第91話 ユアの正体
91 ユアの正体
翌朝、彩はイエヤスを連れてサンクスマートに向かった。
「彩さん、コンビニ行くなら言ってくれれば俺一人で買ってきたのに」
「いいの。私も缶コーヒー買いたいから」
嘘だった。缶コーヒーはオフィスに箱買いしてある。
彩は歩きながら、隣のイエヤスを横目で見た。
何も知らない顔だった。朝の空気を吸って、腹が減った顔をしている。この男はいつも腹が減っている。
サンクスマートの自動ドアが開いた。
蛍光灯。冷蔵ケースの唸り。レジの電子音。
ユアがいた。
「お、ツケ太郎。毎日よく飽きないね」
「飽きるわけあるか。鮭おにぎりより美味いものなんかこの世にない」
イエヤスが冷蔵ケースに向かった。いつもの動線。迷わず鮭おにぎりを四つ掴む。
彩はコーヒーの棚の前に立った。
棚を見るふりをしながら、レジのユアを見ていた。
左手。
銀の指輪が、薬指にはまっている。
昨日の刃の証言では、なかった。今日はある。昨日はつけ忘れた。それだけのことだろう。
だがその「それだけ」が、全てを隠していた。
彩は缶コーヒーを一本取って、レジに向かった。
「お会計、五百六十円です」
イエヤスの鮭おにぎり四つと、彩の缶コーヒー一本。
イエヤスが財布を出した。彩が先に千円札を置いた。
「あ、彩さん——」
「おごり。たまにはね」
「マジすか。ありがとうございます」
ユアがお釣りを数える。その手を、彩は見ていた。
細い指。銀の指輪。爪は短く切り揃えてある。レジを打つ手つきは慣れたもので、無駄がない。
普通の女の子の手だった。
だがその手に世界の命運が乗っているかもしれない。
彩はお釣りを受け取りながら、声のトーンを変えずに言った。
「ユアちゃん。今日、何時に上がり?」
「え? 今日は十四時までですけど」
「上がったら、少し話があるの。管理局まで来てくれない?」
ユアの手が止まった。
レジの上に置かれたお釣りの硬貨が、かちりと音を立てた。
「……仕事の話ですか」
「仕事じゃないわ。でも、大事な話」
ユアの目が彩を見た。
少しだけ眠そうな目。だがその奥に、何かを察した光があった。
「……分かりました」
声は平静だった。だが左手が、無意識に右手の指輪に触れていた。
◇◇◇
管理局、応接室。午後二時半。
彩がソファに座り、つむぎが隣に端末を持って控えている。
イエヤスは窓際に立っていた。彩に「同席して」と言われたが、理由は聞かされていない。おにぎりは全部食べ終わっている。
ドアが開いた。
ユアが入ってきた。コンビニの制服からTシャツとジーンズに着替えている。
応接室の空気を見回した。彩。つむぎ。イエヤス。三人。
「……なんか、重い空気」
「座って」
彩が向かいのソファを示した。ユアが座る。背筋は伸びていたが、膝の上に置いた両手が、微かに握られていた。
彩はテーブルの上に缶コーヒーを二本置いた。一本をユアの前に滑らせた。
「飲む?」
「……いただきます」
ユアが缶を開けた。一口飲んで、テーブルに置いた。
沈黙が落ちた。
イエヤスは窓際から二人を見ていた。何の話か分からない。だが彩の顔が管理官の顔になっているのは分かった。
彩が口を開いた。
「ユアちゃん。あなたのお父さんのことで、話がある」
ユアの手が、缶コーヒーの上で止まった。
「父親」
「ええ」
「……誰のこと」
「神代烈火」
ユアの目が、一瞬だけ揺れた。
一瞬だけだった。すぐに元の、少しだけ眠そうな目に戻った。だが彩は見逃さなかった。
「ユアちゃん。あなたの採用記録の身元保証人に、烈火が偽名で署名しているの」
つむぎが端末を操作し、採用記録の画面をユアに見せた。
ユアは画面を見つめた。長い間、何も言わなかった。
イエヤスが窓際から一歩前に出た。
「ユアさん——」
「知ってるよ」
ユアが言った。
静かな声だった。
「全部じゃないけど」
彩が息を吸った。
「どこまで知ってる?」
ユアは缶コーヒーを両手で包んだ。温かくもない缶を、握るように。
「あの人の名前が神代烈火ってこと。どっかのすごい人だったってこと。母親は覚えてない。物心ついた時にはもういなかった」
