第92話 探索と世話焼き姉さん
ユアが管理局に通い始めて、三日目。
基礎検査のために毎朝来ることになったユアは、初日から管理局の空気を変えた。
朝八時。管理局の廊下。
イエヤスが寮から出てきた。寝癖がついている。Tシャツは昨日と同じ。目は半分閉じている。
廊下の角からユアが現れた。
「おはよ。……アンタその服昨日と同じじゃない?」
「同じっすけど」
「着替えなよ。何枚持ってんの」
「三枚っす」
「三枚? ローテ何日?」
「三日っす」
「洗濯は?」
「四日に一回くらいっす」
ユアが額を押さえた。
「信じらんない。アンタ社会人でしょ。今日の検査終わったら服買いに行くよ」
「え、別にいいっすよ」
「よくない。アタシは姉貴なんだから。言うこと聞きなさい」
イエヤスは少し考えた。
「姉貴いたことねえからよく分かんねえっすけど、姉貴ってこういう感じなんすか」
「こういう感じなの」
「へえ。悪くねえっすね」
イエヤスが素直に頷いた。抵抗がなかった。ユアの世話焼きを、犬が散歩に連れて行かれるくらいの自然さで受け入れている。
その光景を、廊下の向こうから凛が見ていた。
剣の手入れ道具を持ったまま、足が止まっている。
ユアがイエヤスの寝癖を手で直している。イエヤスが「あ、ども」と大人しくされるがままになっている。距離が、近い。
凛の眉がぴくりと動いた。
「……なんで、あんなに近いの」
「きょうだいですから」
セリアが後ろに立っていた。
「きょうだいって、あんなに近いものなの」
「エルフのきょうだいも近いです。姉さまとアタシも——」
「あなたのところは参考にならないわ」
凛は剣の手入れ道具を握り直し、二人の横を通り過ぎた。
「おはよう」
声が、少しだけ硬かった。
「凛、うっす。ユアさんが服買いに行くぞって」
「ふうん。いいんじゃない。たしかにその服、臭いし」
「臭いか!?」
「臭い」
凛とユアの目が合った。
一瞬だけ、空気が張り詰めた。
ユアは凛を見て、凛はユアを見た。
ユアがにやりと笑った。
「凛ちゃんも来る? こいつの服選ぶの、一人じゃ大変だし」
「……べつに、暇だったら」
「暇でしょ」
「……暇だけど」
あかりが廊下の端からカメラを構えていた。
「姉と彼女候補の共同作業、激アツなんだけど」
「彼女候補じゃないから」
「彼女候補って何」
凛とユアが同時に言った。この二人の方が姉妹らしかった。
◇◇◇
検査室。午前十時。
つむぎがユアの魔力パターンを計測していた。
指輪を外した状態で、微細な魔力の波形を端末に記録する。ユアは椅子に座り、計測器に手を置いている。
「力を少しだけ出してください。照明がちらつく程度で」
「こう?」
蛍光灯が一瞬だけ揺れた。つむぎの端末に波形が走る。
「十分です。次は、もう少しだけ——」
検査室のドアが開いた。
イエヤスが顔を出した。
「つむぎ、昼飯行かねえ? 食堂のカレーが今日チキンらしいぜ」
つむぎの指が止まった。
「今、計測中です」
「あ、マジか。じゃあ終わったら——」
「イエヤス』
ユアが椅子から振り返った。
「アンタ関係ないんだから出てって。つむぎちゃん集中してんでしょ」
「いや、カレーの話を——」
「カレーは逃げないから。出てって」
ユアが手でしっしっとやった。
イエヤスが「へーい」と引き下がった。ドアが閉まる。
つむぎはユアを見た。
「……助かりました」
「いいよ。あいつ空気読めないから、誰かが管理しないと」
「管理」
「姉貴だから」
つむぎの無表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「姉がいると、便利ですね」
「でしょ」
二人の間に、小さな共犯関係が生まれた瞬間だった。
◇◇◇
同じ頃。都内某所、深層特務課オフィス。
霧島征一郎はデスクの前に座っていた。
三台のモニターに、二十年分のデータが表示されている。烈火の行動パターン分析。深層の魔力痕跡マップ。全国のダンジョンの微震記録。
霧島は二十年間、烈火を追い続けてきた。
追い続けながら、制度を作り、人材を集め、深層特務課を設立した。全ては「いつか烈火に追いつくため」だった。
だが今は違う。追いつくためではない。見つけるためだ。
彩からの報告。三つの力が揃った。あとは烈火を止め、境界核を正しい方法で修復するだけ。そのためには烈火の居場所が要る。
霧島は微震記録を時系列で並べた。
全国のダンジョンで、定期的に微震が観測されている場所がある。震源はダンジョンの深部。自然現象として処理されてきたが、周期性がある。
三十七日に一度。
霧島の目が細くなった。
三十七日。烈火が深層単独踏破にかけた日数と同じだ。あの男は自分の体のサイクルで動く。三十七日で回復し、三十七日で叩き、また三十七日休む。二十年間、同じリズムで。
