第22話 厩の書付
夜明け前の厩で、ノアがベルタに馬具をつけている。
「ベルタ、こっち向くっす。……そう。いい子っす」
昨日まで「馬」だったのが、一晩で「ベルタ」になった。ノアは名前を呼ぶたびに、首を軽く叩いてやっている。ベルタのほうも、まんざらでもない顔で耳を動かしていた。
リナは荷台の豆の袋を数え直してから、御者台の横に立った。
支所の張り紙のことは、ゆうべのうちに師匠に話してある。師匠は黙って聞いて、そのまま寝てしまった。
外套の前を合わせながら、師匠が御者台に上がる。手すりをつかむ手に、少し時間がかかった。
「砦で、いくら戻る」
「パンが40包みで、売れれば80。塩と針と石鹸で、あと60くらいだと思います。ハンスさんたちのツケは、半分戻れば30と少し」
リナは帳面を開かずに答えた。ゆうべ、もう三回数えてある。
「それでも代価が入らないと、ブリュックに戻ってから、宿代が持たない日が来ます」
師匠は手綱を取った。
「納めるのは、約束だ」
それだけ言って、ベルタの背に軽く手綱を当てた。
三本松に着いたのは、日が傾いてからだった。
粉屋の戸口には、もう包みが積んであった。麻布でくるんだ堅焼きのパンが40。オットーさんが一つずつ指でたどって数え、リナも数え、二人の数が合ったところで、銅貨を渡した。
「渡した、と」
オットーさんは仕入れ帳にそう書いてから、顔を上げた。
「来月も四十でいいのか」
「まず一月です。来月の分は、戻ってから決めます」
「そうかい。じゃあ、来月のとこは空けとく」
空けておく、という欄まで、オットーさんは仕入れ帳に書いた。
雪は、翌日の昼から降り出した。
柳橋の宿場に入るころには、道の轍が見えなくなっていた。宿の厩は、もう荷馬車で埋まっている。一番奥に、二頭立ての大きな荷馬車が三台、並んで入っていた。燕麦の袋と干し草の束を、高く積んでいる。
荷台の側板に、荷印が焼き付けてあった。三重の輪に、縦の線が一本。
ノアが足を止めた。
「これ、どこの印っすか」
馬の脚についた雪を払っていた男が、顔を上げた。二十代の後半くらいの、日に焼けた男だった。手袋を外した手の甲が、手綱の擦れで硬くなっている。
「領都のザイデルだ」
「ザイデル」
「燕麦屋だよ。砦へ燕麦を運んでる。ブリュックの河岸で積んできた」
男は、ノアがベルタの手綱を引いているのを見て、少し目を細めた。腰の袋に手を入れて、燕麦を一つかみ出す。
「ほら、坊主。馬に食わしてやんな。雪の日は、腹が減るんだ」
ノアは両手で受け取って、ベルタの鼻先に差し出した。ベルタは遠慮もせずに平らげた。
「ベルタっていうっす」
「いい名前だ。おれのは、こいつがグラウで、隣がハンネ」
男は自分の馬を一頭ずつ指さしていった。三台で六頭。ノアは、名前を言われるたびに、口の中でくり返している。
「ルッツだ。おれの名前も覚えとけ」
「ルッツさん。覚えたっす」
覚えた、とノアが言うときは、本当に覚えている。リナはそれを、ハーゼルで知った。
夜、宿の炉端は御者でいっぱいになった。
濡れた外套が、壁の釘という釘に掛けてある。湯気と、馬の匂いと、煮込みの匂いが混ざって、息をするたびに鼻の奥が温かい。ザイデルの御者たちは炉の一番近くに陣取って、木の椀を抱えていた。
「冬の坂は、これだから嫌なんだ」
年かさの御者が、椀の縁をすすりながら言った。
「毎月三台、冬は五か月。雪の月に当たるのは、だいたいおれたちだ」
「去年は二度、柳橋で足止めを食った」
ルッツが言うと、ほかの二人がうなずいた。
「領都からなら、ハーゼルを抜けて二日半で着く。ブリュックの河岸で積むから、三日かかるうえに、坂だ」
「なんでわざわざ、ブリュックで積むんですか」
リナが訊くと、年かさの御者は肩をすくめた。
「燕麦は低地のほうが安い。川船で河岸まで上がってくるのを、そこで買うんだ。旦那の決めたこった。おれたちは運ぶだけさ」
(燕麦も、河岸で買うと安いんだ……)
馬の燕麦は、いつも半袋ずつ買うだけだった。袋でまとめて買う値段を、リナは知らない。帳面の端に「燕麦 河岸」とだけ書いて、閉じた。
ノアは炉端の隅で、ルッツの隣に座っていた。御者の一人が、ノアの手袋のすり減り方を見て、どこで荷役をしていたのかと訊いている。ノアが「ハーゼルの仲買人の倉庫っす」と答えると、御者たちは一瞬だけ顔を見合わせた。ハーゼルの検めの話は、もう坂の下まで届いているらしい。
