第98話 出発前夜
烈火の条件をクリアしてから、二日が経っていた。
辺境ダンジョンから桜谷に戻ったチームは、エルフの世界への再突入に向けた最終準備に入っていた。今度は往復ではない。守護獣を止め、境界核の共鳴を断ち切り、エルティを解放する。それが終わるまで帰ってこない。
出発は明日の朝。
◇◇◇
午後二時。管理局地上棟、第三研究室。
つむぎは端末三台とセンサーユニットに囲まれていた。バッテリーの充電確認。予備メモリーカードの動作テスト。センサーの最終校正。同じ手順を三度繰り返している。
ドアがノックもなく開いた。
「つむぎ、飯」
イエヤスが鮭おにぎりを一つ持って立っていた。
「今、校正の途中です」
「終わったら食えよ。夕飯までまだ長いだろ」
おにぎりをデスクの端に置いた。つむぎが受け取らないのを知っていて、置いていく。いつものことだった。
イエヤスが研究室を見回した。端末の画面には共鳴打撃の波形データが並んでいる。三日目の相殺成功時の数値。
「まだ見てんのか、あのデータ」
「明日使うデータです。何度確認しても足りません」
「すげぇな、つむぎは。こんだけのデータ全部頭に入ってんだろ」
つむぎの手が一瞬止まった。
「……すごくはないです。計測して、記録して、分析するだけ。やっていることはいつも同じです」
「それがすげぇって言ってんだよ。俺にはできねぇし」
つむぎは端末の画面に視線を戻した。共鳴打撃の波形。イエヤスの打撃パターン。この数列の一つ一つが、目の前のこの男の腕から生まれたデータだ。
「……帰ってきたら、論文の続きを書きます」
「論文? また書くのか」
「はい。境界核の共鳴断絶に関する包括的分析。今回のデータが加われば、人類史上初の学術記録になります」
「そうか。つむぎはやっぱりすごいな」
つむぎの指が端末の上で止まった。
「いえ。イエヤスさんがいないと成立しない論文です。だから——」
言いかけて、口を閉じた。
だから帰ってきてください。だから無事でいてください。だから——その先の言葉が、喉の奥で詰まった。
「だから?」
「……だから、明日もデータをお願いします。最高の数値を出してください」
すり替えた。本当に言いたかったこととは違う言葉に。
「おう。任せろ」
イエヤスが研究室を出ていった。
つむぎは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。三秒だけ。それから端末に向き直った。
デスクの引き出しに手を伸ばした。布袋の中の青い魔鉱石。イエヤスが最初に掘った石。
持っていかない。ここに置いておく。帰ってくる場所に。
おにぎりの包装を開けた。鮭。一口食べて、校正の続きに戻った。
◇◇◇
午後四時。編集室。
あかりはカメラのレンズを布で拭いていた。三度目。もう完璧に綺麗だが、手を動かしていないと落ち着かない。
ドアが開いた。
「あかりさん、カメラの充電終わった?」
イエヤスが顔を覗かせた。
「とっくに終わってるよ。予備バッテリーも四本ある」
「すげぇな。準備万端じゃん」
「当たり前でしょ。プロだもん」
イエヤスが編集室に入ってきて、壁にもたれた。あかりはレンズを拭く手を止めなかった。
「ねえ、イエヤスくん」
「ん?」
「あたしさ——」
言いかけた。
聞きたいことがあった。あなたにとって私は何? 配信者? 記録係? それとも——
言葉が口の手前まで来て、止まった。
聞いたところで、この男の答えは分かっている。「最高の配信者」。それ以上の意味は込められない。この男はそういう人間だ。分かっている。分かっているから——聞けない。聞いて確認するのが、怖いのではなく、悔しい。
「なんでもない」
あかりはカメラを膝の上に置いた。
「最高の画、撮るからね。明日」
「頼むっす」
「任せて。——今まで撮った中で、一番いいの撮る」
イエヤスが「おう」と笑って出ていった。
あかりは編集室に一人残された。カメラを手に取り、レンズキャップを外した。傷なし。曇りなし。
