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第99話 三つの力

午前五時三十分。サンクスマート桜谷駅前店。


 ユアが棚に鮭おにぎりを並べていた。夜勤のシフトは既に終わっているが、残っている。いつものことだ。


 自動ドアが開いた。


 イエヤスと刃が並んで入ってきた。


「鮭、十個」


「十個ね。——多くない?」


「向こう側に持ってく分」


 ユアはレジの下から追加の在庫を出した。十個。袋に詰める手が、いつもより丁寧だった。


「千三百円」


 イエヤスが小銭を出した。数えた。


「……ぴったりだ」


「二日連続でぴったりじゃん。どうしたの」


「刃が朝イチで小銭置いてった」


 ユアの視線が刃に向いた。刃はブラックの缶コーヒーを一本持って、レジの横に立っている。目を合わせなかった。


「百三十円」


 刃が正確に支払った。


「……あんたもこれから行くんでしょ」


 ユアが聞いた。刃にではなく、二人に。


「ああ」


「アタシも」


 三人の間に、一秒の沈黙が落ちた。


 ユアがエプロンのポケットに手を入れた。付箋を取り出し、レジの横の定位置に貼った。


『しばらく不在。鮭の発注そのまま維持。——瀬田』


「店長宛て?」


「帰ってきた時に、在庫切れだと困るでしょ」


 イエヤスが笑った。ユアは笑わなかった。笑わない代わりに、袋をイエヤスに押しつけた。


「はい。行くよ」


 自動ドアが閉まった。三人の背中が朝の街に消えた。


 レジには誰もいなくなった。有線放送のJ-POPが、サビに入った。




◇◇◇




 午前六時四十五分。ダンジョンゲート前。


 八人が揃った。


 彩が最後に来た。缶コーヒーではなく、紙パックの麦茶を持っている。


「最終確認。通信の有効範囲は深層最奥部まで。境界壁を越えた時点で途絶する。以降は凛に全権委任。異論は」


「なし」


 七つの声が重なった。


 彩は七人の顔を見た。一人ずつ。


 イエヤス。黒ツルハシを右肩に。リュックに鮭おにぎり十個。


 凛。刀の鯉口を切った状態。髪は高い位置で結んでいる。


 刃。太刀を腰に。ポケットに八つの紫の石。


 つむぎ。端末を胸に。予備バッテリー四本。


 あかり。カメラを右肩に。レンズキャップは外してある。


 セリア。弓を背中に。銀の髪が朝の光を受けている。


 ユア。左手に指輪はない。両手が空いている。武器は自分自身。


「——行ってらっしゃい」


 彩の声は震えなかった。四回目だ。もう震える段階は過ぎた。


「行ってきます」


 イエヤスが軽く手を上げた。七人がゲートの闇に踏み込んだ。


 彩は麦茶のストローに口をつけた。一口飲んで、モニター室に向かった。




◇◇◇




 深層最奥部。境界壁。


 前回と同じ亀裂。前回と同じ金色の光。


 つむぎが打撃パターンを算出するのに三十秒。前回のデータがあるから早い。


「パターン、前回と同一です。壁の状態も変わっていません」


「やるぞ」


 イエヤスが黒ツルハシを構えた。壁に向かう。


 十二打。前回と同じ四小節。最後の一打だけが逆位相——閉じるのではなく、開ける。


 全てが前回と同じだった。ただ一つ違ったのは、今回はイエヤスの隣にユアが立っていたことだ。


「ユアさん、増幅いけるか」


「余裕。——あんたこそしっかりやんなさいよ」


 イエヤスが笑った。ツルハシを振り上げた。


 十二打は、一分もかからなかった。


 壁が裂け、金色の光が噴き出した。温かい風。花の匂い。緑の匂い。


 セリアの翡翠の瞳が光った。


「……帰ってきた」


 七人が、光の中に踏み込んだ。




◇◇◇




 エルフの森。


 巨木の大聖堂。地上百メートルを超える幹。木漏れ日が地面に模様を描いている。


 前回と同じ風景。だが空気が違った。重い。前回より明らかに魔力が濃い。


 つむぎが端末を確認した。


「魔力濃度、前回比で一・四倍。上がっています」


「守護獣の影響か」


 凛が聞いた。


「恐らく。覚醒が進んでいる証拠です」


 セリアが先に歩き出した。集落への道を知っている。


「急ぎましょう。姉さまが——」


 言葉が途切れた。