霧島は微震の震源を地図上にプロットした。
複数のダンジョンに分散しているように見えた。だがパターンがある。北から南へ移動し、一巡すると最初のダンジョンに戻る。
次の周期は——五日後。場所は——
霧島がモニターを拡大した。
辺境の立入禁止ダンジョン。十二年前に深層崩落が確認され、封鎖されたまま放置されている場所。
霧島はデスクの引き出しを開けた。古い始末書の束に手が触れる。
引き出しを閉じ、携帯を取った。
彩の番号を呼び出す。
三コールで出た。
「彩管理官。見つけました」
◇◇◇
午後。管理局の食堂。
イエヤスがチキンカレーの大盛りを食べている。隣にユアが座り、自分のカレーを食べながらイエヤスの食べ方を見ている。
「アンタ、口の周りカレーついてる」
「マジすか」
「マジ。ほら」
ユアがナプキンでイエヤスの口元を拭いた。
食堂の空気が、ざわりとした。
凛がトレーを持ったまま立っていた。
「……何してるの」
「口にカレーついてたから拭いてあげた」
「自分で拭けるでしょ、赤ちゃんじゃないんだから」
「拭かないじゃん。見てらんないの」
セリアがトレーを持って現れた。
「姉という存在は、弟の顔を拭くものなのですね」
「そうそう。セリアちゃんもエルティさんにやってもらったでしょ」
「いえ。姉さまは私の顔を拭いたことはありません。私が姉さまの顔を拭いていました」
「逆じゃん」
あかりがカメラを構えて食堂に入ってきた。
「今の全部撮れた。ユアちゃんがイエヤスくんの口拭くとこ、スローで使える」
「やめて」
凛が即答した。
「凛ちゃん? アタシに言ってる?」
「あかりに言ってるの」
「えー、いい画なのに」
イエヤスはカレーを食べ続けていた。周囲の空気の変化に一切気づいていない。
「このカレーうめえな。ユアさんもここの食堂気に入ったっすか」
「うん、普通においしい。でもアンタ、野菜残してるでしょ。食べなさい」
「野菜はちょっと——」
「食べなさい」
「……はい」
イエヤスが大人しく野菜を口に運んだ。
凛が自分のトレーをイエヤスの向かいに叩くように置いた。
「私が言っても食べないのに」
「言ったことあるの?」
「……ある。前に。一回」
「一回じゃ足りないよ。毎日言わないと。アタシは毎日言うから」
凛の箸が、カレーの中のジャガイモを砕いた。力が入りすぎていた。
つむぎが食堂に入ってきた。端末を持っている。
「イエヤスさん。午後の基礎訓練の前に、昨日の共鳴打撃のデータを確認したいのですが」
「そんなことより飯食ったか?」
「まだです」
「先に食えって。腹減ってると——」
「悪いことばかり考える。昨日も聞きました」
ユアが笑った。
「アンタ、それ誰にでも言ってるわけ」
「だって事実っすよ。親父が——」
「はいはい。あの人の受け売りね」
イエヤスが「あの人」という呼び方に一瞬きょとんとして、すぐに戻った。
同じ父親を、別の呼び方で呼ぶ二人が、同じ食堂でカレーを食べている。
あかりだけがその光景の意味を分かっていて、静かにカメラを回し続けていた。
◇◇◇
夕方。彩のオフィス。
彩がチーム全員を集めた。ユアも含めて七人。刃は壁に背を預けている。
「霧島課長から連絡があったわ。烈火の居場所が分かった」
全員が彩を見た。
「辺境の立入禁止ダンジョン。五日後に烈火がそこに現れる。全員で行く」
凛が聞いた。
「全員?」
「全員。イエヤス、凛、刃、セリア、つむぎ、あかり、ユアちゃん。私は管理局で待機。霧島課長が現地で合流する」
ユアが腕を組んだ。
「アタシも行くの?」
「あなたがいなければ意味がない。三つ目の力は、あなただけのものよ」
ユアは少し黙って、頷いた。
刃は壁から動かなかった。
だが腕を組む力が、少しだけ強くなっていた。
五日後。烈火に会う。
刃にとってそれは、父の仇の前に立つ日だった。
彩が全員を見回した。
「五日間、準備しなさい。訓練も検査も詰めるわよ。ユアちゃんの出力制御がまだ不安定だから、つむぎ、頼める?」
「はい。スケジュールを組みます」
「凛、隊列と合図のパターンを刃と詰めて」
「了解」
「あかり、現地の地形データを映像資料から引っ張って」
「りょーかい」
「セリア、エルティさんとの通信手段を確認。向こうの状況も把握しておきたい」
「分かりました」
彩は最後にイエヤスを見た。
「イエヤス」
「っす」
「ちゃんと寝なさい。寝不足で親父に会うな」
「寝るっす」
ユアが横から付け加えた。
「あと野菜食べなさい」
「……はい」
全員が散った。
彩はオフィスに一人残り、缶コーヒーを開けた。
五日後、あの男に会う。
二十年ぶりに、霧島が烈火の前に立つ。
彩は缶コーヒーを一口飲み、手帳を開いた。
『五日後。全員で行く』
書いてから、一行足した。
『全員で帰ってくること』