企画ノートを開いた。一行だけ書いた。
『聞けなかった。でも、撮り続ける。それがあたしの答え』
スマートフォンを取り出した。配信アプリ。テキスト投稿。
『明日、もう一度向こう側に行きます。帰ってきたら、全部見せます。——あかり』
投稿。通知が鳴り始めた。読まなかった。照明を消して、目を閉じた。
◇◇◇
午後六時半。管理局の食堂前の廊下。
夕食を終えたイエヤスが食堂から出ると、ユアが廊下に立っていた。腕を組んで壁にもたれている。
「明日の持ち物、確認した?」
「したっすよ」
「着替えは」
「入れた」
「携行食は」
「入れた」
「水は」
「入れた」
「鮭おにぎりは」
「明日の朝買う」
「何個」
「十個」
「足りる?」
「足りるっす」
ユアが腕を解いた。確認が終わった、という顔。だが廊下から動かない。
「……ねえ」
「うす」
「帰ってきたらツケ返しなさいよ。九回分」
「九十円っすよね」
「九十円。たかが九十円。でも九回分」
「死んでも返すっす」
「死んだら返せないでしょ」
ユアの声が、一段低くなった。
「だから死ぬな」
姉貴の顔だった。だがその奥に、姉貴という役割では収まりきらない何かが滲んでいた。
「死なないっすよ。帰ってきて、おにぎり買って、ツケ返す。それだけっす」
「……それだけね」
ユアが背中を壁から離した。
「じゃ、あたし帰るわ。明日、五時半に棚並べとくから」
「ありがとうっす、ユアさん」
「礼は帰ってきてから」
ユアが廊下の角を曲がって消えた。
アパートに帰ったユアは、テーブルの上の銀の指輪を見つめた。明日からつけない。外したまま戦う。
「……帰ってきたら、またつけるから」
指輪に向かって言った。あの人がくれたもの。あの人の代わりに、自分が力を使う。
照明を消した。
◇◇◇
午後八時。管理局の空き個室。
セリアが窓辺に座っていた。月を見ている。人間の世界の月は、エルフの世界のものより少しだけ小さい。
ドアがノックされた。
「セリア、起きてるか」
イエヤスだった。
「はい」
「明日、帰れるな」
「はい」
イエヤスが部屋に入り、窓辺の反対側に立った。同じ月を見ている。
しばらく無言だった。
セリアの左手がイエヤスの袖に伸びた。いつものように。この世界に来てからずっと、セリアはイエヤスの袖を掴んでいた。
指先が布地に触れる直前で——止まった。
セリアが手を引いた。自分の膝の上に戻した。
「明日は、掴みません」
イエヤスが振り返った。
「戦うから」
セリアの翡翠の瞳が、月明かりの中で光っていた。
「弓を引くのに、片手が塞がっていては駄目です。だから明日は——自分の手で立ちます」
イエヤスは三秒ほどセリアを見つめた。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ明日、セリアの背中は俺が見てるから。安心して弓引け」
セリアの唇が震えた。泣きはしなかった。代わりに、深く頷いた。
「おやすみ、セリア」
「おやすみなさい」
イエヤスが部屋を出た。ドアが閉まった。
セリアは自分の左手を見た。何も掴んでいない手。明日からこの手で弓を引く。袖の代わりに、弦を掴む。
窓の外の月が、少しだけ滲んで見えた。
◇◇◇
午後九時。屋上。
凛はフェンスにもたれて星を見ていた。
どれくらい前からいたのか、自分でも分からない。考え事をしていたら、体が冷えていた。五月の夜風は、じっとしていると意外と寒い。
屋上のドアが開いた。
足音で分かった。イエヤスだ。
「凛、こんなとこにいたのか」
「……少し考え事してただけ」
イエヤスが隣に来た。ポケットからコンビニの缶コーヒーを出して、凛に差し出した。
「寮の自販機で買ってきた。砂糖入り」
「……ありがと」
受け取った。缶が温かかった。凛の指先は冷えきっていた。缶の温度が染みる。
「冷たいな、お前の手」
「長くいたから」
「いつから」
「……覚えてない」
嘘だった。イエヤスが各メンバーの部屋を回っているのを知っていた。最後に来るのが自分だと分かっていた。だから先に来て、待っていた。
