第1話 売れすぎた干し豆
よろしくお願いします。
一刻で、豆とパンがなくなった。
売り台の上には、空の木箱が二つ残っている。さっきまで干し豆の小袋が三十積んであったところだ。堅焼きパンの包みも三十。それが、一つも残っていない。
(三日で十袋しか出なかった豆が、一刻で三十)
リナは、帳面の現金の欄を見下ろす。数は合っている。合っているのに、指が冷たいままだ。
売り台の前の兵たちは、まだ散っていかない。空の木箱を見て、それから自分の財布を見る。紐をほどきかけて、やめて、もう一度指をかける。
中身の軽い財布を持った人の手つきだった。
(今日は、給金日の三日後のはずなのに)
その朝、ラーベ砦へ上る坂の途中で、リナは塩の値上げを持ちかけていた。
「師匠。塩、値上げしましょう」
荷台の上で指を折りながら、御者台の背中に声をかける。
ブリュックの河港を出て三日目。朝からずっと上りだ。馬が白い息を吐くたびに、荷台の塩の包みがずれる。さっきから三回直した。
師匠――ガレス・ベルクは振り返らない。灰色の短い髪の上で、色の抜けた古い外套が山風にあおられている。
「1包み4枚を、5枚に。砦の近くで塩を売ってるのは私たちだけです。ほかで買うなら、ブリュックまで片道三日ですし」
「次も買いに来るか」
「来ますよ。ほかにないんですから」
「だから上げない」
却下だった。
(三往復もった。いつもより一往復長い)
荷台の塩を数える。30包み。1包みにつき1枚で、銅貨30枚の儲けがたった今この坂に落ちた。拾いに戻れるものなら戻りたい。
「いつか自分の店を持ったら、塩の値段は私が決めますからね」
「持ってから言え」
「……師匠って、損するのが好きですよね」
「得をしている」
「どこがですか」
返事はない。手綱を持つ手も動かない。
リナは塩の包みを一つ取って、意味もなく積み直す。
革鞄の留め具にぶら下げた真鍮の秤の飾りが、坂の揺れに合わせてからからと鳴る。昔、師匠がくれたものだ。商人は重さをごまかすな、という意味だと思っている。訊いたことはない。
物心ついたときには、もうこの荷馬車の上にいた。師匠に拾われたのだと聞いている。十七になった今も、御者台は師匠のもので、リナの席は荷台だ。
坂を一つ越えると、風の匂いが変わる。煙と、鉄と、獣脂。
灰色の石壁が見えた。
ラーベ砦。アルディア王国の東の端で、グラウ山脈の峠道を見張っている。ラーベ峠を越えれば、その先はもう隣のザルディン王国だ。
兵は二百人。
二百人分の胃袋と財布が、山の上でこっちを待っている。
「ベルクの旦那! 今月も来てくれたのか」
門に着く前から、門番が手を振っている。
「ああ」
門番はそれで満足したらしく、閂を外しにかかる。
砦の兵は、師匠を家名で呼ぶ。十年以上ここへ通っているせいで、門番が何人入れ替わっても「旦那」だけは引き継がれているらしい。リナのほうは、何年たっても「嬢ちゃん」のままだ。
会釈しようと荷台から身を乗り出して、門番の腰に目が行った。
革帯の留め金の、一つ外側の穴。そこだけ革が擦れて白っぽい。今は一つ内側で留めている。
(……痩せた?)
