそれで売りにくい。
結局、半歩だけずらす。
「塩を一つ」
「はい、銅貨4枚です」
昼までに、それが三回。
帳面に、塩3包み、銅貨12枚と書く。その下に、カイル、7枚。
書いた瞬間に横から影がさした。
「俺の日当で、もう負けてるな」
「のぞかないでください」
「俺を呼ばなきゃ、今日は勝ってたな」
「呼ばなくても、4枚は出ます。勝っても2枚です」
「……細けえな」
「昨日の夜、三回計算しました。三回とも、カイルが邪魔でした」
カイルは声を立てて笑い、門柱に戻っていく。笑われるようなことは言っていない。数字の話をしただけだ。
門番の兵は、さっきから峠ばかり見ている。一昨日までは、顔を見るたびに「嬢ちゃん、豆はまだあるか」と訊いてきた人だ。豆を売り切ったあとにも訊いてきた。今日はこっちを見ない。見ないようにしているのが、背中の硬さで分かる。
(別に、この人が決めたことじゃないのに)
昼の交代の鐘が鳴ると、門の中から若い兵が一人、小走りに出てきた。一昨日、堅焼きパンを渡したひょろりとした兵だ。
「あの、パン。ありがとうございました。あのとき、ちゃんと言えなくて」
「どうでした?」
「え?」
「パンです。味」
若い兵は少し考える。
「……硬かったです」
「堅焼きなので」
「あ、はい。でも、うまかったです。硬いぶん、長く噛めるし」
それから、思い出したように付け足す。
「今朝の粥も、薄かったです。でも、みんなそうなんで」
腰の小銭入れに手が行きかけて、行かない。
「じゃあ、交代なんで」
ぺこりと頭を下げて、若い兵は戻っていった。売り台の上の塩には、一度も目をやらなかった。
「隊長に会って、禁止を解いてもらいます」
宿の食堂に戻るなり言う。椅子を引く音が思ったより大きくて、隣の卓の客がこっちを見た。すみません、と頭だけ下げる。
師匠はいつもの隅の席で、湯の入った杯を前にしている。
「会うなら、ハンスを通せ。門番に頼んでも、隊長の耳には届かん」
「分かってます」
帳面を開いて、白いページのいちばん上に書く。
――禁止は、間違いです。
「ツケは、兵がお腹を空かせてる結果です。原因じゃないと思います。それを数字で並べれば、隊長さんだって分かってくれます。まず、ツケの人数が二か月で2人から23人。それから――」
師匠は湯を飲んでいる。聞いているのかいないのか、杯の向こうの顔は動かない。
自分の声に、昨夜のハンスの声が重なった。
隊長は、部下の暮らしと規律の話には弱えんだ。
弱い、ということは、隊長は部下の暮らしを守るつもりで門を閉めたのだ。そこへ乗りこんで、禁止は間違いです、と言ったら。
昼の若い兵の手を思い出す。小銭入れに行きかけて、行かなかった手。
(隊長を言い負かしても、あの人の粥は濃くならない)
リナはペンを取って、ページのいちばん上の一行に線を引いた。
「続きは」
師匠が言う。
「……やめました」
「そうか」
それだけだ。師匠は宿の主人を呼んで、杯に湯を足させる。
線の下に、書き直す。
門を閉めた理由は、そのまま残す。そのうえで、売る。
一つ、売るのは朝と夕の交代の時間だけ。門の前で。
二つ、現金だけ。新しい借金は増やさない。
三つ、食べ物は一人二つまで。……これは次の仕入れから。
「カイル。これ、隊長さんはどう読むと思います?」
「俺は護衛だぞ」
「知ってます」
「商売の話は分からん」
そう言いながら、カイルはもう紙を自分のほうへ引き寄せている。指で一行ずつ押さえて読む。読むのが遅いわけではない。三回くらい読んでいる。
「二つ目がいいな。『増やさない』ってとこ」
「どうしてですか」
「隊長が言いたいのが、それだからだよ。向こうの台詞を先に書いてある」
