第95話 親父の条件
翌朝。
イエヤスは普段通りの顔で起きてきた。
寝袋から這い出し、伸びをして、携行食の袋を漁る。干し肉はもうない。穀物バーが二本残っていた。一本を口に咥えたまま、もう一本をユアに投げた。
「結構うまいっすよ。鮭おにぎりには敵わないけど」
「……あんがと」
ユアがキャッチして、包装を破る。目の下に薄い隈がある。地下で寝るのに慣れていないのだろう。
凛が寝袋を畳みながら、イエヤスの顔を横目で見た。
いつも通りだった。昨夜、何かがあったのかなかったのか。顔からは何も読み取れない。この男の表面は常に一定で、深刻さが残らない。
刃は岩陰から出てきていた。太刀を腰に差し、無言で穀物バーを齧っている。イエヤスと目が合った。
一秒。
何も言わなかった。イエヤスも何も言わなかった。
刃が視線を外し、穀物バーの最後の一口を飲み込んだ。それだけだった。
ユアが穀物バーを半分食べたところで、イエヤスの横に寄ってきた。
「アンタ、目の下ちょっとクマあるよ。昨日ちゃんと寝た?」
「親父と話してた」
「……そう」
ユアはそれ以上聞かなかった。自分の話が出たのかどうか。聞きたい顔はしていたが、口には出さなかった。穀物バーの残りを口に入れて、黙って噛んだ。
◇◇◇
午前八時。空洞の中央。
烈火が壁の前に立っていた。昨夜と同じ場所。同じ姿勢。上半身裸、背中に傷跡。だが目の色が違った。昨夜の、少しだけ柔らかかった目ではない。今朝の烈火は——師の目をしていた。
八人が半円状に並ぶ。霧島だけが少し離れた場所で壁にもたれ、手帳を開いていた。記録係のつもりらしい。
「昨日の条件、覚えてるな」
烈火の声が空洞に響いた。
「三つの力を同時にぶつけて、俺の一撃を相殺する。それができたら認める」
イエヤスが黒ツルハシを肩に担ぎ直した。刃が腕を組んだまま微動だにしない。ユアが左手——指輪のない左手を握ったり開いたりしている。
「で、今からシゴくわけだが」
烈火が三人を順番に見た。
「まず前提を揃える。お前ら三人、一回も合わせたことねぇだろ」
「ねぇな」とイエヤス。
「ない」と刃。
「……ないね」とユア。
「だろうな。じゃあ最初にやることは一つだ」
烈火が壁に左手を当てた。赤黒い光が脈打つ。
「俺がこの壁を叩く。一発だけ。お前ら三人は、俺の一撃と同時に力をぶつけろ。タイミングが合えば相殺される。合わなきゃ——」
「合わなきゃ?」
「吹っ飛ぶ」
凛が即座に前に出た。
「待って。吹っ飛ぶって、どのくらいの——」
「死にはしねぇよ。たぶん」
「たぶんで人の命を賭けないでくれる?」
「うるせぇな。探索者のねーちゃん、お前は後ろで見てろ。護衛なんだろ。ぶっ飛んだ奴を拾うのがお前の仕事だ」
凛の眉間に皺が刻まれた。だが反論できなかった。護衛の仕事は前に出ることではない。
つむぎが端末を構えた。
「計測の準備は完了しています。三人の出力タイミングと烈火さんの打撃タイミングの差分を、コンマ〇一秒単位で記録します」
「頼むぞ、メガネ」
「つむぎです」
「知ってる」
烈火がにやりと笑った。知っていて呼ばなかった。この男のコミュニケーションは、常に相手の反応を楽しむ方向に振れている。
あかりがカメラを構えた。彩に「非公開記録のみ」と言われているが、撮らないという選択肢はあかりの辞書にない。
セリアは半円の端に立ち、翡翠の瞳で三人と烈火の位置関係を見つめていた。鉱石視覚で何かを読み取っているのかもしれない。
◇◇◇
「いくぞ」
烈火が壁に正面を向いた。左手を引き、拳を握った。
「合図はしない。俺の体の動きを見て合わせろ。それが実戦だ」
イエヤスが黒ツルハシを構えた。壁に向かって。烈火の一撃と同時に、壁の反対側から共鳴打撃を叩き込む——そういう位置取りだ。
刃が烈火の右斜め後方に立った。烈火の打撃が壁に届く瞬間に、打撃の経路を手刀で断つ。
ユアは三歩後ろにいた。両手を前に出している。指先が微かに紫がかっている。魔力増幅。二人の出力を引き上げて壁に届かせる。
「始め」
烈火の背中の筋肉が動いた。
肩甲骨が開き、腰が沈み、左足が床を掴む。その動作の一つ一つが、壁を叩く予告だった。イエヤスの耳が反応する。音ではない。体の動きが空気を押す、その圧。
烈火の拳が壁に向かった。
イエヤスが黒ツルハシを振り下ろした。
