第2話 給金はどこへ消えた
馬具の留め金の音で、目が覚める。
窓の外はまだ薄暗い。中庭をのぞくと、師匠がもう馬に馬具を付けていた。
(本気だ)
リナは靴の紐を結ぶのもそこそこに外へ出る。石畳に霜が降りていて、一歩目で滑りかけた。
「本当に発つんですか」
「ああ」
それ以上は訊くな、という声だ。分かっていて、訊く。
「理由は?」
師匠は馬の腹帯を締めている。返事の代わりに、革がぎゅっと鳴った。
リナは荷台の縁に手をつく。手伝う気はない。
「未収金が23人分。銀貨6枚と銅貨2枚です。回収は来月」
「知っている」
「兵がお腹を空かせたまま冬を越せなかったら、来月、誰が払うんですか」
「だから引く。掛けが膨らむ前にな」
「引いたら、23人分がまるごと戻らないかもしれません」
「それも商いだ」
損を切るのも商い。それくらい分かっている。分かっているけれど、まだ損だと決まったわけでもないのに、先に切ってしまうのは違う気がした。
「師匠はいつもそうです。私を拾ったときだって、どうして拾ったのか、ちゃんと教えてくれないじゃないですか」
腹帯を締めていた師匠の手が、一瞬だけ緩む。
すぐに締め直して、師匠は馬の首を軽く叩いた。
「……馬に水をやれ」
(また、それ)
桶をつかむ。取っ手の鉄が、指に噛みつくように冷たい。井戸から汲んで運ぶと、馬が鼻を鳴らして顔を突っこむ。
馬は悪くない。水はやる。
出発の支度は、手伝わない。
「分隊長さんたちに、回収の日取りを確かめてきます」
返事を待たずに走る。拾われた話を持ち出したのは、余計だった。走りながら、そこだけ後悔した。
「回収の日取り? そりゃ来月、あんたらが来たときにまとめてだ。いつもどおりよ」
兵舎の前で、分隊長のハンスが靴底の泥を板の角にこすりつけている。
昨日、ツケの帳面に署名した七人のうちの一人だ。古参で、口が軽い。リナが来るたびに塩を一包みだけ買って、その十倍の長さの世間話をしていく。
「……って、言いてえとこなんだがな」
ハンスは片足を板に乗せたまま、顔をしかめる。
「払えない人がいるんですか」
「払わせるさ。払わせるけどよ。今月は、給金が残ってねえ連中が多いんだ」
「三日前が給金日でしたよね」
「おう。だがなあ、先月から前借りに来るやつが増えてな。仲間内の貸し借りもだ。給金なんざ、借りを返したらほとんど残っちゃいねえ」
「賭け事ですか?」
兵の給金が消える理由なら、まずそれだ。次が酒。
「それがよ、賭場は前と変わらん。酒も増えてねえ。うちの分隊なんざ、酒の匂いがしたら俺の鼻がすぐ嗅ぎつける」
ハンスは声を落とした。
「配給がちょいと減っただろ。冬に備えた節約だってよ。若いのは腹が持たねえんだ」
それから、思い出したように手を打つ。
「そうだ、昨日嬢ちゃんがパンをやった若いの。あれ、うちの分隊でな。礼を言っといてくれって頼まれてたんだ。忘れるとこだった」
売り台の前でパンを噛み砕いていた背中を思い出す。手のひらのかけらまで、口に運んでいた。
礼を言って、兵舎の陰に回る。朝日がまだ届かず、壁際に霜柱が立っている。そこで帳面を前へめくった。
この砦の掛売りは、全部ここに書いてある。
二か月前のツケは、2人。先月は4人。どちらも昨日、分隊長から全額受け取っている。
今回が、23人。
品名の欄を指でたどる。二か月前は塩と針。先月も塩と針。今回は、豆とパンしかない。
ちょいと減った、とハンスは言った。
(ちょいとで、給金をまるごと食べ物に回すかな……)
ちょいとではないのかもしれない。ただ、まだハンス一人の話と、自分の帳面だけだ。
荷馬車に戻ると、馬具はもう付け終わっていた。馬が前脚で石畳を掻いている。
「このままだと、来月、ツケの半分も戻らないかもしれません」
帳面を差し出す。師匠は受け取って、リナが指で示したページを順にめくる。
「人数が増えた。それだけで決めるか」
「それだけじゃありません。中身が変わってるんです」
身を乗り出す。
「先月までは塩と針でした。今回は豆とパンだけ。賭け事も酒も増えてないのに、給金が消えてる。お金の行き先が、食べ物になってる気がするんです」