ユアの視線が、自分の左手に落ちた。銀の指輪。
「この指輪は、あの人がくれた。ガキの頃、『ずっとつけてろ』って。理由は教えてくれなかった。でも——外すと、変なことが起きるから」
「変なこと?」
つむぎが聞いた。
「電気が変になんの。部屋の照明がちらついたり、テレビにノイズ入ったり。一回だけ、風呂上がりに外したまま寝ちゃった時、アパートのブレーカー全部落ちた」
ユアは少しだけ笑った。苦い笑いだった。
「普通じゃないって、分かってた。薄々ね。でもあの人がくれた指輪つけてれば何も起きないから、考えないようにしてた」
応接室が静まった。
彩が聞いた。
「烈火が今どこにいるか、知ってる?」
「知らない。そもそも小さいころも時々しかあってないし、ここ10年は音沙汰無し。ただ——」
ユアの声が、少しだけ小さくなった。
「最後に会った次の日の冷蔵庫に、鮭おにぎりが二十個入ってた。それだけ」
イエヤスの体が、微かに揺れた。
冷蔵庫の鮭おにぎり。
親父がいなくなった朝。
書き置きはなくて、飯だけが残っていた。
同じだ。
同じことを、された子供がもう一人いた。
つむぎが端末を閉じ、彩を見た。彩が小さく頷いた。
「ユアちゃん。全部話すわ」
彩はそこから、順を追って説明した。
ダンジョンの奥にある境界核のこと。烈火がそれを一人で直そうとして壊したこと。エルフの世界のこと。守護獣のこと。三つの力のこと。そして三つ目——魔力増幅を担える者が、魔族の血を持つ人間であること。
ユアは黙って聞いていた。
缶コーヒーは冷めきっていた。一度も口をつけなかった。
「……つまりさ」
ユアがゆっくりと口を開いた。
「あの人は世界壊しかけた。で、それ直すのに、アタシの力が要るってこと」
「そう。そうなの」
「それって——」
ユアの目が、イエヤスを見た。
「アイツも同じことしてんの? あの人の後始末」
イエヤスは一瞬黙って、それから笑った。
「まあ、そうなるっすね」
「そっか」
ユアは左手の指輪を見つめた。
銀の輪が、蛍光灯の光を受けて鈍く光っていた。
「外したら、どうなる?」
つむぎが答えた。
「魔力が抑制を離れます。この部屋の魔力計に反応が出るはずです」
「危なくない?」
「この部屋の設備なら、ある程度の魔力放出には耐えられます」
ユアは指輪を見つめた。
あの人がくれたもの。ずっとつけてろと言われたもの。外すなと言われたもの。
「ごめんね」
ユアが指輪を抜いた。
部屋の空気が変わった。
魔力計の針が跳ねた。右端まで振れ、ガラスの文字盤に針がぶつかる音がした。そのまま振り切れて、計器が悲鳴のような電子音を出した。
蛍光灯がちらついた。テーブルの上の缶コーヒーが微かに震えた。
ユアの目の色が変わっていた。
黒い瞳の奥に、紫の光が一瞬だけ走った。
彩が立ち上がった。つむぎが端末を操作し、数値を読み取ろうとしたが、全ての計器が振り切れたまま戻らなかった。
イエヤスは動かなかった。
ユアを見ていた。
紫の光はすぐに消えた。ユアの目は元の黒に戻り、蛍光灯のちらつきも収まった。魔力計だけが、振り切れたまま沈黙していた。
ユアは自分の手を見つめていた。
指輪のない左手。何も変わっていないように見える。だが部屋中の計器が、彼女の中にあるものの規模を叫んでいた。
「……これが、アタシの中にあったんだ」
ユアの声は震えていなかった。
だが、左手が右手を握っていた。自分自身を押さえるように。
長い沈黙の後、ユアが指輪をテーブルから拾い上げ、左手にはめ直した。
蛍光灯が安定する。魔力計の針が、ゆっくりとゼロに戻った。
ユアが立ち上がった。
「……少し、考えさせて」
彩が頷いた。
「当然ね、ゆっくり考えて」
ユアはドアに向かった。振り返らなかった。
背中は真っ直ぐだった。だが、ドアノブを握る手が白かった。
◇◇◇
管理局の玄関を出ると、夕方の風が吹いていた。
ユアは三歩歩いて、立ち止まった。
どこに帰ればいいのか、一瞬分からなくなった。アパートはある。部屋はある。でも今、あの部屋に一人で帰ったら、天井を見つめて朝まで考え続ける。それが分かっていた。
