第96話 二日目
午前五時。
烈火は既に壁の前に立っていた。腕を組み、空洞の入口を見ている。
最初に現れたのはユアだった。
目の下に隈。髪はひとつに束ねている。昨夜は手の痺れが残って、なかなか寝つけなかったはずだ。だが足取りに迷いはない。
「……早いな」
「コンビニの早朝シフトに比べりゃマシ」
ユアは左手を開いたり閉じたりした。感覚は戻っている。昨日の血の跡だけが、指先に薄く残っていた。
次にイエヤスが来た。黒ツルハシを肩に担いで、欠伸をしている。
「五時はきつい」
「お前、ガキの頃は毎朝四時に起こしてただろ」
「あれは起こされてたんだよ。自分で起きんのとは違うんだって」
最後に刃が来た。音もなく。壁際にいつの間にか立っていた。太刀を腰に差し、腕を組んでいる。いつから来ていたのかも分からない。
「揃ったな」
烈火が壁から背を離した。
「昨日のデータ、メガネから聞いた。七回やって、最短が〇・一五秒。合格ラインは〇・一秒以内。あと〇・〇五秒だ」
「〇・〇五秒って、ほとんど誤差じゃねぇか」
「その誤差で暴走する。核の修復の時に学んだだろ」
イエヤスが黙った。核晶修復。つむぎに「一撃でもずれれば崩壊する」と言われた日のことを思い出していた。
「今日は方法を変える」
烈火が三人の前に出た。
「昨日は俺が合図なしで叩いて、お前らが合わせた。今日は逆だ。お前らが先に動いて、俺が後から叩く」
ユアが眉を上げた。
「アタシらが先?」
「ああ。昨日言っただろ。増幅は先に場を作るもんだ。お前が場を作って、イエヤスと刃がそれに乗る。三人のタイミングが揃った瞬間に、俺がぶつける。揃ってなきゃ——」
「吹っ飛ぶ」
「学習したじゃねぇか」
ユアが「褒めてないでしょ」と言いかけて、やめた。烈火の目が真剣だったからだ。ふざけた口調の底に、師としての視線があった。
◇◇◇
凛が訓練場の外縁に立った。昨日と同じ——護衛の定位置。
つむぎが端末を三台並べ、三人の出力タイミングを個別に計測する態勢を整えた。
あかりがカメラを構える。非公開記録。だが手は震えていない。
セリアは壁際に座り、翡翠の瞳で三人の体を見ていた。魔力の流れが見えるのだろう。表情は読めないが、視線だけは鋭い。
「いくぞ」
烈火が壁に手を当てた。
「合図は——凛。お前がやれ」
凛が目を見開いた。
「私?」
「お前が一番全体を見てる。三人のタイミングを揃えるなら、外から合図を出す人間が要る。護衛ってのは守るだけじゃねぇ。指揮もやれ」
凛の背筋が伸びた。
反射的に「私はそんな」と言いかけて——飲み込んだ。この男が適当に言っているのではないことは、分かった。凛を観察し、適性を見抜いた上で指名している。
「……分かったわ」
凛が三人の間に立った。イエヤス、刃、ユア。三人の位置を確認し、全員の顔が見える角度に体を向けた。
「ユア。先に出して。場を作るって言ってたでしょ。私が『今』と言ったら、増幅を開始。イエヤスと刃は、ユアの光が指先に灯った瞬間に動いて。そうすれば——」
つむぎが端末から補足した。
「ユアさんの増幅開始からイエヤスさんと刃さんの出力が重なるまでの理想的なラグは〇・〇八秒です。人間の反射速度の限界に近いですが、イエヤスさんの聴覚と刃さんの動体視力なら——不可能ではありません」
「〇・〇八秒」
イエヤスが呟いた。
「やれるか」と刃。
「やるしかないだろ」
三人が位置についた。
凛が息を吸った。
「——今」
◇◇◇
一回目。
ユアの指先に紫の光が灯った。
イエヤスのツルハシが動いた。刃の手刀が動いた。
烈火が壁を叩いた。
衝撃。三人が吹き飛ばされた。
つむぎが読み上げる。
「ユアさん、基準。イエヤスさん、プラス〇・一二秒。刃さん、プラス〇・一秒。——昨日より大幅に改善しています。ですが、まだ〇・〇二秒足りません」
凛が唇を引き結んだ。
「もう一回」
二回目。ユア基準。イエヤス、プラス〇・一一秒。刃、プラス〇・〇九秒。
三回目。ユア基準。イエヤス、プラス〇・一〇秒。刃、プラス〇・〇九秒。
四回目。ユア基準。イエヤス、プラス〇・〇九秒。刃、プラス〇・〇八秒。
五回目——
「今!」
凛の声が空洞に響いた。
ユアが先に出した。紫の光が両手から噴き出し、空間に薄い膜のように広がった。場ができた。
その膜の中に——イエヤスのツルハシと刃の手刀が同時に走った。
烈火の拳が壁に到達した。
四つの力がぶつかった。
衝撃波が——相殺されなかった。だが、昨日のように三人が吹き飛ばされることもなかった。
力が拮抗していた。
三人の足が床を削る。押されている。だが立っている。
二秒。三秒。
イエヤスの腕が軋んだ。刃の手刀が震えた。ユアの鼻から血が一筋垂れた。
四秒目で、均衡が崩れた。
三人が三歩下がった。膝は折れなかった。尻餅もつかなかった。三歩だけ押されて、止まった。
烈火の拳が壁から離れた。
空洞が静まった。
つむぎの声が、少しだけ震えていた。
