第21話 下り坂
坂を下る荷馬車の轍の両側だけが、うっすら白い。
ゆうべ降りはじめた雪は、朝のうちに止んでいた。積もるほどではなかったけれど、道ばたの枯れ草の先が凍って、荷馬車が通るたびにしゃりしゃりと鳴る。
御者台には師匠。荷台の前のほうには、カイルとノアが向かい合って座っている。リナは荷台の端に腰を引っかけて、帳面を膝に開いていた。
「リナさん。すぐり、もう一粒いるっすか」
「さっきもらいました」
ノアは布袋の口を開けて、干したすぐりの実を一粒、リナの手のひらに載せた。それから自分でも一粒。カイルにも一粒。ゲルダが置いていった袋の中身を、ノアはいつのまにか一人で配る係にしている。誰も頼んでいない。
リナは実を口に入れて、帳面に挟んだ紙をもう一度開いた。
出発の前の晩、アルベルト様が置いていった紙だった。
『ロッホ商会 燕麦 月に銀貨12枚』
その下に、辺境伯家の帳簿から写したという払いの欄が、七年分並んでいる。毎月同じ額で、一度も途切れていない。几帳面な字だった。誰が写したのかは書いていない。
書いていないものは、もう一つある。店の場所だ。
(毎月払っているのに、どこにあるか分からない店……)
燕麦は馬の餌だ。辺境伯家の厩なら、馬の数も多いはずで、月に12枚の燕麦は多すぎも少なすぎもしない。額だけ見れば、どこにでもある取引に見える。
帳面の別のページに、指を置く。
領都は、ハーゼルから一日だった。坂を下りきってしまえば、行って戻るのに六日以上かかる。
リナは荷台の前のほうへ、膝で這っていった。
「師匠」
御者台の背中は動かない。手綱を持つ手だけが、馬の首の振りに合わせて少しずつ緩んだり締まったりしている。
「アルベルト様のご相談なんですけど。ハーゼルから領都へ回れば、一日で行けました」
師匠は、しばらく何も言わなかった。
坂の下に、柳橋の宿場の屋根がのぞいている。煙が三本、まっすぐ空に上っていた。風がないのだ。
「豆の取り置きは、いつまでだ」
「……あと四日です」
「豆を砦に納めてからだ」
それだけだった。
リナは「はい」と言って、元の場所へ戻った。
分かっていた。ドルンさんの店の取り置きは、延ばしてもらってあと四日しかもたない。豆を受け取って砦へ上がらなければ、手付をなくすだけでは済まない。砦との約束を破ることになる。領都へ寄り道をしていたら、間に合わない。
分かっていて訊いたのは、紙の上の七年分の欄が、目の端にずっと引っかかっていたからだ。
紙を畳んで、帳面に戻した。
相談料は、まだ決まっていない。決まっていない仕事に、日にちも銭も使うわけにはいかない。
「気になってるくせに」
カイルが言った。荷台の板に背中を預けたまま、目だけこっちを見ている。
「気になってます。でも、相談料がまだなので」
「相談料が決まったら、行くんだな。領都」
「師匠が、豆のあとならいいって」
「そうは言ってなかったと思うけどなー」
「豆を納めてから、って言いました。納めてからなら、いいってことですよ」
カイルは笑ったような息を吐いた。それから、左腕を膝の上に置き直した。ハーゼルで打たれた腕だ。巻いた布の下の腫れは引いてきているけれど、まだ重い荷は持たせていない。
アルベルト様の名前が出たあたりから、カイルは腕の布ばかりいじっていた。痛むのかもしれない。
