第93話 烈火の理由
辺境の立入禁止ダンジョン。本州の西端、山口県の山間部に位置するその穴は、地図上では「封鎖済み」の赤い印がついているだけだった。
入口は錆びたフェンスで囲われ、警告看板が三枚。最後の点検記録は八年前。管理局の人間すら近寄らない場所だった。
朝七時。霧島征一郎がフェンスの鍵を開けた。
「ここから先は立入禁止区域です。管理局の許可証は私が発行しています。法的な問題はありません」
霧島の声は淡々としていた。だが鍵を回す指先が、わずかに震えていた。
イエヤスはそれを見なかった。見ていたのは凛だけだった。
地下へ降りる階段は、苔と湿気に覆われていた。
先頭は霧島。次に刃。その後ろにイエヤス、凛、セリア。中央につむぎとあかり。最後尾にユア。
ユアは黙っていた。朝からほとんど喋っていなかった。いつもの姉貴面は影を潜め、唇を引き結んで前だけを見ていた。
イエヤスが振り返った。
「ユアさん、大丈夫っすか」
「……別に。暗いとこ嫌いなだけ」
「あー、わかるっす。俺も暗いとこ嫌いっす」
「アンタ採掘者でしょ」
「それとこれとは別っす」
ユアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
凛が前を向いたまま言った。
「喋ってないで足元見て。苔で滑る」
「はい」
「了解」
二人の返事が揃った。凛は何も言わなかった。
◇◇◇
地下四層。
空気が変わった。湿気が消え、代わりに乾いた熱が足裏から伝わってきた。
つむぎが端末を見た。
「振動、検知しました。境界核と同じ周波数帯。強度は——ここからさらに下です」
「どのくらい深いの?」
凛が聞いた。
「あと二層。振動源は第六層の最奥部」
霧島が足を止めた。全員に向き直った。
「ここから先は私が話します。皆さんは手を出さないでください」
静かだった。命令ではなく、依頼でもなく、ただ動かしようのない事実を述べるような口調だった。
その目は刃に向けられていた。
刃は答えなかった。ただ一度、小さく顎を引いた。
霧島はそれで十分だと判断したのか、再び歩き出した。
◇◇◇
第六層。最奥部。
天井が消えていた。
地下であるはずの空間に、巨大な吹き抜けが広がっていた。壁面は溶けたように滑らかで、赤黒い光を放っている。誰かが何度も何度も、ここを叩いた痕だった。
その中央に、男が立っていた。
上半身裸。背中に無数の古い傷跡。右手に何も持たず、左手を壁面に当てている。壁は脈動していた。微かに、規則的に。心臓のように。
男が手を離した。
振り返った。
「——遅ぇよ、征一郎」
霧島が立ち止まった。二十年ぶりの声だった。低く、太く、少しだけ掠れている。
「……気づいていたんですか」
霧島の口調が変わった。変わっていないように聞こえるが、語尾がほんの少し揺れていた。
「三日前からお前の足音が聞こえてた。相変わらず右足が重い。膝、治ってねぇだろ」
「あなたが壊したんです」
「知ってる」
神代烈火。四十代半ば。頬は削げ、目の下に深い隈がある。だが目だけは二十年前と変わらなかった。炎のような金色。ユアと、同じ色だった。
霧島が一歩前に出た。
「あなたのやっていることは逆効果です」
「知ってる」
「——知っていて続けているのか」
敬語が崩れた。ほんの一瞬だった。霧島はすぐに表情を戻した。
「叩くたびにエルフの世界が揺れてるのは、わかってる」
烈火の声には悪びれがなかった。事実を述べているだけだった。
「では、なぜ続けるんです」
「やめたらどうなるか、お前にはわかるだろ。頭いいんだから」
霧島が黙った。
つむぎが端末を開いた。周囲の振動データ、壁面の組成分析、魔力濃度の測定。指が走る。三十秒。一分。データが積み上がる。
「……霧島課長」
つむぎの声が静かに割り込んだ。
「この壁面、境界核の振動を吸収しています。叩くことで振動の一部がここに逃げている。もし二十年間これが行われていなかったら——」
端末の数値を見た。
