第94話 焚火
その夜、イエヤスは眠れなかった。
正確には、腹が減って眠れなかった。
辺境ダンジョンの第六層に仮設された野営地。管理局が用意した簡易寝袋が八つ並んでいる。凛は壁際で規則正しい寝息を立て、つむぎは端末を抱えたまま丸くなっている。あかりはカメラを枕元に置いて死んだように寝ている。
セリアは目を閉じているが、エルフの眠りが本当に眠っているのかは分からない。刃は少し離れた岩陰で、太刀を抱えたまま壁にもたれている。ユアは寝袋に潜り込んで動かない。
霧島は地上の車に戻ったらしい。あの男は地下で寝るタイプではないだろう。
イエヤスは寝袋から這い出し、携行食の袋を漁った。干し肉が一本だけ残っていた。齧りながら、空洞の奥へ歩いた。
赤黒い光が脈動する壁面。その手前の岩に、烈火が座っていた。
上半身裸のまま。背中の傷跡が薄明かりに浮いている。壁に手を当てていたのをやめて、岩に腰を下ろしたところだった。休憩らしい。
「起きてたのか」
烈火が振り返りもせずに言った。
「腹減って寝れねぇ」
「そうか」
イエヤスは烈火の隣の岩に座った。干し肉を齧る音だけが、広い空洞に響いた。
しばらく、無言だった。
壁の脈動が、ドクン、ドクンと規則的に聞こえる。烈火が二十年間叩き続けてきた壁。イエヤスの黒ツルハシが沈黙している壁。
干し肉を半分まで齧ったところで、イエヤスが口を開いた。
「なんで子供作ったんだよ」
烈火が横を向いた。イエヤスの顔を見た。
それからにやりと笑った。
「モテるからだろ」
「それは分かってる。そーゆんじゃなくて」
「まぁ、お前も一人前になったもんな」
イエヤスは干し肉の残りを口に放り込んだ。噛みながら、待った。何も言わずに。
烈火は壁の方を向いた。脈動する赤黒い光が、横顔を照らしている。
「……基本は自分でやるつもりだった。今でもそう思ってる」
声のトーンが変わっていた。さっきまでの不遜さが薄れて、もっと低い場所から出てくる声。
「だけどな、あの壁に初めて触った時、人生で一番やべぇと思った。こいつは俺一人じゃ無理だったって。頭じゃねぇ。体がわかったんだよ。骨の奥で」
烈火が自分の右手を見た。指は太く、節くれ立ち、無数の古傷がある。この手で二十年間壁を叩き続けてきた手だ。
「で、気づいたら氷室のとこにいた」
「……は?」
「気づいたらエルフの里にもいた。気づいたら子供が二人いた」
イエヤスの眉が寄った。
「誰かが親父のこと、獣って言ってけど、そうかもしんねぇ」
烈火が声を出して笑った。空洞に反響する、乱暴な笑い。
「かもな。だが結果的にお前とユアがここにいる。征一郎なら『計画通り』とか言うんだろうが。……正直に言うとな——わかんねぇんだよ」
笑いが止んだ。
「世界に引っ張られた感じがした。あの壁に触ったら、体が勝手に動き始めた。子供を作らなきゃいけないって、体の芯がそう言ってた。理由なんかねぇ。ただ、そうしなきゃ世界がどうにもならないって、わかった」
烈火が肩をすくめた。
「モテる男はつれぇな。世界にまで求められる」
「……わかんねぇけど、それモテるとは言わないと思うぞ」
「うるせぇ。俺の辞書にはモテると書いてある」
イエヤスは呆れた顔をした。だが嫌ではなかった。
◇◇◇
少しの沈黙のあと、イエヤスがまた口を開いた。
「刃の母さんは、どういう人だったんだよ」
「氷室か」
烈火の目が少しだけ遠くなった。
「強い女だった。可愛げはなかったが、俺を殴れる唯一の人間だった。正面からぶん殴ってくる女は、あいつだけだった」
「そりゃ強ぇな」
「料理は壊滅的に下手だったけどな」
「手紙に書いてたな。追伸で」
「だが三回おかわりした。偉いだろ? あの時が一番死ぬかと思ったぞ」
イエヤスが少し黙った。
あの手紙を読んだ時の刃の顔を思い出していた。始末書の束より重い何かを背負った顔。だが今は、ここにはいない。岩陰で寝ているはずだ。
「ユアの母ちゃんは?」
「魔族の里にいた。あいつが一番静かで、一番怖かった」
「怖い?」
