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第89話 始末書

管理局、深層特務課オフィス。午後十一時。


 霧島征一郎はデスクの前に座っていた。


 彩からの報告書が三通。エルフの世界からの帰還報告。三つの力の仮説。三つ目の魔力増幅を担う者が未特定であること。全て読み終えている。


 デスクの上に、万年筆を置いた。


 引き出しを開ける。奥に、紙が黄ばんだ書類の束。

 二十年前の始末書。処理済みの判を、まだ押していない。


 霧島はその束に指を触れ、目を閉じた。


 三つ目の力。魔族の血。烈火の子供。

 報告書の行間に、あの男の影がちらつく。


 烈火。


 お前はあの夜、俺を殴り倒して一人で行った。

 俺はお前の足首を掴んで、止められなかった。


 霧島は始末書の束を引き出しから取り出し、デスクの上に置いた。


 蛍光灯の光が、黄ばんだ紙を照らしている。


 二十年前の夜が、まだここにある。




          ◇◇◇


 二十年前。ダンジョン庁、仮設訓練場。深夜二時。



 霧島征一郎は書類仕事を終えて、訓練場に向かっていた。


 いつもの素振りをするためだ。五百回。雨の日も、任務明けの日も、一日も欠かしたことはない。それが霧島という人間の骨格だった。


 訓練場の扉に手をかけた時、中から物音がした。


 金属の擦れる音。重い荷物を引きずる音。


 扉を開けた。


 神代烈火が、計測機材を担いでいた。


 背中に二つ、両手に一つ。合計三つの大型機材。どれも深層調査用の精密機器で、一つあたり四十キロを超える。それを一人で運び出そうとしていた。


 霧島は一目で分かった。


 深層に行く気だ。単独で。また。



「どこに行く」


 霧島の声は静かだった。


 烈火が振り返った。悪びれた様子はない。見つかったことを面倒くさがっている顔だった。


「ん? ああ、霧島か。こんな時間に何やってんだ」


「素振りだ。毎日やっている」


「偉いな」


 また、その言葉だった。

 四年前の夜と同じ声。同じ温度。同じ、悪意のない率直さ。


「質問に答えろ。どこに行く」


「ちょっと奥まで」


「奥とはどこだ」


「境界の、もうちょい先」


 霧島の手が、拳になった。


「前回の報告書に書いてあった。『俺一人じゃ無理だった』と。無理だった場所に、また一人で行くのか」


「前回は準備が足りなかった。今回は機材がある」


「機材で補える差ではないと、お前自身が書いただろう」


 烈火は機材を床に下ろした。

 重い音が訓練場に響いた。


「霧島。お前、俺の報告書ちゃんと読んでんだな」


「全て読んでいる。お前が出したものも、出し忘れたものも」


「出し忘れたもの?」


「提出期限を二ヶ月過ぎた調査報告が三件。経費精算が五件。始末書が七件。全て、俺が代わりに書いて提出した」


 烈火が目を丸くした。


「マジで?」


「マジだ」


「……悪いな」


「悪いと思うなら、一人で行くな」


 烈火は頭をかいた。

 困った顔だった。申し訳ないとも、面倒くさいとも違う。ただ、困っていた。


「霧島。お前は頭がいい。報告書も完璧だし、分析も正確だ。俺にはできないことを全部やってくれてる。感謝してる」


「感謝は要らない。一人で行くなと言っている」


「だから困ってんだよ」


 烈火が霧島を見た。


「俺が行かなきゃ、誰が行くんだ。お前か? 無理だろ。奥に何があるか、お前は知らない。俺は見た。見たから、行かなきゃならない」


「チームを組め。人を集めろ。制度を使え」


「制度って何だよ。そんなもん待ってたら間に合わねえ」


「何に間に合わないんだ」


 烈火は答えなかった。


 その沈黙が、霧島の中で何かを確定させた。

 烈火は深層の奥で、何かを見た。そしてそれが、時間の問題であることを知っている。


「……頼むから、一人で行くな」


 霧島の声が、少しだけ揺れた。


 烈火が笑った。


「モテない奴がうるせぇな」


 一番効く言葉を、一番軽い声で言った。



 霧島の拳が飛んだ。


 烈火の顎を捉えた。まともに入った。

 選抜プログラム首席の拳は本物で、烈火の頭が横に振れた。