冬支度で走り回っているのかもしれない。締め直しただけかもしれない。革帯一本で人の暮らしは分からない。リナはその考えを、いったん荷台の隅に置く。
中庭に荷馬車を入れると、師匠は御者台から降りて、荷台の脇の木箱まで歩いた。一歩ずつ、地面に足の置き場所を探すような歩き方だ。木箱に腰を下ろすと、もう動かない。
ここからは、リナの仕事だ。この二年ほど、ずっとそうしている。
栗色の髪を一つに結び直して、荷を降ろし、売り台を組み、品を並べる。干し豆の袋を一つ斜めに置いたら、木箱の上で師匠の眉が動いた。まっすぐに直す。見ていないようで見ている。
干し豆の小袋が30。堅焼きパンの包みが30。あとは塩と針と石鹸。荷台の奥の、ハーゼルの祭りに回す荷は、縄をかけたまま手を付けない。
前に来たときは、豆が三日で10袋しか出なかった。それを30袋積んできたのは、冬の前のちょっとした賭けのつもりだった。売れ残ったら、来月また持ってくればいい。
そう思っていた。
売り台の前に、兵が三重に並ぶ。汗と革と泥の匂い。伸びてくる手は、どれも豆とパンに向かう。塩はいつもの半分も減らない。針と石鹸は、誰の目にも入っていない。
「豆を三つ。三つ買うから、一つまけてくれよ」
髭の濃い兵が、売り台に覆いかぶさってくる。
「三つで銅貨6枚です」
「聞こえなかったか? 一つまけて、5枚」
「聞こえました」
リナは笑って、髭の兵の肩越しを指さす。十人以上の顔が、こっちを見ている。
「後ろの皆さんにも、聞こえたと思います」
列のどこかで、誰かが吹き出した。
「嬢ちゃん、俺にもまけてくれるんだよな?」
「俺も三つだ、三つ」
「……分かった、分かったって」
髭の兵は頭をかいて、銅貨を6枚並べる。
銅貨は山の冷気を吸って、指に貼りつくほど冷たい。かじかんだ指で一度目を数え損ねて、二度数える。
(冬の前の買いだめかな。雪で道がふさがる前に、日持ちのする物を抱えておきたいのは当たり前だし)
そう考えたのは、最初の何人かまでだ。
財布を出しもしない兵が、出てくる。
「悪い、嬢ちゃん。ツケにしてくれないか」
その次も。その次の次も。
「冬の備えが積み上がったら、配給も元に戻るって主計係は言ってたけどな」
「それ、先月から聞いてるぞ」
列の後ろで、そんな声がした。
「朝の粥、また薄くなってなかったか」
「なってた。匙を立てたら倒れた」
笑い声が起きる。笑い声なのに、誰の顔も笑っていない。
リナは、ペンを持ったまま兵たちの顔を順に見る。頬の線が、春に来たときより少しずつ鋭い気がする。気がするだけかもしれない。顔は、帳面ほど正直に数を教えてくれない。
それでも、手は正直だ。豆の袋を受け取った手が、すぐに外套の内側へ隠れる。今食べる分ではなく、取っておく分の隠し方だった。
白髪まじりの分隊長が、人垣をかき分けて出てくる。
「嬢ちゃん、俺の名前で足りるか。こいつら三人分、俺が持つ」
「払えなかったら、本当に持っていただきますよ」
「給金日に取り立てて、次に旦那が来たときにまとめて払う。払えねえやつの分は俺がかぶる。いつもどおりだ」
分隊長はリナの手からペンを取って、帳面に名前を書いた。字が大きくて、行からはみ出している。
かぶるのは自分だから、分隊長たちはめったに署名しない。そのめったにしない人たちが、今日は次から次へと列に割り込んでくる。
木箱のほうを見ると、師匠は目を閉じていた。寝ているわけではないと思う。
名前と分隊を一つずつ書き取る。財布は重くならない。ページばかり黒くなる。
ツケの欄は、23人。分隊は七つ。
未収金、銀貨6枚と銅貨2枚。
そこまで書いて、リナはペンを置く。
師匠と砦に来るのは、いつも給金日の直後だ。兵の財布がいちばん重い日を、わざわざ選んでいる。今回も、給金日は三日前のはずだった。
三日前に給金をもらった人たちが、どうしてツケで豆を買うのか。
売れるのは嬉しい。でも、理由の分からない売れ方は、売れ残りより気味が悪い……
列がほどけていく。
一人だけ、動かない兵がいる。