「——人間世界側のダンジョンは、七年前に構造崩壊を起こしていた可能性があります」
全員が黙った。
烈火が笑った。歯を見せて、乱暴に。
「聞いたか征一郎。俺がサボってたら東京に穴が開いてたんだよ。感謝しろ」
「感謝はしません」
霧島の声は低かった。
「なぜ、一人で抱え込んだんです」
烈火が肩をすくめた。当たり前のことを聞くな、という顔だった。
「その方がモテるからだ」
「——」
「どっちにしろ、俺しかできねぇ。お前にこの壁叩けるか? 無理だろ。一発で腕が折れる」
霧島は何も言い返せなかった。事実だった。あの夜、霧島は烈火に勝てなかった。二十年経った今も、その差は埋まっていない。
だがイエヤスが口を開いた。
「親父」
烈火の目がイエヤスに移った。金色の瞳が、少しだけ細くなった。
「……少しはモテるようになったようだな」
「……そうか?」
「わかってねぇのか!? バカなとこまで俺に似なくて良かったのにな」
「仕方ないだろ、親子なんだから」
イエヤスは黒ツルハシの柄を握った。振動はない。ここでも沈黙したままだ。
「親父。でもそろそろ限界だろ」
烈火の目が変わった。笑みが消えた。
「ガキが言うようになったな」
「見りゃわかる。顔、げっそりしてんじゃん」
「うるせぇ。イケメンが痩せたらもっとイケメンになるだけだ」
「いや、俺でも分かる。今の親父はモテない」
烈火が腕を組んだ。壁に背中を預けた。赤黒い光が背中の傷を照らした。
「ちっ。変な所でいつも鋭いんだよな……そうだよ、限界だ。あと二、三回が精一杯だろうな」
あっさりと言った。
「だから次の世代が要る。俺はモテるしな。だけど——まだお前らは足りない。俺を倒せるくらいじゃないとどうしようもないぞ」
イエヤスが眉を上げた。
ユアが一歩前に出た。
「——久しぶり」
烈火の目がユアを捉えた。金色と金色が交差した。
「指輪、外してんのか」
「外した」
「そうか」
それだけだった。父と娘の十数年ぶりの再会にしては、あまりに淡白だった。だがユアの拳は白くなるほど握り締められていて、烈火の目はほんの一瞬だけ、逸らされた。
セリアがユアの肩にそっと手を置いた。ユアは振り払わなかった。
◇◇◇
沈黙を破ったのは刃だった。
音もなく動いた。一歩。二歩。三歩目で、手刀が烈火の喉元に向かって走った。
鈍い音。
烈火の左手が、刃の手首を掴んでいた。
見てすらいなかった。ユアを見ていた目をそのままに、左手だけが動いていた。
「——やっと来たか、氷室の息子」
烈火は初めて刃と真正面から向き合った。だが、まだ名前は呼ばない。
「お前、アイツに似て手がはやいな。あと目つきも似てる。もっと愛嬌出せ。モテねぇぞ」
刃の全身が、怒りで硬直した。
あの手紙の記憶が蘇る。十数年間着け続けた腕輪を「重すぎる失敗作」と切り捨てた男。母のシチューを「マジで不味かった」と追伸に書いた男。今、目の前にいる。
「……黙れ」
刃の声が、低く、削がれたように響いた。初めて聞く音だった。
烈火が刃の手首を離した。刃は一歩も退かなかった。
「あの手紙の礼がまだだったな」
「礼?」
「腕輪。失敗作だと言ったな」
「ああ、重力ブレスレット。あれ本当に失敗作なんだよ。重すぎて商品になんねぇから氷室に押し付けた」
「ずっと、着けていた」
烈火の眉が、ほんの一瞬だけ上がった。
「……ははは、やっぱりな。アイツの息子ならそうすると思ったよ。おかげで速くなれたろ?」
悪びれない。一ミリも。
刃は答える代わりに、もう一度手刀を繰り出した。今度は烈火が体ごと受けた。胸板に刃の掌底がめり込む。だが烈火は一歩も動かなかった。
「足りねぇな」
刃の腕が震えていた。全力だった。それでも、動かない。
「——だけど、筋はいい。アイツより速い」
烈火が刃の肩を掴み、押し戻した。軽く。子供を扱うように。
「あと、あのシチュー、不味いと言ったのは本音だ」
刃の目が見開かれた。
「だけど三回おかわりした。お前がいくつかも知らねぇが、その意味くらい分かるだろ」