「腕、痛みますか」
「いや」
「痛むなら言ってください。薬代は、事業の財布から出すって決めてあるので」
「……痛くねえよ」
ノアが、二人の顔を交互に見て、すぐりをもう一粒口に放りこんだ。
柳橋の宿場に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
ノアは荷台から身を乗り出して、宿場の看板を一枚ずつ目で追っている。
「ここ、来るとき泊まったとこっす。で、あっちが鍛冶屋で、その先の角が粉屋っす」
「よく覚えてますね」
「二週間前っすよ」
二週間前のことを覚えていない人のほうが多い、とリナは思ったけれど、言わなかった。
「この先が三本松で、その次が河っす。……河、でかいんすか」
「大きいですよ。船が通ります」
「船」
ノアは口の中でもう一度「船」と言って、それきり黙った。ハーゼルより下に降りるのは、生まれて初めてなのだという。
宿の大部屋の隅で、夜、リナは帳面の現金の欄を開いた。
ブリュックで払う豆の残金が、銀貨11枚。砦に納めて、ブリュックの支所で受け取る代価が18枚。その間に、宿代と飼い葉と、カイルさんの日当と、ノアさんの食事が毎日出ていく。祭りの荷はまだ三割ほど残っていて、道々売り歩けば少しは戻るし、砦ではいつものように売り台を出せる。
それでも、18枚が入るまでは財布の底が見えている。
ペンの先で、18の数字を一度だけなぞった。
師匠は、壁際の寝台でもう目を閉じていた。
三本松の粉屋は、水車の音より先に、粉の匂いで分かる。
「おう、ベルクの嬢ちゃんか」
オットーさんは、肩から髭まで相変わらず真っ白だった。樽のような体を戸口に押しこむようにして出てきて、荷台のノアを見て眉を上げる。
「なんだ、人が増えてるな」
「ノアさんです。この冬から、うちで働いてもらってます」
「ノアっす」
「ほう。食い扶持が増えりゃ、パンも増える。いいこった」
リナは、ハーゼルを発つ前の晩に師匠が名を書いた欄を、オットーさんに見せた。
「堅焼きのパンを、毎月40包み。まず一月です。明後日の夕方、砦へ上がる途中で受け取りに寄ります」
「四十、明後日の夕方、と」
オットーさんは帳場の台から仕入れ帳を引き寄せて、その場で書きつけた。それから、奥に向かって声を張る。
「おい、書いたぞ! 四十だ!」
「聞こえてるよ。書かなくても忘れないってのに」
奥から女房が顔を出した。
「書いとかねえと、お前にどやされるだろうが」
「どやすのは、書かないで忘れたときだけだよ」
ノアは、いつのまにか焼き窯の前に立って、中をのぞきこんでいた。女房が笑って、端の割れたパンを一枚、ノアの手に載せる。
「割れたのは売り物にならないからね。食べな」
ノアはさっそくかじって、顎を止めた。
「……かたいっす」
「堅焼きだからね」
「歯が、負けたっす」
女房は声を出して笑った。オットーさんも笑って、それから少し声を低くした。
「ハックの親方のとこの馬宿な。あれから閉まったままだ」
宿場の外れの、車輪に一本線の荷印の看板を、リナは来るときに見ている。看板はまだ掛かっていたけれど、厩の戸は閉まっていた。
「親方は、砦で預かりのまんまだってよ。運ぶ店が一つ減ったから、坂の便を引き受ける店が見つからねえって、ブリュックの連中がこぼしてた」