「あそこの枡の話、本当か」
「本当っす」
ノアは、それ以上は言わなかった。
次の朝になっても、雪は止まなかった。
宿の亭主は、戸口から外を一目見て首を振った。
「今日は誰も出られねえよ。坂の手前で動けなくなるのがおちだ」
ザイデルの御者たちも、炉端で馬具の手入れを始めている。出るつもりはないらしい。
リナは、大部屋の隅で帳面を開いた。
納期まで、あと四日。柳橋から砦までは一日。今日動けなくても、明日の朝に出られれば、明日の夕方には着く。明日もだめなら、その次の日。二日続けば、納期の前日。
豆は、雪で傷むものではない。乾いた袋に詰めてある。
困るのは、宿代のほうだった。動けない日も、宿代と飼い葉とカイルさんの日当とノアさんの食事は、同じように出ていく。動かない荷馬車の上で、豆の代価だけが遠くなっていく……
師匠は炉端にいた。外套を着たまま、火のほうを向いて座っている。宿の中は暖かいのに、一度も脱がなかった。
昼をすぎたころ、カイルが一人で外に出ていった。
しばらく戻らないので戸口からのぞくと、宿の前の道のまんなかに立って、空を見上げている。肩にも頭にも雪が積もっていた。
「何してるんですか」
「空を見てる」
「見れば分かります」
カイルは、指で北の山の端を指した。
「朝は、雪があっちから来てた。昼から、こっちに回ってる」
指が、西のほうへ動く。
「風が回って、雲が高くなってきた。峠の冬に、傭兵団でこういうのを何度か見た。こうなると、夜のうちに止むことが多い」
「多い、ですか」
「止まなかったら、おれの読み違いだ」
カイルは、頭の雪を手で払った。
「明日の朝、出る支度はしといていいと思う」
リナはカイルの横に並んで、同じ方向を見上げた。雲の高さなんて、リナには分からない。雪は、さっきと同じように降っている。
「一人で雪の中に立ってたら、風邪をひきますよ」
「仕事だよ」
「護衛の仕事に、空を見るのは入ってないです」
「入ってるって。……天気を読むのも、荷を守るうちだろ」
リナは帳面の、カイルさんの日当の欄を思い出した。今日も、街道の日のぶんが一行増える。柳橋から一歩も動いていないのに。
言いかけて、やめた。言っても、雪は止まない。
「中、入りましょう。師匠が、ずっと外套を着たままなんです」
「旦那が?」
カイルは、戸口の奥の炉端をちらっと見た。それから、何も言わずにリナより先に中へ入った。
夜更けに、宿の屋根を打つ音が止んだ。
リナは寝台の上で目を開けて、しばらく耳を澄ませていた。それから、もう一度目を閉じた。
雪の残る坂を、ベルタは一歩ずつ上った。
ザイデルの三台は、夜明けと同じころに先に出ていた。轍がついているぶん、後ろの荷馬車は楽になる。ノアは「ルッツさんの轍っす」と、ずっと前を指さしていた。
ラーベ砦の門が見えたのは、夕方だった。
三台の荷馬車は、もう門を抜けて、厩のほうへ曲がっていくところだった。
門番が詰め所から出てきて、リナの荷馬車の前に立った。腰の革帯の穴は、秋より一つ外側に戻っている。
「ベルクの旦那の荷か」
「はい。豆を納めに来ました」
リナが送り状を渡すと、門番は詰め所に戻って帳面を開いた。太い指でペンを握って、一行書きつける。日付、ベルクの行商、荷馬車一台。それから送り状を見て、干し豆の小袋100袋。
書き終えて、門番は帳面を閉じた。
「通っていい。……今度は、ちゃんと中で売れるな」
「はい。売ります」
門の内側で、若い兵が手を上げているのが見えた。秋に、パンをかじって「硬かったです」と言った兵だ。
翌朝、主計係の部屋で、トマスが豆を数えた。
一袋ずつ、机の端から端へ移していく。机の上の物は、相変わらず全部まっすぐ置かれていた。ペンも、印も、綴りの束も、机の縁と平行になっている。数え終わるまで、トマスは一度も口を開かなかった。
「100袋。確かに」
トマスは受領書を書き、砦の印を押した。
「代価は、ブリュックの支所で」
「その支所なんですけど」
リナが張り紙の話をすると、トマスの眉が寄った。ペンを机に戻す。戻したペンの向きを、指で少し直した。
「払い出しを、全部ですか」