足音が後ろから聞こえた。
振り返ると、イエヤスがいた。
「……なんでいんの」
「コンビニ行くんすよ。同じ方向なんで」
同じ方向じゃない。管理局からサンクスマートは北。ユアのアパートは南。イエヤスの寮は西。どこも同じ方向じゃない。
ユアは分かっていた。
でも追い払わなかった。
「……勝手にすれば」
「っす」
サンクスマート。二度目。
イエヤスは冷蔵ケースから鮭おにぎりを六つ取った。レジに持っていく。ユアの同僚の男子大学生がスキャンした。
「ユアさんの分も買うんすよ」
イエヤスはユアに二つ渡した。
「……アタシ、ここの店員なんだけど」
「腹減ってると悪いことばっか考えるっすよ。食ったほうがいい」
反論できなかった。腹は減っていた。昼から何も食べていない。
店の外のベンチに、二人で座った。
ユアは自分が働いている店のおにぎりを、客側で食べた。初めてだった。
イエヤスは一つ目を三口で食べ終え、二つ目の包装を剥がしていた。
しばらく、おにぎりを食べる音だけが聞こえた。
ユアが口を開いた。
「ねえ」
「うす」
「アンタさ、なんで平気なわけ。命懸けなのに。あの人の後始末、迷惑だと思わないの?」
イエヤスはおにぎりを咀嚼しながら、少し考えた。
少しだった。五秒もなかった。
「後始末だと思ってねえっすからね」
「……は?」
「掘るのが好きだから掘ってるだけで。結果的に親父の尻拭いになってたっぽいっすけど、俺は俺で楽しいんで」
ユアはイエヤスを見た。
本気だった。
慰めでも励ましでもない。この男は本気で、ただ掘るのが好きなだけだ。世界がどうとか、父親の後始末がどうとか、多分この男の中では三番目以降の問題で、一番目は鮭おにぎりで二番目は掘ることだ。
「それにユアさん」
「何」
イエヤスが二つ目のおにぎりを飲み込み、真っ直ぐユアを見た。
「世界救ったら多分モテるっすよ」
ユアの脳が、一瞬停止した。
「……それ本気で言ってる?」
「当たり前じゃないっすか。世界救った女とか、もう最強っすよ。誰も勝てない。モテるに決まってる」
「モテるモテないの話、してるかな、今」
「してるっす。大事な話っすよ」
ユアは五秒くらい黙って、イエヤスの顔を見つめた。
本気だった。目の奥に冗談の色がない。この男は心の底から、世界を救うことの最大のメリットは「モテる」だと思っている。
ユアは笑った。
声を出して笑った。おにぎりを持ったまま、ベンチの上で肩を震わせて。
「アンタさ、ほんっとバカだね」
「よく言われるっす」
イエヤスは屈託のない笑顔を見せた。
「褒めてないから」
「知ってるっす」
風が吹いた。夕日がコンビニの看板を橙色に染めていた。
ユアはおにぎりの最後の一口を食べた。
鮭だった。自分が何百回と棚に並べてきた鮭おにぎり。客側で食べると、少しだけ味が違う気がした。
何も解決していない。
自分の中にあるものの正体も、あの人がいなくなった理由も、これから何が起きるかも。
でも、腹は膨れた。
それだけで、少しだけ、考え続けられる気がした。
◇◇◇
翌朝。午前八時。
管理局の玄関に、ユアが立っていた。
Tシャツとジーンズ。いつもと同じ格好。
左手に、指輪はなかった。
彩が玄関で迎えた。缶コーヒーを一本持っている。
ユアの左手を見た。指輪がないことを確認した。
何も聞かなかった。
「やる」
ユアが言った。
一言だった。理由は言わなかった。
彩は缶コーヒーをユアに渡した。
「おはよう。じゃあ、始めましょうか」
ユアが缶を受け取った。
管理局の廊下を二人で歩き始めた時、つむぎが端末を持って角から現れた。
「彩さん、ユアさんが——」
ユアの左手を見て、つむぎは言葉を止めた。
「……来たんですね」
「来た」
つむぎは端末を閉じた。
「三つの力が、揃いました」
共鳴打撃。イエヤス。
斬撃。刃。
魔力増幅。ユア。
「今日から、同期訓練を始めます」
窓の外は快晴だった。
三つ目の力が決断した朝の空は、馬鹿みたいに青かった。




