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第97話 三日目

午前五時。三日目。


 全員が揃っていた。


 ユアは昨夜、一度も目を覚まさなかった。疲労の限界を超えて、体が強制的に眠りに落としたのだろう。だが今朝の顔色は昨日より良い。目に力がある。


 イエヤスは黒ツルハシの柄を握り、数回軽く振った。沈黙は続いている。共鳴の気配はない。だが今日はそれでいい。共鳴打撃が発動しなくても、タイミングを合わせて烈火の一撃を相殺する。それが今日の目標だ。


 刃は壁際に立ち、右手の指を一本ずつ開いて閉じていた。関節を確認している。昨日の七回の衝撃で、手首に微かな疲労が残っている。だが折れてはいない。折れていなければ振れる。


 凛が三人の前に立った。


「最後日。——全力で、合わせるわよ」


 三人が頷いた。


 つむぎが端末のバッテリーを確認した。満充電。今日のデータが、全ての結論になる。


 あかりがカメラのレンズキャップを外した。赤いランプが点灯する。


 セリアが壁際から一歩前に出た。翡翠の瞳が三人を見つめている。


 霧島は昨日と同じ場所で手帳を開いていた。万年筆のキャップを外す。


 烈火が壁の前に立った。


「最後だ。俺も全力でいく」


 全力。


 昨日までの烈火は手加減していた——とは言い切れない。だが「全力」と改めて宣言するということは、昨日までと同じではないということだ。


 ユアの喉が鳴った。


「全力って……昨日のが全力じゃなかったの?」


「七割だ」


「……は?」


「七割のお前と、七割の俺。バランスは取ってた。だが今日のお前は全力出すって言った。なら俺も出す。じゃなきゃ試験にならねぇ」


 ユアの顔色が変わった。だが後退はしなかった。拳を握り直した。


「……上等」


 烈火が笑った。金色の目が光る。


「いい顔だ。モテるぞ」


「黙れクソ親父」


 親子の口喧嘩にしては殺伐としていたが、二人の口角がほぼ同じ角度で上がっていた。血は争えない。




◇◇◇




 配置。


 イエヤスが壁の正面。烈火の打撃と真正面からぶつかる位置。


 刃が烈火の右斜め後方。打撃の経路に手刀を入れる角度。


 ユアが三歩後ろ。両手を前に。全力の増幅を、先に展開する。


 凛が全体を見渡せる位置に立った。右手を上げている。合図の構え。


 全員の呼吸が揃った。


 空洞が静まった。壁の脈動だけが聞こえる。ドクン。ドクン。ドクン。


 凛が三人の目を見た。ユア。イエヤス。刃。順番に。


 三人全員が、凛を見返していた。待っている。凛の声を。


 凛が息を吸った。


「——今」




◇◇◇




 ユアの両手から、紫の光が爆発した。


 昨日までとは次元が違った。光ではなく圧だった。空間そのものが歪むほどの魔力が、ユアの掌から放射状に広がった。場ができた。空洞の空気が一瞬で別物に変わった。


 つむぎの端末が悲鳴を上げた。計測上限に近い数値が表示されている。


 その場の中に——


 イエヤスの黒ツルハシが走った。


 振り下ろしではない。突き。壁に向かって、全身のバネを使って深層鋼の先端を突き出す。ユアの増幅場の中を通過した瞬間、ツルハシの軌道に紫の光が纏わりついた。


 出力が跳ね上がった。


 刃の手刀が同時に動いた。


 烈火の打撃が壁に到達するまでの経路——空気を切り裂く鋭い斬撃が、その線上を横切った。ユアの増幅場の中で、刃の手刀は普段の三倍の速度に達していた。


 烈火の拳が壁に向かった。


 全力の一撃。特級探索者が二十年間、世界を支えるために振り続けてきた拳。


 四つの力が、一点で衝突した。


 ——音が消えた。


 衝撃波ではなかった。音そのものが消失した。四つのエネルギーが完全に拮抗した瞬間、振動が相殺され、空洞から全ての音が消えた。


 無音。完全な無音。


 一秒。


 二秒。


 三秒——


 そして、均衡が崩れた。


 イエヤスの腕が押し返されかけた。烈火の拳の重さが、三人の合計出力をわずかに上回っている。昨日と同じだ。タイミングは完璧。だが力が——


 その瞬間。


 黒ツルハシの柄が——震えた。


 イエヤスの掌に、微かな振動が走った。壁からではない。ツルハシ自身が発している。深層鋼の鶴嘴頭が紫色に明滅し、柄の深層樫が音を立てて共鳴した。


 共鳴打撃。


 発動した。


 壁の前だからではない。境界核が近いからでもない。三つの力が同時に揃った——その瞬間に、黒ツルハシが目覚めた。


 出力が跳ね上がった。


 イエヤスの体を通じて、ツルハシから壁に向かって紫の光の奔流が叩きつけられた。共鳴打撃とユアの増幅が重なり、刃の斬撃がその経路を切り開き——


 烈火の拳が、止まった。


 押し返されたのではない。相殺されたのだ。


 完全に。