「全部だそうです」
戸口で、太い声がした。
「支所のことは、俺にはどうにもならねえ」
バルドが入ってきた。部屋が急に狭くなる。
「あそこは、俺の下じゃねえからな。……だが、豆は届いた。届いたってことは、俺が書いてやる」
バルドはトマスの手から受領書を取って、印の横に、自分の名前を書き足した。大きな字で、紙の端からはみ出しそうだった。
「隊長の名前があって、払わねえってことはねえだろ。リナ、持ってけ」
「……ありがとうございます」
バルドは、腕を組んで窓のほうを見た。
「ハーゼルの麦な。三日遅れで届いた。袋の数が、送り状より多かった」
「量り直して、足りない分を足したそうです」
「集荷商の手紙に、そう書いてあった。……ベルクの行商の、嬢ちゃんが言い出したってな」
バルドは窓から目を戻さなかった。
「冬の麦が、一袋ずつ少し軽いまま来てたら、俺は気づかなかった。袋の数しか数えねえからな」
それだけ言って、バルドは部屋を出ていった。戸口で一度足を止めて、振り返らずに言う。
「売り台は、門の内側に出せ。軒下の乾いたとこだ」
リナは受領書を受け取って、帳面に挟んだ。
売り台は、門の内側に出した。
秋に締め出されたときは、門の外の石の上に布を広げていた。今日は、兵舎の軒下の乾いた地面だ。
オットーさんのパンは、昼前に半分がなくなった。塩の包みを並べたところで、ハンスがやって来た。
「来たな、嬢ちゃん。一包み頼む」
ハンスは銅貨を数えながら、塩とは関係のない話を始めた。雪で歩哨の交代がつらいこと、炊事場の新しい鍋がすぐ焦げること、隊長が最近やたらと報告を読みたがること。
「おかげで、主計係が毎晩遅くまで灯をつけてる。トマスのやつ、前は日が落ちたら寝てたのによ」
ハンスは、分隊長たちから預かったという銅貨の包みを、売り台の端に置いた。
「ツケの分だ。全部は無理だった。半分と、ちょっとだな。残りは、次の給金のあとで」
リナは包みを開けて数えた。35。帳面のツケの欄の横に、受け取った数を書く。
「確かに。残りは、次に来たときに」
「次も来るのか」
「来ます。まだ、残りがあるので」
ハンスは笑って、塩を外套の内側にしまった。
若い兵は、昼すぎにパンを二包み買っていった。
「秋のは、ずっと取っておいたんですけど」
「今度は?」
「今度は、すぐ食べます」
兵は包みの一つをその場で開けて、一枚かじった。硬い、とは言わなかった。
ノアは、朝から厩のほうに行ったきり戻ってこなかった。
昼に様子を見に行くと、ザイデルの荷下ろしを手伝っていた。燕麦の袋を肩に担いで、厩の奥の穀物置き場に運んでいる。ルッツが、袋を渡しながら馬の名前を言い、ノアがくり返している。グラウ、ハンネ、それから四つ。
「全部覚えたっす。六頭」
ノアは、空になった荷台の前で、指を六本立ててみせた。ルッツが笑って、ノアの頭を乱暴に撫でた。
夕方、売り台を畳んでいると、トマスが綴りを一冊抱えてやって来た。
「少し、よろしいですか」
トマスは周りを見回してから、軒下の柱の陰に入った。リナもついていく。
「秋のことがあってから、砦の綴りは全部読むようにしています。隊長も読むので、わたしが読んでいないものがあると、困るので」
トマスは、少し照れたように言った。
「厩の勘定は、これまで主計係の手順の外でした。馬の物は、厩の軍曹が受け取りの書付に署名して、それで終わりです。今月から、それも読んでいます」
綴りを開く。月ごとの燕麦の受け取りが、一行ずつ並んでいた。どの月も、二行ずつある。
一行目は、ザイデル商会。さっき厩に荷を下ろしていた、三重の輪の荷印の店だ。
二行目の名前を、トマスが指で押さえた。
「ブリュックで商いをされているなら、ご存じかと思って。この商人、どこの店でしょう」
トマスは、指を名前の上に置いたまま言った。
「名前は毎月あるのに、門の帳面でも、顔でも、一度も見たことがないんです」
リナの目が、その名前で止まった。
帳面に挟んだ紙のことを、思い出すまでもなかった。今朝、受領書をその隣に挟んだばかりだ。
綴りの二行目に、几帳面な厩の軍曹の字で書いてある。
『ロッホ商会 燕麦』
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