「……三つ目は」
「三つ目はあんたの都合だろ。豆が足りないから」
(ばれてる)
「いいさ。隊長だって、あんたが商売で来てるのは知ってる。隠すほうが、かえって引っかかる」
商売の話は分からん、とは。
三つの項目を、それぞれ一行ずつ削って書き直す。削るたびに、あの太い声で読み上げられそうな文に近づいていく気がした。
師匠のほうを見ると、宿の主人と薪の値段の話をしている。冬は高い、去年より高い、という話を、主人が一方的にしていた。
「嬢ちゃん。命令は命令だ。行商人は入れん」
ハンスの取り次ぎで通された隊長室で、バルドは腕を組んだまま立ち上がりもしない。
狭い部屋だ。暖炉はあるが火が小さすぎて、窓の隙間風に負けている。机の上には地図と紙の束。地図の端を、鞘ごとの短剣が押さえていた。重しにする物がほかになかったのだろう。
「分かってます。今日はお願いじゃなくて、提案です」
紙を差し出す。
バルドは眉間にしわを寄せて読む。太い指で持つと、紙が手紙くらいの大きさに見える。
「交代の時間だけ。現金だけ。一人二つまで」
声に出して読んだ。三つとも、ちゃんと覚えやすかったらしい。
「悪くはねえ」
「なら」
「だが、元を絶たなきゃ同じだ。掛けで買える物が目の前にありゃ、腹の減った若いのは手を出す。兵の財布を守るのも――」
「借金の元は、掛売りじゃありません」
言ってから、隊長の台詞を途中で切ったことに気づく。もう遅い。
「空腹です」
バルドの眉が、ぐっと寄った。
「補給は足りてる」
「でも」
「足りてるんだよ! トマス!」
二つ目の怒鳴り声は、明らかにリナではなく廊下に向けられている。
しばらくして、トマスが顔を出した。部屋の中にリナとカイルがいるのを見て、敷居の上で足が止まる。
「指示書と、受け取りの帳簿だ」
「隊長、それは商人の方に――」
「数字で見せたほうが早え」
トマスは、口を開けて閉じた。
戻ってきたトマスは、紙を一枚と厚い帳簿を一冊、机に置く。脇に、紐で綴じた薄い束も抱えている。そっちは置かない。
バルドが紙を指で叩く。赤い封蝋の押された、補給局の紙だ。
――ラーベ砦守備隊、先月分。穀物160袋。補給指示済。
「200人に160袋だ。軍の決まりどおりに配っても、余る」
一人一日、穀物1kg。師匠から耳にたこができるほど聞いた数字だ。200人で30日なら6,000kg。1袋40kgなら150袋。
たしかに、10袋余る。指示書の上では、隊長の言うとおりだ。
「受け取りの帳簿も、見せてもらえますか」
バルドが顎で示す。トマスが黙って帳簿を開き、先月のページを指した。
便ごとに、届いた袋の数が書いてある。いい字だった。一行目から最後まで、同じ幅、同じ濃さ。こういう字を書く人は、たぶん机の上の物も全部まっすぐ置く。
上から足していく。
もう一度、下から足す。
「……136袋です」
「あ?」
「指示より24袋少ないです。決まりどおりに配るなら、14袋足りません」
バルドは帳簿をひったくるように引き寄せる。自分で数字をたどりはじめた。指が行の途中で止まって、戻って、また進む。
カイルが、リナの耳もとで言う。
「知らなかった顔に見えたな」
顔のことは、リナにはよく分からない。でも、指の動きなら分かる。帳簿を読み慣れた人は、あんなふうに一行ずつ戻らない。
(この人、今まで「160」しか見てこなかったのかもしれない)
最初の日の、あの笑いを思い出す。知っていて笑ったのだと、半分は思っていた。
「トマス」
さっきまでの怒鳴り声とは、別の声だ。
「どういうことだ」
トマスはすぐには答えない。脇の綴りを、抱え直した。
