第90話 指輪
ラボの蛍光灯は、二十四時間消えない。
つむぎは三台の端末を並べ、二つの解析を同時に走らせていた。
左の端末には烈火の残存データ。管理局の書庫から引き出した、二十年分の記録。調査報告、経費精算、行動ログ。提出されたものも、未提出のまま霧島が代筆したものも、全て。
右の端末には刃の魔鉱石の計測結果。反応強度の時系列グラフ。桜谷到着時からの微弱な上昇カーブと、昨日のコンビニでの異常なスパイク。
中央の端末には、エルフの世界で採取した境界核の振動データ。
三つの画面を行き来しながら、つむぎは紙コップのコーヒーを口に運んだ。冷めていた。いつ淹れたかも覚えていない。
◇◇◇
最初に引っかかったのは、烈火の行動ログだった。
深層単独踏破の前後、烈火は三ヶ月間、所在不明になっている。公式記録では「長期調査任務」とだけ記載されていた。
だがログを精査すると、その三ヶ月間にエルフの世界側で烈火の魔力痕跡が複数検出されている。エルティの証言とも一致する。烈火は境界核の近くにいた。
問題は、魔族の集落跡にも痕跡があったことだ。
それだけなら、調査の一環で立ち寄っただけかもしれない。
だが、痕跡の分布が偏っていた。境界核の周辺は点在しているのに、魔族の集落跡だけは一箇所に集中している。同じ建物に、繰り返し長期間滞在した形跡。
調査ではない。生活だ。
つむぎは左の端末を操作し、烈火の帰還後の記録を呼び出した。
帰還届。健康診断結果。持ち帰り物品リスト。
持ち帰り物品リストに、一行だけ手書きの追記があった。
『私物。銀の指輪。一点』
つむぎの指が止まった。
烈火は深層調査用の精密機器を三台持ち出して失踪した男だ。帰還時に「私物」として持ち帰ったものが、銀の指輪一点。
調査機材でも鉱石サンプルでもない。指輪。
つむぎは右の端末に切り替えた。魔鉱石の反応パターン。コンビニでのスパイクを時間軸で拡大する。
反応が始まったのは、刃が自動ドアをくぐった瞬間。ピークはレジの前。店を出て二十歩で元に戻った。
反応源は、レジの方向。
つむぎはコンビニの所在地と管理局からの距離を端末に入力した。サンクスマート桜谷駅前店。管理局から徒歩十二分。
魔鉱石の桜谷到着時からの微弱な上昇カーブ。管理局ではなく、その周辺に反応源がある。距離が離れているから微弱で、コンビニで至近距離になったからスパイクした。
全て辻褄が合う。
つむぎはコーヒーに手を伸ばした。紙コップは空だった。
◇◇◇
彩のオフィスのドアを叩いたのは、午前三時だった。
返事はなかった。つむぎがドアを開けると、彩がデスクに突っ伏して寝ていた。缶コーヒーが三本、デスクの端に並んでいる。
「彩さん」
「……ん」
「起きてください」
「……あと五分」
「五分は誤差です。起きてください」
彩が顔を上げた。髪が片側だけ潰れている。目の下の隈が、蛍光灯の下で一段濃く見えた。
「……何時」
「午前三時です」
「つむぎちゃん、あんたも寝なさいよ」
「その前に、報告があります」
つむぎの声のトーンが変わらなかった。いつもの無表情、いつもの平坦な声。だが彩は六年の経験で知っていた。つむぎが午前三時に起こしに来る時は、大きいものが出た時だ。
彩は缶コーヒーの四本目を開けた。
「聞く」
「烈火さんに、子供がいた可能性があります」
彩の手が止まった。缶コーヒーが唇に触れたまま、動かなかった。
「根拠は」
「三つあります」
つむぎは端末を彩のデスクに置いた。
「一つ目。烈火さんの行動ログです。失踪前の三ヶ月間、魔族の集落跡の同一建物に繰り返し滞在した痕跡があります。調査ではなく、生活の形跡です」
彩は画面を見つめた。
「二つ目。帰還時の持ち帰り物品リストに、『私物。銀の指輪。一点』と手書きの追記がありました。調査機材ではなく、個人的な品です」
「指輪……」
「三つ目。刃さんの魔鉱石が、サンクスマート桜谷駅前店のレジ付近で異常反応しました。魔鉱石は魔力に反応する鉱物です。レジにいたのは店員一名」
彩がゆっくりと缶コーヒーをデスクに置いた。
「その店員の名前は」
「イエヤスさんが通っている店です。レジにいたのは——」
「ユアちゃん、でしょう」
つむぎが彩を見た。
彩の目が変わっていた。管理官の目だった。
◇◇◇
彩は端末を開き、管理局の人事データベースにアクセスした。
ユアの採用記録。サンクスマート桜谷駅前店、パートタイム従業員。採用日は一年半前。
履歴書。氏名、生年月日、住所、学歴。
学歴欄に、空白があった。
中学卒業まではある。高校の記載がない。その代わりに「家庭の事情により中退」とだけ書かれている。中退した学校名もない。
「不自然ね」
彩が呟いた。
つむぎが横から画面を覗き込んだ。
「履歴書の記載は本人申告です。虚偽の可能性も——」
「待って。身元保証人の欄」
彩が画面をスクロールした。
身元保証人。氏名の欄に、名前が一つ。
彩の指が止まった。
「……この名前」
「知っている名前ですか」
彩は椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げ、深く息を吐いた。
「烈火の偽名よ。管理局に提出した別件の書類で、一度だけ使ったことがある。霧島課長が記録していた」
つむぎの目が細くなった。
「烈火さんが、ユアさんの身元保証人になっていた」
「ええ。偽名でね」
全てが繋がった。
魔族の集落での生活痕跡。持ち帰った銀の指輪。偽名での身元保証。
烈火には子供がいた。その子供は桜谷にいる。コンビニのレジに立っている。
彩は缶コーヒーを一口飲んだ。苦かった。いつもより苦く感じた。
「あの子、何も知らないのかしら」
「分かりません。ただ——」
つむぎは端末を操作し、魔鉱石の反応データを表示した。
「一つ、説明がつかないことがあります。魔鉱石は魔力に反応します。ユアさんが魔族の血を持っているなら、刃さんの魔鉱石は桜谷に来た時からもっと強く反応していたはずです。でも実際には、微弱な上昇だけだった」
「つまり?」
「普段は何かが魔力を封じている。それが外れた時だけ、魔鉱石が反応した」
つむぎはデータを指で示した。
「昨日のコンビニでの異常反応は、突発的です。つまり、いつもは封じられている魔力が、昨日だけ漏れていた。何かが外れていた」
彩はユアの採用記録の写真を見つめた。
制服姿のユア。少しだけ眠そうな目。左手が写真の端にわずかに見えている。
左手の薬指に、細い銀色の指輪。
烈火が持ち帰った、銀の指輪。
「指輪か」
彩が呟いた。
つむぎが頷いた。
「魔力を封じる効果のある装身具。烈火さんが魔族の集落から持ち帰り、子供に渡した。それを着けている間は魔力が抑制され、外せば漏れ出す」
「昨日、ユアちゃんが指輪を外していた?」
「刃さんの証言では、昨日のユアさんの左手に指輪はなかったそうです」
彩は椅子から立ち上がった。
窓の外は暗い。午前三時の桜谷。コンビニの蛍光灯だけが、駅前にぼんやりと光っているはずだった。
「……あの子に、どう伝える」
つむぎは答えなかった。
それは、データでは解けない問題だった。