「……タイミング差。ユアさん基準。イエヤスさん、プラス〇・〇八秒。刃さん、プラス〇・〇八秒。——合格ラインの〇・一秒以内です」
沈黙。
「……ただし、出力が足りません。相殺ではなく拮抗で終わっています。烈火さんの全力には、まだ届いていません」
烈火が振り返った。
「タイミングは合った。だが力が足りねぇ」
イエヤスが息を荒げながら笑った。
「やっぱ親父つええな」
「当たり前だ。——だが方向は合ってる」
烈火がユアを見た。ユアは鼻血を袖で拭いながら立っていた。倒れていない。足は震えているが、折れていない。
「ユア。今の感覚、覚えとけ。場を先に作って、二人が乗ってくる感覚だ。それが増幅の正しい形だ」
「……覚えてる。体が覚えた」
「いい答えだ」
烈火が刃を見た。
「氷室の息子。今の〇・〇八秒、明日には〇・〇五にしろ」
刃は何も答えなかった。だが壁に背をつけず、まだ構えたままだった。もう一回やれ、と体が言っていた。
「今日はここまでだ」
凛が声を張った。
「ユアの出血が二回目。これ以上は許可しません」
烈火が凛を見た。三秒ほど見て、それから頷いた。
「護衛が止めるなら、止める」
二日目にして、二度目のこの台詞。この男は本当に、凛の判断だけは覆さない。乱暴で自分勝手で、誰の言うことも聞かないくせに——凛が「止めろ」と言えば、止まる。
凛は不思議に思った。だが今は考える場面ではない。
「全員、休憩。水分と栄養を取って。午後にもう一セットやります」
凛の声に、全員が動いた。
◇◇◇
休憩中。空洞の隅。
イエヤスが壁にもたれて水を飲んでいた。隣に凛が座っている。
「なあ凛」
「何」
「さっきの合図、すげーよかった。お前の声聞いた瞬間に体が動いた」
凛の耳が、ほんの少しだけ赤くなった。
「……当然でしょ。私はあんたたちの動きを毎日見てるんだから。タイミングくらい分かるわ」
「だからすげーって言ってんだろ」
「褒めてるの?」
「褒めてる」
凛は水筒のキャップを締め直した。力が入りすぎて、キャップが軋んだ。
「……別に。仕事だから」
仕事。護衛の仕事。自分に言い聞かせるように呟いて、凛は立ち上がった。
「午後の分、隊形を少し変えたい。つむぎと相談してくる」
「おう」
凛が歩き去った後、あかりがすっと隣に座ってきた。カメラは回していない。
「イエヤスくん」
「ん?」
「凛ちゃんさ、合図の役割もらってすっごく嬉しかったと思うよ」
「そうなのか? 嬉しそうに見えなかったけど」
「見えないの。凛ちゃんは嬉しい時ほど真顔になるタイプだから」
「へえ。むずいな、女って」
あかりが笑った。少しだけ寂しそうに。
「……ね、あたしにもさ、何かできることある?」
「あかりさんは撮ってくれてるだろ。それが仕事じゃん」
「うん。……うん、そうだね」
あかりはカメラを膝の上に置いた。レンズキャップを外して、汚れを確認する。傷も曇りもない。
「じゃあ、最高の画、撮るね」
「頼むっす」
あかりが立ち上がった。背中がほんの一瞬だけ揺れたのを、イエヤスは見なかった。
◇◇◇
午後のセッション。
凛の合図で三回。タイミングは全て〇・一秒以内に収まった。
だが相殺には至らない。力が足りない。烈火の全力の一撃を、三人の合計出力が上回れていない。
つむぎがデータをまとめた。
「タイミングの問題はほぼ解消されました。残る課題は純粋な出力です。烈火さんの打撃力に対し、三人の合計出力が約七割。あと三割が足りません」
「三割か」とイエヤス。
「三割を、明日までに上げる必要があります」
ユアが両手を見つめていた。指先の血は止まっているが、皮膚の下で何かが脈打っているのを感じていた。
「アタシの増幅……まだ全力出してない」
全員がユアを見た。
「……怖かったの。暴走するって言われてたから。だから七割くらいで抑えてた」
烈火が何も言わなかった。ただ、金色の目でユアを見ていた。
ユアが顔を上げた。
「明日、全力出す」
「暴走したら」と凛。
「しない。場を先に作れば、二人が乗ってくる。それが分かったから。今日の五回目で分かった」
凛が三秒ほどユアの目を見つめた。それから、小さく頷いた。
「分かった。——でも危ないと判断したら止める」
「止めて。それでいい」
烈火が壁に背を預けた。
「明日で決める。三日目だ」
三日間の訓練。烈火が与えた猶予は最初から三日だったのかもしれない。あの男の体の限界——あと二、三回が精一杯だと言った。訓練に付き合う体力も、残りわずかだ。
「明日の朝五時。最後の一回。——全力で来い」
烈火が壁に手を当てた。脈動が応える。ドクン、ドクン。
三人はそれぞれの場所に戻った。
イエヤスは黒ツルハシの柄を握り直した。まだ沈黙したままの相棒。紫の光は走らない。
だが、明日。全力が揃った時——何かが変わる気がしていた。
根拠はない。ただの直感。
親父がいつも言っていた。「考える前に動け。そしたらモテる」
根拠がないまま信じられることを、たぶん信頼と呼ぶのだ。