「……私は、受け取った数を、書いただけです」
それ以上は、何も言わなかった。
バルドはしばらくトマスを見ていた。それから帳簿を閉じる。
「在庫を数え直せ。受領と配給の記録も全部持ってこい。俺が見る」
「はい」
「何か抜けてるなら、俺に直接言え。ほかの奴を通すな」
怒鳴らない。怒鳴られるより、そのほうが怖かった。
部屋を出る前に、バルドはリナの紙をもう一度つまみ上げた。
「交代の時間に、門の前で、現金だけ。それなら認める」
「本当ですか」
「中には入れん。そこは変わらん」
立ち上がると、頭一つ分以上、上にある。座っていたときは、ここまで大きいと思わなかった。
「それと、嬢ちゃん。この件には、もう首を突っ込むな。砦の帳簿は、砦の問題だ」
「はい」
返事はした。
廊下に出たとたん、カイルが両腕を上に伸ばす。肩がごきりと鳴った。
「あの部屋、寒すぎだろ。隊長、よく平気だな」
「慣れてるんじゃないですか」
「慣れてる顔じゃなかったぞ。あれは我慢してる顔だ」
「隊長さんの顔の話は、もういいです」
「じゃあ主計係の顔の話」
カイルは声を落とした。
「嘘はついてなかった。受け取った数を書いただけ、ってのは、たぶん本当だ」
「たぶん、ですか」
「たぶんだよ。顔は帳簿じゃないからな。……ただ、何か隠してる」
「何を」
「それが分かったら、俺は護衛なんかやってない」
カイルは肩をすくめて、門のほうへ歩きだす。
「ま、門の前なら売れる。よかったな」
「朝と夕、一刻ずつです。塩と針なら、赤字は小さくなると思います」
「思います、か」
「売ってみるまでは、思いますです」
「なんだそりゃ」
カイルは笑ったけれど、それ以上は言わなかった。
夕方、売り台に「現金だけ」の札を立てる。
何人かの兵が財布の口を開けて、閉じて、帰っていく。昼の若い兵と同じ手つきだ。
それでも塩が5包み、針が3本売れた。銅貨23枚。朝からの分と合わせて、35枚。
仕入れを引く。塩8包みで16枚、針3本でだいたい1枚。残りが18枚。
出ていくほうは、カイルに7枚。師匠と自分の宿が、朝夕付きで16枚。飼い葉が2枚。
銅貨7枚の赤字。
塩と針だけでは、この砦の商いは回らない。ブリュックで豆を仕入れてこないといけないし、見積書の100袋の話も仕入先と詰めないといけない。
やることを帳面の端に書き並べていたら、いつの間にか余白に「24」と書いていた。
消そうとして、やめる。
夜の食堂は、灯が一つきりだ。
師匠に帳面を渡す。師匠は今日の欄を指でたどって、カイルの行で一度だけ指を止めた。何も言わずに、帳面を返してくる。
リナは帳面を開いたまま、しばらく何も言わなかった。言うことを順番に並べようとしたら、並ばない。
「指示書は160。帳簿は136」
口に出すと、思ったより小さい声になった。
「でも、砦には前からの備蓄もあります。帳簿が少ないから配膳が減った、とは、まだ言えないです」
師匠は杯の縁を指でなぞっている。
「師匠なら、どこから見ますか」
返事はない。
師匠は、杯の中の冷めた湯を見ている。考えているのか、もう聞いていないのか、今夜は分からない。
宿の主人が、まだ薪の値段の話をしている。今度の相手は、隣の卓の行商人だ。
リナは、隊長室の机を思い出していた。
指示書と、厚い帳簿。トマスさんが机に置いたのは、その二つだけだった。
脇に抱えていた、紐で綴じた薄い束。隊長に「どういうことだ」と訊かれたとき、トマスさんはそれを抱え直した。
最後まで、机には置かなかった。
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