 烈火が目を見開いた。


「……お前、殴れるようになったのか」


「黙れ」


 霧島がもう一発打った。烈火の腹に入る。烈火が半歩下がった。


 三発目。烈火の顔面を狙った右ストレート。


 烈火が受けた。

 左手で霧島の拳を掴み、そのまま引いて、右の拳を霧島の鳩尾に叩き込んだ。


 一発で、霧島の膝が折れた。


 息ができない。視界が白くなる。腹の底から内臓が押し上げられるような衝撃。


 霧島は床に手をついた。吐きそうになるのを堪え、立ち上がった。


 殴った。

 殴り返された。


 殴った。

 殴り返された。


 霧島の拳は何度か烈火に届いた。顎に一発、こめかみに一発、肋骨に二発。選抜プログラム首席の実力は伊達ではなく、烈火も避けずに受けていた。


 だが烈火の反撃は、その倍の速度で、倍の重さで返ってきた。


 差は歴然だった。

 だが一方的ではなかった。


 霧島の顔が腫れた。口が切れた。左目の上が割れて血が流れた。


 それでも立ち上がった。


 立ち上がれなくなったのは、七度目に叩きつけられた時だった。


 床に仰向けに倒れ、天井の蛍光灯が滲んで見えた。体が動かない。肋骨が何本かいっている気がした。


 烈火が機材を拾い上げた。背中に担ぎ直す。


 霧島は床を這った。


 右手が、烈火の足首を掴んだ。


 烈火が見下ろした。


 霧島の顔は血まみれだった。左目は腫れて塞がりかけている。口から血が垂れている。それでも、右手だけは離さなかった。


「……なんでそこまでする」


 烈火の声は、静かだった。


 霧島が血を吐いた。床に赤い染みが広がる。


「お前の始末書を書くのは——俺なんだよ」


 烈火は黙った。


 長い沈黙だった。


 訓練場の蛍光灯が、二人の影を床に落としていた。片方は立ち、片方は倒れている。その構図が、二人の二十年間をそのまま映していた。


 烈火が霧島の手を、ゆっくりと外した。


 力ではなく、丁寧に。一本ずつ、指を解くように。


 立ち上がり、機材を担ぎ直した。


 訓練場の出口に向かう。


 五歩目で、立ち止まった。


「お前、強くなったな」


 振り返らずに言った。


 四年前は「偉いな」だった。

 今日は「強くなったな」だった。


 意識すらされていなかった男が、ようやく認められた。


 だがそれは——別れの言葉だった。


 烈火の足音が遠ざかる。

 訓練場の扉が閉まる。金属の音が反響し、やがて消えた。


 霧島は天井を見つめていた。


 動けなかった。体がではなく、心が。


 止められなかった。



 翌朝、霧島のデスクに烈火の始末書は届かなかった。


 その翌日も届かなかった。


 一週間経っても届かなかった。


 届かなくなった始末書を、霧島は引き出しの一番奥にしまった。

 烈火の代わりに自分が書いた七枚の始末書と一緒に。


 処理済みの判を押すことが、二十年間、できなかった。




          ◇◇◇




 現在。管理局、霧島のオフィス。


 古い始末書の束。紙が少し黄ばんでいる。二十年分の時間が、紙の色を変えていた。


 その上に、新しいファイルが一つ。


 彩から送られてきた報告書。エルフの世界からの帰還。三つの力の仮説。三つ目の魔力増幅を担う者が見つかっていないこと。


 霧島はファイルを閉じ、始末書の束に手を置いた。


 あの夜、烈火は「モテない奴がうるせぇ」と言った。

 二十年経った今でも、霧島は独身だった。烈火の言葉が呪いになったわけではない。ただ、あの夜以降、霧島の人生は全て一つの目的に注がれた。


 制度を作る。人を集める。烈火が一人でできなかったことを、組織でやる。


 深層特務課の設立。ダンジョン庁設置法第十七条。藤村彩の配置。神代イエヤスの発見。


 全ての駒は揃いつつある。あと一つ。三つ目の力。


 霧島は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。


「……始末書、まだ溜まってるぞ。烈火」


 誰もいないオフィスに、低い声が落ちた。


 霧島は眼鏡をかけ直し、引き出しを閉めた。

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