ひょろりとした、まだ十六か十七くらいの兵だ。空になった売り台の前に立って、さっきまで豆の袋が積んであったところを見ている。
「ごめんなさい。豆もパンも、今日はもう売り切れなんです」
「……ああ。いや、はい。大丈夫です」
大丈夫そうではなかった。
リナは少し迷ってから、旅の食料袋に手を入れる。堅焼きパンが一枚。今日の昼の分だ。
「どうぞ」
「え、でも」
「売り物じゃありません。私の昼ごはんです。商品じゃないので、値引きにもならないですよ」
若い兵はパンを両手で受け取って、礼を言いかけた。
言い終わる前に、かじっている。
堅焼きパンは、本当なら水かスープでふやかして食べる物だ。それを、歯が欠けそうな音を立てて噛んでいる。こぼれたかけらを手のひらで受けて、それも口に放りこむ。リナのほうは、もう見ていない。
空になった食料袋の口を縛りながら、リナは門番の革帯の穴を思い出していた。
「おう、繁盛してるじゃねえか!」
中庭に響いた大声に、残っていた兵たちがいっせいに背筋を伸ばす。
熊みたいな大男が、砂利を踏んで歩いてくる。赤茶の短髪に、頬の古い刀傷。軍の上衣がはち切れそうな肩。
守備隊長のバルドだ。この砦で商いができるかどうかも、最後はこの人が決める。行商人がいちばん怒らせてはいけない客だ。
バルドはまず、木箱の師匠の前で足を止めた。自分のほうが背筋を正している。
「ベルク殿。今回も来てくださったか」
「世話になる」
「とんでもない。あんたが来ると、連中の顔が明るくなる」
それから、リナを見る。
「嬢ちゃんも、相変わらず商売上手だな。もう売り切れか」
「はい。おかげさまで」
いつもなら、ここで笑って来月の注文を取りにいく。
「隊長さん。砦の食事、足りていますか」
口から出たのは、そっちだった。
バルドの顔から、笑いが消える。
一瞬だけだ。すぐに腹を揺すって笑い出した。
「うちの連中は食い盛りでな。いくら食わせても足りやしねえ」
笑ったまま、兵たちに向き直る。
「お前ら、いつまで油を売ってる。持ち場に戻れ」
兵たちが散っていく。パンをかじっていた若い兵も、残りを口にくわえたまま走っていった。
バルドは師匠に会釈して、振り返らずに去る。
笑いが消えて、戻るまで。あの一瞬に、隊長は何を考えたのだろう。
「師匠。隊長さん、知ってるんでしょうか」
「売り台を片付けろ」
師匠は、バルドが去ったほうを見もしない。
リナは空の木箱を重ねながら、もう一度そっちを見る。
山の夜は早い。日が落ちたとたん、石壁の影から冷えがにじんでくる。中庭の焚き火に向けた顔だけが熱くて、背中は寒いままだ。
「豆とパンが、現金で銅貨58枚。ツケが23人分で、銀貨6枚と銅貨2枚。合わせて銀貨12枚分です。豆とパンだけでこんなに出たの、初めてですよ」
引っかかることはある。あるけれど、数字を読み上げる声は勝手に弾む。
「塩は8包みで32枚。針と石鹸は、ほぼ手つかずです。明日は兵舎の前で塩と石鹸を出して、夕方の交代を狙おうと思っています。三日目に分隊長さんたちに挨拶して、回収の日取りを――」
師匠が手を出す。
帳面を渡す。
師匠は焚き火のほうへページを傾けて、ゆっくりめくる。現金の欄は、ほとんど見ない。ツケの欄で、指が止まる。
23人分の名前と、七つの分隊の署名。
めくらない。
火の粉が一つ、上へ昇って消えた。
「あの、師匠? 三日目の――」
帳面が閉じられる。
「明日の朝、発つ」
リナは、すぐには言葉が出なかった。
なぜですか、と訊きかけて、師匠の手元に目が行く。閉じた帳面の上に、節の太い指が置かれたままだ。ちょうど、ツケの欄のあたりに。
23人分の名前の上に、師匠の手が載っている。
焚き火の向こうで、兵舎の窓の灯が一つずつ消えていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「続きが気になる」「リナを応援したい」と思っていただけたら、ブックマークや、下の☆☆☆☆☆からの評価をいただけると励みになります。




