第88話 帰還
境界壁の亀裂を抜けた瞬間、空気が変わった。
湿度。気温。重力。全部が微妙に違う。エルフの森の澄んだ空気から、人間の世界の、少しだけ重い空気へ。
管理局の地下通路。非常灯の白い光が六人を照らした。
彩が待っていた。
壁にもたれて、缶コーヒーを握っている。目の下に隈があった。何日寝ていないのか分からない顔だったが、六人の姿を見た瞬間、口元が緩んだ。
「おかえり」
「ただいまっす」
イエヤスが軽く手を上げた。
彩は六人の顔を一人ずつ確認した。
欠けていないか。怪我はないか。目は死んでいないか。
全員揃っている。全員、生きている。
彩は缶コーヒーを一口飲んだ。
「報告は後でいい。先にシャワー浴びて、飯食いなさい。顔がひどいわよ、全員」
「彩さんも目のクマ、やばいっすよ」
「うるさい」
◇◇◇
シャワーと食事の後、つむぎはすぐにラボへ向かった。
凛とセリアは管理局の仮眠室で休んでいる。あかりはカメラのデータを整理すると言って編集室にこもった。
イエヤスは、当然のようにコンビニへ向かった。
「おい」
刃の声だった。
イエヤスが振り返ると、刃が廊下に立っていた。腕を組み、壁に背を預けている。
「どこに行く」
「コンビニだけど」
「……付き合う」
イエヤスは少し驚いた。刃が自分から「付き合う」と言ったのは初めてだった。
「鮭おにぎり食う? 奢るよ」
「いらない」
「じゃあなんで来んの」
刃は答えなかった。
ただ歩き出した。イエヤスは肩をすくめて、並んで歩いた。
◇◇◇
サンクスマート桜谷駅前店。
自動ドアが開いた瞬間、イエヤスの顔が綻んだ。
蛍光灯の白い光。冷蔵ケースの低い唸り。レジの電子音。コンビニの匂い。
「帰ってきた……」
「……コンビニはお前の家じゃない」
刃が溜息をついた。
レジにユアがいた。
いつもと同じ制服。いつもと同じポニーテール。いつもと同じ、少しだけ眠そうな目。
「おっ生きてたか」
「おう。何日ぶりだ」
「十日」
「そんなもんか。でも、数えたんすか?」
「それくらい意識しなくても覚えてるもんよ」
ユアの唇が少しだけ尖った。
イエヤスは冷蔵ケースに直行した。鮭おにぎりを四つ掴む。明太子を一つ。迷って、もう一つ鮭を追加した。五つ。
刃は自動ドアをくぐった瞬間、足を止めていた。
ポケットの中の魔鉱石が、熱かった。
微かに温かい程度ではない。掌に押し当てたら低温やけどするのではないかという熱。八つの石が全て同時に脈打つように明滅している。ポケットの布越しに、紫の光が漏れかけていた。
刃は右手でポケットを押さえた。
目だけが動いた。店内を見回す。客は二人。棚を見ている中年の男と、雑誌コーナーの女子高生。レジにはユアが一人。
魔鉱石の反応は、レジの方向に向かって強くなっていた。
刃はイエヤスの後ろに立ち、何も手に取らなかった。
ポケットの中の石を握りしめたまま、レジのユアを見ていた。
「お会計、五百二十円ね」
ユアがおにぎりをスキャンする。
イエヤスが財布を出した。小銭を数える。
「あ、十円足りねえ」
「また? わざとやってる?」
「すんません! ツケで!」
「ツケ溜まってるからね。ちゃんと返しに来てよ」
「死んでも返すっす!」
ユアが溜息をついて、レジを打った。
その時、刃の目がユアの左手に止まった。
指輪がない。
刃は記憶を辿った。以前この店に来た時——チームで桜谷に赴任した直後——レジの女の左手に、細い銀色の指輪があった。気に留めるほどのものではなかった。ただ、見ていた。刃は一度見たものを忘れない。
今日は、ない。
そしてポケットの中の魔鉱石は、刃がこの店で経験したことのない強さで反応し続けている。
「刃、何も買わないの」
イエヤスがおにぎりの袋を持って振り返った。
「……買わない」
「じゃあ帰るか」
刃は頷いた。
自動ドアをくぐり、店の外に出た。
五歩離れた時点で、魔鉱石の温度が明確に下がった。振り返る。店の中のユアが、次の客の対応をしている。
十歩。さらに下がる。
二十歩。元の「微かに温かい」に戻った。
刃は立ち止まった。
イエヤスは隣でおにぎりの包装を剥がしていた。鮭を一口で半分食い、目を閉じて噛み締めている。
「うめぇ……やっぱコンビニの鮭だわ……」
刃はイエヤスを見なかった。
ポケットの魔鉱石を握ったまま、コンビニの蛍光灯を見つめていた。
◇◇◇
管理局に戻ったのは、夕方だった。
つむぎはまだラボにいた。端末を三台並べ、烈火の残存データを解析している。
刃がラボの扉を開けた。
つむぎが顔を上げた。刃がラボに来ること自体が珍しい。
「雪平」
「はい」
刃はポケットから魔鉱石を取り出し、つむぎの前に置いた。
八つの石が、まだ微かに温かい。
「調べてほしいものがある」
つむぎは魔鉱石を見つめた。
「反応が変わりましたか」
「駅前のコンビニで、異常反応した。レジの方向に近づくほど強くなった」
つむぎの目が細くなった。
「レジに、誰がいましたか」
「店員が一人。イエヤスが通っている店の女」
つむぎは端末を一つ閉じ、魔鉱石の計測機器を引き寄せた。
「もう一つ、気になることがある」
刃が続けた。
「その女の左手に、いつもある指輪がなかった」
つむぎの手が止まった。
二人の目が合った。
つむぎは何も言わず、魔鉱石を計測器にセットした。