「何考えてるか分からねぇ。表情が動かねぇ。だが一度だけ笑ったのを見た。あれは——」
烈火の声が止まった。一瞬だけ。それから、いつもの声に戻った。
「名前は俺しか知らねぇ。墓まで持ってく」
イエヤスは何も言わなかった。
壁の脈動が、三回鳴った。ドクン。ドクン。ドクン。
◇◇◇
イエヤスは干し肉の袋を丸めてポケットに突っ込んだ。
「じゃあ俺の母ちゃんは」
何気なく聞いた。二人の母親の話の流れで、当然のように。
烈火の体が、止まった。
壁に向けていた視線が、ゆっくりとイエヤスに移った。
沈黙が、長かった。
三秒ではなかった。五秒でもなかった。十秒近く、烈火は何も言わなかった。
イエヤスは待った。腹は減っているが、今は待てた。
烈火が息を吐いた。長く、深く。
それから、いつもと違う声で言った。
「お前は俺が拾った」
イエヤスの手が止まった。ポケットに袋を押し込む動作が、途中で止まった。
「ダンジョンの深層で見つけた。赤ん坊だった。何でそこにいたのかは、今でも分からねぇ。周りに親らしい奴はいなかった」
烈火は壁を見ていた。イエヤスの顔を見なかった。
「泣いてた。すげぇ声で。深層のモンスターが寄ってくるくらいの声で泣いてた」
声は淡々としていた。だが、言葉を選んでいるのが分かった。この男にしては珍しく、一語ずつ確かめるように話していた。
「拾って帰った。それだけだ」
「……」
「理由? ねぇよ。泣いてるガキを置いていく男はモテない。それだけだ」
イエヤスは岩の上で、背中を丸めて座っていた。
壁の脈動が続いている。赤黒い光が、二人の横顔を交互に照らしている。
長い沈黙があった。
イエヤスが口を開いた。
「そっか」
それだけだった。
烈火がようやくイエヤスの方を向いた。息子の——拾った子供の顔を見た。
イエヤスは別に泣いていなかった。困ってもいなかった。怒ってもいなかった。
ただ少しだけ、考えている顔をしていた。イエヤスにしては珍しい、静かな顔。
「……気にしないのか」
烈火が聞いた。
「何を」
「血が繋がってないこと」
イエヤスは烈火を見た。まっすぐに。
「親父は親父だろ」
「……」
「朝五時に丸太投げてきたのは事実だし。マグマの横で素振りさせたのも事実だし。鮭おにぎり冷蔵庫に入れてたのも事実だし」
イエヤスが肩をすくめた。
「それでいいだろ。血がどうとか、俺にはよく分かんねぇけど。親父が俺を拾って、俺を育てた。それが全部だ」
烈火が黙った。
長い沈黙だった。
壁の脈動だけが、規則正しく空洞に響いていた。
烈火が口の端を上げた。豪快な笑いではなかった。もっと小さくて、静かな。見た人間がほとんどいない種類の笑みだった。
「……お前、モテるようになったな」
「マジか」
「マジだ。そういうこと言える男が一番モテる。覚えとけ」
「俺、モテるのか……で、モテるとどうなるだ? あっさっきの親父の話だと、子供ができるのか!?」
イエヤスは一人芝居をうっている。
「お前、やっぱモテないわ」
「え!? なんで!?」
烈火が立ち上がった。背筋を伸ばし、壁に向き直る。
「いいから寝ろ。明日からシゴく」
「うす」
イエヤスが立ち上がり、野営地の方へ歩き出した。
五歩ほど歩いたところで、立ち止まった。振り返らずに言った。
「親父」
「ん」
「ありがとな。拾ってくれて」
烈火は答えなかった。
だが壁を叩く音が、いつもより一拍遅れて響いた。一呼吸分の間があった。
イエヤスはそれ以上何も言わず、歩いていった。
◇◇◇
寝袋に戻る途中、岩陰の前を通った。
刃が目を閉じたまま座っている。太刀を膝に立てかけ、壁にもたれている。寝ているように見えた。
だが、イエヤスが通り過ぎる瞬間、刃の指が太刀の鞘の上で動いた。
起きていた。
全部、聞いていたのかもしれない。
イエヤスは何も言わなかった。刃も何も言わなかった。
寝袋に潜り込んだ。目を閉じた。
腹はまだ減っていた。だが眠れる気がした。
何かが腑に落ちた、というよりも、最初から何も欠けていなかったことを確認しただけの——そういう夜だった。