師匠は帳面から目を上げない。
どこかで、兵の号令がかかった。
「……誰に習った」
「師匠ですよ。人数だけじゃなくて中身まで見ろって、耳にたこができるくらい」
「たこができるほどは言っていない」
「言ってます。三日に一回は言ってます」
師匠は帳面を閉じて、リナに返した。
リナはそれを胸に抱えて、一度息を吸う。
「祭りまでの三週間、ここで売らせてください」
師匠がこっちを見る。灰色の目は、怒っても笑ってもいない。
「ツケが本当に戻るのか。来月もここで売れるのか。冬に豆の大口がありそうか。自分の目で確かめたいんです」
「休むのは、ここでもハーゼルでも同じだ」
「同じじゃないです。ハーゼルで休んだら、ここの帳面は来月まで白いままです」
師匠は、締めたばかりの腹帯に手をかけた。外す前に、一度止める。
「荷のほかに使っていいのは、銀貨30枚までだ。宿と飼い葉も別」
「……30枚」
「足りなくなりそうなら、使う前に言え」
腹帯が外れた。
「一人で動くなら、護衛を付けろ」
護衛なんて、雇ったことがない。御者台にはいつも師匠がいて、泊まるのは顔なじみの宿場だけだった。
師匠が強いからではない。街道の宿場の誰もが「ベルクの旦那」を知っていて、その荷馬車がいつどこを通るかまで知っている。顔の知れた荷に、わざわざ手を出す者はいない。
一人で動くなら、その盾がない。
「護衛の分も、30枚の内ですか」
「そうだ」
師匠は宿のほうへ歩いていった。
「仕事を探してるって、宿のご主人に聞きました」
門の外の酒場は、昼間はがらんとしている。こぼれた麦酒が床板に染みて、すっぱい匂いがする。
隅の席で、若い男が水の杯を前にしていた。
濃紺の癖毛に、緑の目。使いこんだ革鎧。壁には片手剣が立てかけてあって、手首に擦り切れた赤い布が巻いてある。
「ああ。護衛でも、荷運びでも」
男は立ち上がって、人懐っこく笑う。
「カイルだ。元は傭兵見習い。ここんとこは門の前で荷を担いでる。護衛で雇われるのは、まだ二回目だけどな」
「正直ですね」
「嘘ついても、すぐばれるだろ。こういうのは」
リナは男の足もとから順に見る。
靴底はすり減っているのに、縫い目はきちんと直してある。剣の柄の革は新しい。上着の肘には継ぎが当たっていて、そっちは放ってある。
歩くための靴と、握るための柄。直す順番が、仕事に要る順になっている。
「……今、値踏みしたろ」
「商人なので」
向かいに座る。椅子の脚が一本短くて、座ったとたんかたんと傾いた。カイルが吹き出す。
「その椅子、俺もさっき座った」
「教えてくださいよ」
「教えたら座らないだろ」
(それはそうだ)
「三週間、砦の周りと街道を動きます。街道に出る日と、私が呼んだ日だけ、日払いで」
「呼ばれない日は?」
「自由です」
カイルは首を横に振った。
「それじゃ俺は、呼ばれるかどうか分からないまま、門の前で荷運びも断れずに突っ立ってることになる」
(……なる)
呼ぶ日を前の晩に決めておけばいい、と言いかけてやめる。前の晩に分かることばかりなら、護衛なんか要らない。
「一日4枚。呼ばない日も払います。そのかわり、呼んだらすぐ来てください」
「4枚で縛られるのか」
「門の近くの荷運びなら、していていいです。遠出と、途中で抜けられない仕事はなしで」
「呼ばれた日は」
「2枚足して、昼を付けます。街道の日は、宿と三食も」
「足して6か。10って言うつもりだったんだけどな」
「6です」
カイルは天井を見た。それから、杯の水を飲み干す。
「乗った」
(二十日分の拘束料で80。ブリュックまで往復すれば、さらに77。残りで、何日動けるだろう)
「今日は、これから主計係さんのところへ行きます。早速ですけど、呼んでいいですか」
「初日から呼ばれるのか。いいぜ」
「決まりですね」
「なあ」
カイルが、杯を置いて身を乗り出す。
「あんた、金の話をしてるのに、さっきから砦のほうばっかり見てるな」
リナは窓から目を離した。
「……商売の下見です」
「ふうん」