刃の拳が止まった。
振り上げた手刀が、行き場を失って空中で震えている。
三回おかわり。あの男が、母の不味いシチューを三回おかわりした。そんな話は母から聞いていない……母が一度だけ、古い鍋を磨きながら「あの人は大食いだったから」と呟いたことを思い出した。
「後でまとめて相手してやる。今は話がある」
刃は拳を下ろした。何も言わなかった。だが退いた。それが、今の刃にできる精一杯だった。
◇◇◇
烈火が壁に背中を預けたまま、全員を見渡した。
「で、お前ら何しに来た。まさか家族の再会ってだけじゃねぇだろ」
霧島が答えた。
「三つの力です。あなたが一人でやろうとしたことを、三人でやる」
烈火の眉が上がった。
「征一郎。お前がそこに辿り着いたのか」
「私ではありません。この子です」
霧島がつむぎを示した。つむぎは端末を胸に抱えたまま、烈火の視線を受け止めた。
「お前、名前は」
「つむぎです」
「つむぎ。三つの力ってのは何だ。言ってみろ」
つむぎは一呼吸置いた。
「共鳴打撃。境界核の振動周波数に同調する力。イエヤスさんの黒ツルハシが適合します」
「一つ」
「斬撃。共鳴の経路を物理的に断つ力。刃さんの斬撃が該当します」
「二つ」
「魔力増幅。出力を境界核に届かせるための増幅力。ユアさんの魔族の血が担います」
「三つ。——合ってる」
烈火が壁から背中を離した。
「合ってるが、足りねぇ」
つむぎの目が細くなった。
「何が、足りないと」
「理論は揃ってる。だがお前ら、今やれるか?」
誰も答えなかった。
「だろうな。三つの力を同時にぶつけるってのは、言うほど簡単じゃねぇ。タイミングが0.1秒ズレたら増幅が暴走する。俺が一人でやって失敗した理由が、まさにそれだ」
烈火がイエヤスを見た。
「イエヤス」
「何だよ親父」
「お前の共鳴打撃、今どのくらいだ」
「……ツルハシが黙ってる。共鳴が起きねぇ」
「だろうな。あの黒ツルハシは境界核に近づかなきゃ本気出さねぇ。だがここでも出ないってことは、お前の出力がまだ足りてねぇ」
イエヤスが唇を噛んだ。
烈火が刃を見た。
「お前の斬撃。さっきの一発、俺の胸板にヒビも入らなかった」
刃は何も言わなかった。
烈火がユアを見た。
「お前の増幅。指輪外してどのくらい経った」
「……一週間」
「一週間じゃ制御もクソもねぇだろ。暴走したらお前が先に死ぬ」
ユアが歯を食いしばった。反論できなかった。
烈火が両腕を広げた。
「条件を出す」
全員の視線が集まった。
「三つの力を同時にぶつけて、俺の一撃を相殺してみろ。それができたら認めてやる。お前らにエルフの世界を任せる」
沈黙が落ちた。
「できなかったら——俺がこのまま一人で続ける。限界が来るまで。それだけの話だ」
霧島が口を開いた。
「烈火」
敬語が消えていた。
「お前の始末書、まだ俺の机にあるんだよ」
烈火が一瞬、動きを止めた。
「——二十年分か」
「七枚。全部お前のだ。判を押してない」
「……処理しとけよ」
「お前が戻ってきたら判つく」
烈火が鼻で笑った。だが目は笑っていなかった。
「征一郎。お前、二十年で面倒くせぇ男になったな」
「お前が消えたからだ」
二人の間に流れた空気を、誰も遮らなかった。
◇◇◇
帰りの階段で、イエヤスが隣を歩く凛に言った。
「なあ凛」
「何」
「親父、モテるんだな」
凛の顔から表情が消え、背景に宇宙が浮かんでいる。
「久しぶりに父親に会って言う事がそれなの?」
イエヤスが階段を一段飛ばしで上がった。
「親父倒したらモテるかな」
凛が足を止めた。
「……あんたの頭の中、一回見てみたい」
「え、何で」
「何でもない。歩いて」
凛が早足で追い抜いた。耳の先が赤いことに、イエヤスは気づかなかった。
後ろからあかりの声が聞こえた。
「今の撮れた。最高」
「あかり、消して」
「無理無理。永久保存」
辺境の封鎖ダンジョンに、笑い声が響いた。
明日からここで訓練が始まる。
烈火の条件を満たすために。