 音が戻った。空洞に反響する残響。壁の脈動。自分たちの呼吸。全部が一気に耳に流れ込んだ。


 三人は立っていた。


 吹き飛ばされていない。膝も折れていない。三歩も下がっていない。


 その場に、立っている。


 烈火の拳が壁から離れた。ゆっくりと。拳を開き、指を一本ずつ伸ばす。


 振り返った。


 金色の目が、三人を見ていた。




◇◇◇




 つむぎの声が震えていた。端末を握る手が白い。


「タイミング差——ユアさん基準。イエヤスさん、プラス〇・〇七秒。刃さん、プラス〇・〇七秒。合格ラインの〇・一秒以内。そして——出力が、相殺域に達しています。黒ツルハシの共鳴打撃が発動したことで、合計出力が烈火さんの全力を上回りました」


 つむぎが端末から顔を上げた。


「——相殺、成功です」


 空洞が静まった。


 凛が右手を下ろした。合図の手。まだ上げたままだったことに、今気づいた。


 あかりのカメラは回り続けていた。レンズの向こうで、小さく息を吐く音が入っている。


 セリアの翡翠の目から、涙が一筋落ちた。音はしなかった。


 霧島が手帳にペンを走らせた。何を書いているかは、霧島自身にしか分からない。




◇◇◇




 烈火が腕を組んだ。


 三人を見ている。順番に。ユア。刃。イエヤス。


「——合格だ」


 短かった。だが、それで十分だった。


「お前らにエルフの世界を任せる。俺は——」


 烈火の右手が、壁に触れた。赤黒い光が指先に応える。


「もう叩かなくていいな」


 壁の脈動が、一拍だけ遅くなった気がした。二十年間叩き続けてきた男が、拳を下ろした。壁がそれを感じ取ったのかもしれない。


 イエヤスが口を開いた。


「親父」


「ん」


「親父倒したら——」


「お前は俺を倒してない。相殺だ」


「……じゃあ相殺したら、モテるか?」


 烈火が三秒ほどイエヤスを見つめた。


 それから、笑った。豪快に。空洞に響く、あの乱暴な笑い。ガキの頃からずっと聞いてきた、あの笑い声。


「知るかバカ。自分で確かめろ」


「ひでえ」


「ひでぇのはお前の顔だ。モテたいならまず汗拭け」


 イエヤスが袖で顔を拭いた。泥と汗にまみれた手で顔を擦ったので、余計に汚くなった。


 凛が「タオル使いなさいよ」と呆れた声を出し、ユアが「ほんとバカ」と笑い、刃は何も言わなかったが壁にもたれたまま目を閉じた。戦闘の後にだけ見せる、力が抜けた顔だった。


 あかりがカメラをイエヤスに向けた。


「今の顔、サムネにする」


「汚いだろ」


「汚いから良いんだよ」


 つむぎが端末を閉じ、深い息を吐いた。肩から力が抜けている。


「……終わりましたね」


 セリアが涙を拭い、まっすぐ立った。


「次は、姉さまのところへ」


 全員がセリアを見た。


 そうだ。ここがゴールではない。ここはスタートラインだ。烈火を相殺できる力が揃ったというだけで、守護獣も、境界核も、エルティも——まだ何も終わっていない。


 だが今は、この瞬間だけ。




◇◇◇




 霧島が手帳を閉じ、万年筆のキャップを嵌めた。


 壁から背を離し、一歩前に出た。烈火の横に立つ。二十年前と同じ場所。隣。


「烈火」


「ん」


「始末書、処理していいか」


 烈火がちらりと横を見た。


「……好きにしろ」


「お前が戻ってきたら判つくと言ったんだ。戻ってきただろう」


 烈火は答えなかった。


 だが壁に預けていた背中を離した。二十年間壁の前に立ち続けていた男が、壁に背を向けた。


 初めて。


「……征一郎」


「何だ」


「俺の代わりにガキども見ててやってくれ」


「言われなくても——私の仕事です」


 霧島の口調が、管理官の敬語に戻っていた。だが声の底に、二十年分の何かが溶けている。


 烈火が鼻で笑った。


「面倒くせぇ男だ、ほんとに」


「貴方ほどじゃありませんよ」




◇◇◇




 空洞を出て、第六層の階段を上る。


 先頭はイエヤスだった。黒ツルハシを肩に担ぎ、足取りは軽い。


 凛がその半歩後ろを歩いている。いつもの定位置。


「なあ凛」


「何」


「さっきの合図、完璧だった。お前がいなかったら揃わなかった」


「……知ってる。私がいなきゃあんたたちバラバラだもの」


「だから、ありがとな」


 凛の歩幅が一瞬だけ乱れた。半歩だけ後ろに下がって、すぐに追いついた。


「……礼なら、帰ったら鮭おにぎり五個奢ってよ」


「五個は多くないか」


「三日分の精神的慰謝料」


「高えな」


「安いくらいよ」


 凛の声が少しだけ笑っていた。イエヤスには聞こえていないかもしれない。でも確かに、笑っていた。


 階段の上から光が見えた。地上の光だ。


 八人が、光の中へ歩いていった。

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