カイルはそれ以上訊かず、手首の赤い布をいじりながらにやにやしている。
「あの配膳係、柄杓を一杯にしてから、わざわざ縁で落としてる」
食堂を抜けるとき、カイルが足を止めずに言った。
主計係の部屋へ行く途中だ。昼の配膳が始まっていて、大鍋から麦の粥が湯気を立てている。煮えた麦の匂いはするのに、腹が鳴る匂いではない。
「え?」
「並んでる連中、誰も文句を言わねえ。慣れてる。昨日今日の話じゃないな」
リナは鍋の大きさと列の長さを見比べている。
主計係の部屋は、兵舎の奥にあった。
扉を開けると、インクと古い紙の匂い。火の気がなくて、外より寒い。棚の帳簿は背表紙の字が一冊ずつ同じ高さで書かれていて、机の上には羽根ペンが一本まっすぐ置いてある。机の端の皿に、薄い黒パンが一切れ。手は付いていない。
主計係のトマスは、痩せた几帳面そうな男だ。
「冬の干し豆の件で、ご相談に来ました」
鞄から紙を出す。
「ブリュックの仕入先で、100袋ほどなら揃えられる見込みです。1袋銅貨2枚のところ、100袋まとめてなら銀貨18枚。見積書だけでも、お預けできればと」
トマスは紙に手を伸ばさない。
「お気持ちは、ありがたく……いえ、本当にありがたいのですが。砦の買い入れは隊長のご判断ですし、補給局の許しも要りますので。私一人では、その、決めかねます」
「では、隊長さんに渡していただくだけでも」
「それは、はい。それは、お預かりします」
言いながら、まだ紙は取らない。
「……それと、これは、主計係としてではなく申し上げるのですが。兵に掛けで売るのは、ほどほどにしてやっていただけませんか。給金が借りで消えていく者が、増えておりますので」
ちょうど帳面で見たばかりの話だった。こっちから切り出すつもりだったのに、先に言われる。
「配給が足りないときの備えにでも、豆は」
「配給のことは、主計係の私が預かっています」
声が少し早くなった。
「補給局からは、必要な量を送ると指示が来ております」
「そうですか。じゃあ、次の補給の荷馬車はいつごろでしょう。届いた直後は豆が売れにくいので、こっちも運ぶ日を合わせたいんです」
トマスの目が、リナの顔から机の帳簿へ落ちる。
「……月に八回。週に二回ほど、ブリュックから」
「最近の便も、いつもどおりの量で届いてますか」
トマスは、帳簿の上で両手を組んだ。
「届いたものは、届いたとおりに記しております」
「見積書は、お預かりします。隊長には、伝えておきますので」
そこで初めて、紙を取った。
廊下の角を曲がったところで、カイルが言う。
「帳簿の話になると、言い方が変わるな。あの人」
「豆の話のときは、普通でした」
「そうだな。だから帳簿だ」
角を曲がりきったところで、リナは足を止めた。
「明日の朝、売り台に来てもらえますか」
「呼ばれりゃ行く」
「隊長の命令だ。明日から、行商人は砦の中に入れねえ」
その夜、宿の扉を叩いたハンスは、昼間とは別人みたいに口が重い。帽子を手の中でぐるぐる回して、それからやっと続ける。
「掛売りも、禁止だ。冬の備蓄が落ち着くまで、当面は」
「……え?」
「主計係が隊長に上げたらしい。兵が行商人のツケで借金漬けになってる、勤務中の連中まで売り台に群がってる、ってな。隊長は、部下の暮らしと規律の話には弱えんだ」
「今あるツケは、どうなるんですか」
「俺の分隊の分は払う。立て替えてでもな。ほかの分隊長も、約束を破るような連中じゃねえ。……ねえんだが、みんな余裕がねえ」
すぐには言葉が出ない。
隣でカイルが舌打ちした。食堂の奥で、師匠が杯を置いた音がする。
「嬢ちゃん、悪いな。……明日から、あんたらは門の外だ」
扉が閉まった。
リナは、卓の上で帳面を開く。今日のページの一番下に、ペンを置いた。
『昼 主計係に、配給の量と補給の便を訊く』
その下に、もう一行。
『夜 門の外』
二つの行を、しばらく見ている。
同じ日の、同じページの、上と下。間に書いてあるのは、見積書を預けたことだけだった。
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