オットーさんは仕入れ帳を閉じた。
「ま、おれの知ったこっちゃねえ。パンは焼くさ」
ブリュックの河岸は、冬の前の最後の荷で詰まっていた。
川船が三艘、岸に横付けされている。帆を下ろした船の甲板から、人足が肩に袋を担いで次々に板を渡ってくる。岸には樽と袋が積まれていて、どれにも店の荷印が焼き付けてあった。麦の穂、錨、三つの輪、交差した二本の櫂。
ノアは荷台の上で、首を左右に振りっぱなしだった。
「船、でかいっす」
「あれは中くらいですよ」
「あれで、中……」
ノアは岸の袋の山に目を移して、指を一本ずつ折りはじめた。
「錨が、こっちとあっちで二つ。輪っかが、あそこに一つ。穂のやつが、三つっす」
「荷印です。字が読めない人足さんでも、印を見ればどこの店の荷か分かるので」
「印を見れば、どこの荷か分かるんすね」
ノアはもう一度、岸の山を見回した。さっきとは目の動かし方が違う。数えているのではなく、覚えている顔だった。
ドルン乾物店の棚は、相変わらず天井まで豆の袋で埋まっていた。
「来たね」
女主人は、リナの顔を見るなり豆の袋を平手で叩いた。中で豆が跳ねる。
「砦の印の書付、ちゃんと届いたよ。ひと月近く前だったかね。伝令の兵隊さんが馬で乗りつけてきたもんだから、何事かと思った」
「すみません、驚かせて」
「驚いたさ。乾物屋に兵隊が来るなんて、借金の取り立てくらいだからね」
女主人は奥から帳面を持ってきて、取り置きの欄を開いた。秋のはじめにリナと女主人が同じ一行を書いた、あの欄だ。その下に、書付の届いた日が書き足してあった。
100袋は、店の奥にまとめて積まれていた。
リナは財布から銀貨を出して、一枚ずつ数えて台に並べた。11枚。手付の1枚と合わせて12枚。女主人が数え直して、帳面に線を引く。
財布が、急に軽くなった。
持った手に分かるほど軽い。中身を知っているのだから当たり前なのに、手のほうが先に驚いている。
「ベルクの旦那の弟子にしちゃ慎重だったけど、ちゃんと取りに来たね」
「取りに来ないと、手付がもったいないので」
「手付だけじゃないだろ」
女主人は鼻で笑った。それ以上は言わなかった。
豆の袋を荷台へ運ぶ。一つは1kgほどの小袋だけれど、100となると山になる。カイルが両手に二つずつ抱えて持ち上げかけたので、リナはその手から袋を一つ取った。
「腕。ノアさんに回してください」
「これくらい、どうってことないって」
「どうってことないなら、なおさらノアさんにお願いします」
カイルは何か言いかけて、黙って袋をノアに渡した。ノアは嬉しそうに袋を四つ抱えて、荷台に駆け上がっていく。
飼い葉は、河岸の上手で買う。
馬つなぎ場の向かいに、干し草の束を軒下まで積み上げた店がある。ケラー飼料店。軒先の看板の荷印は、麦の穂を束ねた輪だった。師匠がブリュックに来るたびに馬の燕麦を買う店で、リナも小さいころから何度も来ている。
荷馬車を止めると、帳場から五十がらみの男が出てきた。前掛けに干し草の屑をつけたまま、手を拭きながら荷馬車の前に回る。
「やあ、ベルタ。また痩せたんじゃないか」
男は、師匠の馬の鼻面を撫でた。
リナは、帳面を出しかけた手を止めた。
(……ベルタ?)