二人並んでフェンスにもたれた。肩の間は拳一つ分。いつもの距離。
「明日か」
「明日ね」
缶コーヒーを一口飲んだ。甘い。彩のブラックとは違う。イエヤスが選んだ砂糖入り。
「なあ凛」
「何」
「明日も合図頼むぞ。お前の声がないと揃わねぇから」
「分かってる」
凛は缶を両手で包んだ。温かさが指先に戻り始めている。
聞くなら今だ、と思った。
核晶修復の前夜も聞けなかった。中層第九区画の前夜も聞けなかった。境界壁越境の前夜も。烈火の訓練の間も。ずっと、機会はあったのに踏み込めなかった。
凛は息を吸った。
「ねえ、イエヤス」
「ん?」
「あんた、私のこと何だと思ってるの」
声が真っ直ぐだった。自分でも驚くくらい。今まで出したことのない声だった。
イエヤスが少し考えた。少し、だった。三秒くらい。
「俺の声」
「……は?」
「合図の声。あれがないと三人揃わない。凛の声が、俺を動かしてる」
凛は缶コーヒーを握りしめた。
嬉しかった。嬉しかったのだ、確かに。チームとして信頼されている。自分の声がこの男を動かしている。それは——護衛として、探索者として、これ以上ない言葉だった。
でも。
「それ、護衛としての評価でしょ」
「違うのか?」
「……違わないけど、違う」
自分でも何を言っているか分からなかった。違わないけど違う。論理的に破綻している。つむぎなら眉をひそめるだろう。
だが凛の中では破綻していなかった。護衛としての評価は嬉しい。でも、それだけじゃ足りない。もっと別の——名前のついた何かが欲しい。
イエヤスが首を傾げている。本気で分かっていない顔。
「……もういいわ」
凛は缶コーヒーを一気に飲み干した。甘さが喉を通り抜けた。
「明日、最高の合図出すから。覚悟しなさい」
「おう」
「ちゃんと私の声聞いて、ちゃんと動いて、ちゃんと帰ってきて。——分かった?」
「分かった」
「もう一回言って」
「分かった」
「……よし」
凛はフェンスから背を離した。空の缶を握ったまま、ドアに向かう。
三歩歩いて、立ち止まった。振り返らずに言った。
「帰ってきたら、鮭おにぎり一個ちょうだい」
「いいけど、なんで」
「一緒に食べたいから」
声が小さかった。でも夜の屋上では、小さくても届く。
「おう。帰ったらな」
凛はドアの向こうに消えた。耳が赤かった。イエヤスには見えなかっただろう。暗かったから。
イエヤスは一人残って、もう少しだけ星を見ていた。
◇◇◇
午後十時。寮の廊下。
イエヤスが部屋に戻る途中、廊下の角で刃とすれ違った。
「明日か」
「ああ」
二言。それだけだった。
すれ違って、それぞれの部屋に向かう。
イエヤスが自分の部屋のドアの前に着くと、足元にコンビニの袋が置いてあった。中身は鮭おにぎり二個とブラックの缶コーヒー。
刃の部屋は、イエヤスの部屋の二つ隣だ。もう灯りは消えている。
イエヤスは袋を拾い上げて、笑った。
「……さんきゅ、刃」
返事はなかった。壁の向こうから、太刀の鞘が鳴る小さな音だけが聞こえた。
◇◇◇
午後十一時。管理局地上棟、藤村彩の執務室。
デスクの上に署名済みの書類が三部。霧島からの最終承認書。装備リスト確認票。緊急時の指揮権移譲に関する内部通達。
缶コーヒーは飲んでいない。紙パックの麦茶。ストローを刺して、一口飲んだ。甘くない。苦くもない。ただの麦の味。
手帳を開いた。
何ページもめくる。核晶修復の前夜。中層第九区画の前夜。境界壁越境の前夜。三つの一行が並んでいる。
四回目だ。
ペンを手に取った。
『四回目。全員で行って、全員で帰る。——今度こそ最後にしなさいよ』
書いてから、少しだけ笑った。自分に言っているのか、イエヤスに言っているのか。
手帳を閉じた。
窓に寄った。夜の街。ダンジョンのゲートが闇の中にある。明日あの中に入り、最奥部を抜け、壁の向こうへ行く。自分は行かない。また待つ。
麦茶を一口飲んだ。
「……帰ってきなさいよ」
四回目のこの言葉は、もう祈りですらなかった。
命令だった。