刃が手刀を振った。
ユアが両手から魔力を放った。
四つの力が、同時に——
否。
ズレた。
イエヤスのツルハシが〇・三秒早かった。刃の手刀は〇・一秒遅かった。ユアの増幅は〇・五秒遅れた。
結果。
烈火の一撃だけが壁に到達した。
衝撃波が反射し、三人を吹き飛ばした。
イエヤスが壁に背中から叩きつけられた。刃は着地したが膝が落ちた。ユアは尻餅をついて、両手を見つめた。
「……っ」
ユアの指先が震えていた。増幅が不発に終わった反動で、手の感覚が一時的に麻痺している。
つむぎが即座にデータを読み上げた。
「タイミング差。イエヤスさん、マイナス〇・三秒。刃さん、プラス〇・一秒。ユアさん、プラス〇・五秒。合格ラインは〇・一秒以内です」
凛がイエヤスの元に駆け寄った。
「怪我は」
「ねぇ。背中打っただけ」
「刃さんは」
「問題ない」
ユアが自分の手を握ったり開いたりしている。感覚が戻りつつあるが、顔色が悪い。
「ユアちゃん、大丈夫?」
あかりがカメラを下ろして駆け寄った。
「……大丈夫。手がしびれてるだけ」
烈火が振り返った。
「〇・五秒。話にならねぇな」
容赦がなかった。だが声に侮りはなかった。
「もう一回だ。今度は——」
烈火がイエヤスを見た。
「お前が遅れろ。お前が早すぎる」
「……俺が早い?」
「お前の耳は俺の体の動きを先読みしてる。読みすぎだ。読まずに合わせろ」
イエヤスが首を傾げた。読まずに合わせる。それはイエヤスにとって、壁の音を聞かずに掘れと言われるのと同じくらい不自然な要求だった。
「刃。お前は逆だ。俺の動きを見てから動いてる。見る前に動け」
「……矛盾している」
「矛盾してねぇ。お前は理屈で動きすぎなんだよ。体で感じろ」
刃の顎が引き締まった。
「ユア」
「何」
「お前は二人を見すぎだ。二人が動いてから自分が動こうとしてる。それじゃ永遠に遅れる。お前が先に出せ。増幅は先に場を作るもんだ」
ユアの目が見開かれた。
「アタシが先? でも二人のタイミングが分からないのに——」
「分かんなくていい。お前が場を作れば、こいつらが合わせてくる。信じろ」
ユアは三人の顔を見た。イエヤス。刃。そして烈火。
「……信じるって、簡単に言うね」
「簡単だろ。お前の隣にいる奴らだぞ」
ユアは唇を引き結んだ。何か言い返そうとして、やめた。代わりに両手を前に出した。紫の光が指先に灯る。
「もう一回」
烈火がにやりと笑った。
「いい顔だ。——いくぞ」
◇◇◇
二回目。タイミング差——イエヤス、マイナス〇・二秒。刃、プラス〇・〇八秒。ユア、プラス〇・三秒。
三人とも吹き飛ばされた。
三回目。イエヤス、マイナス〇・一五秒。刃、プラス〇・〇五秒。ユア、プラス〇・二秒。
吹き飛ばされた。
四回目。五回目。六回目。
つむぎがデータを記録し続けた。数字は確実に縮まっている。だが〇・一秒の壁が遠い。
凛が三人の水分補給を管理し、あかりが映像を記録し、セリアが沈黙の中で三人の動きを見つめ続けた。
七回目で、ユアの手から血が出た。魔力の反動で毛細血管が切れたのだ。
「やめて。今日はここまで」
凛が声を張った。
烈火が止まった。凛を見た。
「護衛が止めるなら、止める。それがルールだ」
意外だった。この男にルールという概念があると、誰も思っていなかった。
だが烈火の目は三人を見ていた。特に——ユアの血が滲む手を。
「明日もやる。朝五時だ。遅れたら鍛錬の量を倍にする」
ユアが手を押さえながら立ち上がった。
「……五時って、コンビニのシフトより早いじゃん」
「知るか。寝坊する奴はモテない」
「……アンタの基準ほんとどうかしてる」
ユアが呟いた。だが口元は、ほんの少しだけ、笑っていた。
◇◇◇
霧島が手帳を閉じた。壁際から動かないまま、小さく呟いた。
「初日で〇・三秒から〇・一五秒まで縮めた。……悪くない」
誰にも聞こえなかった。聞かせるつもりもなかった。
霧島は万年筆のキャップを閉め、手帳をポケットにしまった。
二十二年前、自分が届かなかった場所に、この子供たちが届こうとしている。一人ではなく、三人で。
霧島の口元が、ほんの一瞬だけ動いた。笑みとは呼べない微かな変化。それでも彼にとっては最大限の感情表現だった。
「……明日も、記録しよう」
万年筆のインクは、まだ十分に残っている。