 森の奥から、低い音が届いた。地響きではない。もっと高くて、鋭い音。金属が擦れ合うような。


 全員が足を止めた。


 イエヤスの右手が黒ツルハシの柄を握り直した。柄が震えている。沈黙していたツルハシが——反応している。


「……鳴ってる」


 凛が振り返った。


「ツルハシが?」


「ああ。こっちの世界に来たら、鳴り始めた」


 烈火の訓練の時は沈黙していた。人間の世界では反応しなかった。だがエルフの世界に入った瞬間——境界核に近い世界に足を踏み入れた瞬間、黒ツルハシが目覚めた。


 イエヤスが笑った。


「やっと起きたか、お前」


 ツルハシの柄に紫の光が一筋走った。微かに。だが確実に。


 三日前、烈火の全力を相殺した時と同じ光。


「行こう」


 凛が全体に声をかけた。


「集落に向かう。エルティさんに合流して、状況を確認する。全員、警戒を解かないで」


 七人が森の中を進み始めた。


 セリアが先頭。凛が二番目。イエヤスが中央。刃が後方。つむぎとあかりが中間。ユアがイエヤスの横。


 木々の間から、時折低い音が聞こえた。地面の奥から。北の方角から。


 守護獣は起きかけている。


 時間がない。




◇◇◇




 集落に着いたのは、境界壁を越えてから二時間後だった。


 門の前にエルティが立っていた。


 前回より顔色が悪い。左肩から紫の光が漏れているのが、服の上からでも分かった。だが立っている。立ち続けている。


「おかえりなさい」


 セリアが駆け寄った。姉の手を取る。細い手が震えていた。


「姉さま、状態は」


「持っているわ。でも——あと数日が限界」


 数日。


 つむぎが端末を確認した。


「境界核の振動データ、前回より三十パーセント増大しています。守護獣の覚醒と連動して加速している」


「三十パーセント……」


「エルティさんの血の防壁だけでは、もう抑えきれない段階に入っています」


 エルティが頷いた。諦めではなかった。確認だった。自分の体の限界を、二十年間かけて正確に知っている女性の頷き。


「来てくれてよかった。——準備は?」


 イエヤスが黒ツルハシを掲げた。紫の光が柄を走っている。


「できてる」


 エルティの目が、ツルハシの光を見た。


「……その光。烈火が使っていたものと——」


「親父のツルハシだ。新しいツレもできた」


 イエヤスが後ろを振り返った。


 凛。刃。つむぎ。あかり。セリア。ユア。六人が、それぞれの場所に立っている。


「三つの力が揃ってる。俺の共鳴打撃と、刃の斬撃と、ユアの魔力増幅。凛が合図を出して、つむぎがデータを取って、あかりが記録して、セリアが道を示す。エルティさんは補助してくれればいい。——全員で、やる」


 エルティの目が、七人を順番に見た。


 凛の刀。刃の太刀。ユアの空いた両手。つむぎの端末。あかりのカメラ。セリアの弓。


 そしてイエヤスの黒ツルハシ。


 エルティの唇が動いた。笑みだった。二十年ぶりに——いや。セリアが帰ってきた日以来の、二度目の笑み。


「……あの人は一人で来た。一人で叩いて、一人で壊して、一人で去った」


「知ってる」


「あなたは七人で来た」


「八人だ。エルティさん入れて」


 エルティが少し黙った。それから、首を振った。


「九人よ。烈火も数えるなら」


 イエヤスが目を丸くして、それから笑った。


「そうだな。親父のおかげでもある。——九人で、やるか」


 北の山の方角で、低い音が響いた。


 地響き。守護獣の鼓動。


 もう待てない。明日には来る。


「今夜、作戦会議をします」


 凛の声が全体に通った。


「エルティさんから境界核の正確な位置と、守護獣の行動パターンを聞きます。つむぎは打撃パターンの最終調整。全員、日没までに体を休めて」


 七人が散った。それぞれの持ち場に。


 イエヤスだけが少し残って、北の山を見ていた。


 黒ツルハシが脈打っている。境界核の振動に応えるように。もうすぐだ。もうすぐ、あの壁の奥に届く。


「……待ってろよ」


 誰に言ったのか。守護獣に。境界核に。それとも——二十年間一人で叩き続けた男の背中に。


 イエヤスは黒ツルハシを担ぎ直し、集落に向かって歩き出した。

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