馬が、男の手のひらに鼻を押しつけている。名前を呼ばれて、耳が前を向いていた。
「旦那、お久しぶりで。脚のほうは、どうです」
御者台の師匠は、軽くうなずいただけだった。男はそれで十分だというように笑って、リナのほうを向いた。
「嬢ちゃんも、大きくなった。今年は人が多いね」
「カイルさんと、ノアさんです。……あの、番頭さん。この馬、ベルタっていうんですか」
番頭は、きょとんとした顔をした。
「知らなかったのかい。十年くらい前かね、旦那がここで、そう言ったんだよ。ベルタだって」
リナは御者台を見た。
師匠は、川のほうを見ていた。
この馬の背を見て、リナは育った。毎朝馬具をつけて、毎晩水をやって、ハーゼルでもラーベ砦でも、宿の厩で一番先に干し草を運んだ。呼ぶときは「馬」だった。師匠もずっとそう呼んでいたはずだ。
カイルが、口を押さえて肩を震わせている。
「笑うところじゃないです」
「いや、悪い。……十年」
「十年です」
ノアだけは笑わずに、荷台から身を乗り出して、馬の首に手を伸ばしていた。
「ベルタ。ベルタっすね」
馬が首を振った。ノアは、それを返事だと受け取ったらしかった。
「で、今日は何にします」
番頭の声が、少し変わった。さっきまでの世間話の調子から、急に短くなる。
「砦へ上がって、ここへ戻ってくるまでの分です。燕麦と、干し草を」
「往復で六日。坂がある。燕麦は半袋。半袋なら八。干し草は、坂の分を見て三束」
リナが帳面で同じ計算を終える前に、番頭はもう答えを出していた。リナは自分の数字と比べて、うなずいた。合っている。
銅貨を数えて払うと、番頭は干し草の束を四つ、荷台の後ろに積んだ。
「一つ多いです」
「ベルクの旦那の馬なら、一束おまけだ。毎年のことだよ」
「毎年……」
リナの帳面には、ケラー飼料店のおまけの欄はない。
番頭はノアを手招きして、干し草の束の積み方を教えていた。
「坂を上るなら、重いのを前だ。馬の背に近いほうへ。後ろに積むと、上りで荷台が尻を振る」
「前っすね。重いの、前」
「そう。覚えがいいね」
ノアは、束を一つずつ積み直しはじめた。番頭は、それを満足そうに見てから、御者台の師匠にもう一度頭を下げた。
「旦那。冬の坂です。お気をつけて」
いい店だ、とリナは思った。
宿に荷を入れて、師匠を一階の部屋に落ち着かせてから、リナはもう一度外に出た。
カイルが、黙って後ろについてくる。
「どこ行くんだ」
「支所です。砦から戻ったら、豆の代価をそこで受け取るので。窓口と、受け取れる刻限を先に確かめておきたくて」
「戻ってからでいいだろ」
「戻ってから分からないと、待つ日の宿代がかかります」
カイルは、それ以上は言わなかった。
補給局ブリュック支所は、河岸から一本入った通りの石造りの建物だった。前を通ったことは何度かある。いつもは戸口が開け放してあって、出入りの商人や御者が絶えなかった。
今日は、戸口の前に誰もいない。
戸の横の板に、紙が一枚張ってあった。
『本局の監察により帳簿を検めるあいだ、当支所の払い出しを見合わせる』
リナは、その一行を二度読んだ。
中に入ると、窓口に男が一人だけ座っていた。帳面を広げているけれど、ペンは持っていない。
「あの、払い出しの見合わせというのは、いつまでですか」
「監察の主計官殿に訊いてくれ。おれには分からん」
「納めた荷の代価も、止まるんでしょうか。ラーベ砦に、豆を納める約束をしているんです。納めたあとで、ここで受け取ることになっていて」
「全部だ」
男は、面倒そうでもなく、ただ疲れた声で言った。
「運賃も、納めの代価も、全部止まってる。おれが止めたんじゃない」
リナは「ありがとうございます」と言って、窓口を離れた。
豆は、納めなければならない。約束だから。納めても、18枚は入らない。入らないまま、宿代とカイルさんの日当と、ノアさんの食事は、毎日出ていく。
財布の底が、見えているどころではなくなる……
カイルは、窓口の男が何度も奥の部屋へ目をやるのを見ていた。
奥の部屋の戸が、半分開いている。
帳簿が、机の上に山になって積まれていた。その前に、若い男が一人座っている。紺と白の軍服を、襟元まできっちり留めていた。背筋が、椅子の背から指一本ぶん離れたまま、少しも曲がらない。
帳簿の横に、擦り切れた小さな本が一冊、開いて置いてあった。
男は帳簿の一行を指でたどり、それから小さな本のページをめくった。また帳簿へ戻る。その繰り返しを、リナが戸口に立っているあいだに三度した。
一度も、顔を上げなかった。
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