002_1日1億円の招待状
ゴー、というかすかなロードノイズと、大型ディーゼルエンジン特有の低い振動だけが、遮光シートに覆われた車内に響いていた。
隣に座るアキラは、リクライニングを深く倒し、キャップを深く被り直してすでに寝息を立て始めている。
僕はポケットからスマホを取り出し、画面の輝度を一番低く落とした。
映し出されたのは、数日前に受信した、送信元が暗号化された一通のメールだ。
その文字列を眺めていると、僕の意識は、引きずられるようにあの「予選落ちの夜」へと戻っていった。
品川の、家賃と管理費を三人で折半していた2LDKのシェアハウス。
リビングの空気は、通気口から流れ込む都会の熱気と、冷めきったコンビニ弁当の匂いで満ちていた。
誰も口を開かなかった。ただ、トリプルモニターから発せられる液晶の淡い光だけが、僕たちの疲れ果てた顔を白く照らしている。
画面に映っていたのは、僕たちが全滅した瞬間のリプレイ映像だった。
『セロ!右、遮蔽の裏!抜けるか!?』
アキラの緊迫した声が、僕の脳内で再生される。
あの時、画面の右奥にあるコンクリートブロックの影に、敵の影が確かに見えた。アキラのエイム(照準)なら、飛び出せばコンマ数秒で頭を撃ち抜けたはずだった。
だが、チームの司令塔である僕の脳裏に、最悪の選択肢が過った。
(……待て、これは囮じゃないか?)
ほんの一瞬、指先が強張り、指示がブレた。
『待て、アキラ、引け!』
僕がそう叫んだ時には、すべてが遅すぎた。僕の迷いを見透かしたかのように、北米帰りの国内最強クランが仕掛けた完璧なクロスファイア(十字砲火)が、アキラの操作するキャラクターをハチの巣にした。
ゲームオーバー。画面を覆う【ELIMINATED】の非情な赤文字。
その瞬間に、僕たちの世界大会への夢も、何千万円もの賞金も、すべてが泡となって消えた。
『俺、もう無理だわ』
チームの精神的支柱だったハルさんが、ぽつりと言った。彼の目は赤く充血し、手は微かに震えていた。
『もう34だ。指の反応速度も落ちてきた。これ以上、若いやつの足を引っ張りたくない。……プロ、辞めるわ』
引き留める言葉を、僕は持っていなかった。
ハルさんが泣きながら出ていった後、リビングには僕とアキラだけが残された。チームの活動資金は底をつき、スポンサーからの支援も打ち切られる。勝たなければ、僕たちはただの「画面を見て指を動かしているだけの無職」だった。
その翌夜、僕の個人アドレスに、あのメールが届いたのだ。
『次世代ミリタリーシミュレータ【天之尾羽張】極秘ベータテストの御案内』
文面には、信じられない条件が並んでいた。
期間は一週間。外部との連絡を一切断つこと。そして何より、
『本プロジェクトは、一日の総予算一億円をもって運営されます。参加されるテストプレイヤーの皆様には、一律で【日給二百万円】をお支払いいたします』
「なぁ、セロ。これ、絶対に裏があるよな。臓器でも売られるんじゃねぇの?」
翌朝、リビングのソファでメールの画面を見せたとき、アキラは力なく笑った。当然だ。ただのゲームのテストに、1日1億円、1人に日給200万なんて金が動くわけがない。
「でも、行くんだろ」
僕がそう言うと、アキラは自嘲気味に鼻を鳴らし、自分の右の拳を強く握りしめた。
世界に行けなかった悔しさ、自分たちの実力を証明したいという飢え。そして何より、僕たちには明日を生きる金がなかった。
『お前たちの脳を、二百万で買ってやる』
メールの裏から、そんな冷酷な声が聞こえる気がした。それでも、僕たちはその契約書にサインをしたのだ。あの東京ドームのステージで味わった、惨めな敗北感を札束で叩き消すために。
不意に、バスの車体が大きく横に揺れた。
これまでの滑らかな舗装路とは違う、ごつごつとした未舗装の路面の質感が、シートを通じてダイレクトに伝わってくる。
スマホの画面を見ると、アンテナのマークは完全に消え、【圏外】の二文字が白く冷たく浮かび上がっていた。バスはいよいよ、人里を完全に離れ、山陰の険しい山奥のさらに奥へと分け入り始めていた。




