第86話 烈火の痕跡
つむぎが小屋に籠もって、三日が経った。
エルフの古文書。境界核の観測記録。チームがこれまでに採取した地質データ。この前発見した烈火の研究痕跡。その全てを端末に取り込み、照合し、並べ替え、また照合する。
食事はセリアが運んだ。
つむぎは礼を言い、三口で食べ、端末に戻った。
凛が一度だけ「寝なさい」と言った。
つむぎは「あと少しです」と答えた。それが三回続いて、凛は諦めた。
残された六人は、やることがなかった。
守護獣は北の山から動かない。次の手はつむぎの分析待ち。戦闘の予定もなければ、掘る壁もない。
エルフの集落に、奇妙な日常が生まれた。
◇◇◇
二日目の昼。
イエヤスは集落の食堂で、三度目のため息をついた。
目の前には木の皿。エルフの保存食が並んでいる。干した木の実、薄く焼いた穀物のパン、甘い蜜をかけた果実。どれも丁寧に作られていて、エルフたちは美味そうに食べている。
だが。
「鮭がねえ」
「昨日も同じこと言ってたわよ」
凛が向かいの席で、パンをちぎりながら言った。
「だって鮭がねえんだもん。おにぎりもねえ。米もねえ」
「異世界に日本のコンビニがあるわけないでしょう」
「分かってる。分かってるけど、体が鮭を求めてる」
イエヤスは木の実を一つ口に放り込んだ。噛んだ。悪くない。悪くないが、鮭ではない。
セリアが木の皿を持って近づいてきた。
「イエヤス、これを」
皿の上に、薄紅色の焼き魚が乗っていた。
「川魚です。集落の東の川で、今朝獲りました。味は鮭とは違いますが、近いと思います」
イエヤスの目が開いた。
「マジか。セリア、お前いい奴だな」
「事実を述べただけです」
セリアがイエヤスの隣に座った。自然な動作だった。あまりに自然すぎて、本人に悪意も計算もないことが明白だった。
凛の箸が止まった。
「……なんで隣に座るの」
「席が空いているので」
「向かいも空いてるけど」
「隣の方が魚を取り分けやすいです」
セリアが本気で言っているのが、また厄介だった。
凛はパンをちぎる力が強くなった。パンが二つではなく五つに裂けた。
あかりが食堂の入口からカメラを構えていた。
「いい画。凛ちゃんの嫉妬とセリアちゃんの天然、同時に撮れるの最高」
「嫉妬じゃないから」
「嫉妬とは何ですか?」
凛とセリアが同時に言った。凛が頭を抱えた。
食堂の隅では、刃が一人で食事をしていた。
正確には、しようとしていた。
エルフの子供が三人、刃の周りに座っている。刃の刀の鞘を触りたがり、一人が刃の膝によじ登ろうとしていた。
刃は無言で子供を膝から下ろした。
子供はまた登った。下ろした。登った。
イエヤスが遠くから見て笑った。
「刃さん、モテてんな」
刃はイエヤスを見た。目が「黙れ」と言っていた。
子供が四人に増えた。
◇◇◇
三日目の夕方。
あかりは集落の記録を撮り終え、木陰で映像を編集していた。
通信は繋がらない。同接はゼロ。それでもあかりは編集し続けていた。
「帰ったらまとめて上げるの。エルフの集落特集、絶対バズる」
誰に言うでもなく呟きながら、フレームを切り替える。
凛が隣に来て座った。
「あかり、ちょっと聞いていい?」
「なに?」
「さっきの食堂の映像、消して」
「えー。なんで。凛ちゃんすごくいい顔してたよ」
「だから消して」
「パンが五つに裂ける瞬間、スローで見ると最高なんだけど」
「消しなさい」
あかりはカメラを胸に抱えて逃げた。凛が追いかけた。
エルフの子供たちが二人の追いかけっこを見て笑い、一緒に走り始めた。
集落に、不思議な活気が生まれていた。
◇◇◇
四日目の朝、つむぎが小屋から出てきた。
目の下に薄い隈がある。だが足取りは確かだった。
端末を抱えて、全員がいる広場に向かった。
イエヤスは木の根元で黒ツルハシを磨いていた。凛がその隣で剣の手入れをしている。刃は広場の端に立ち、腕を組んで空を見ていた。セリアが弓弦を張り替え、あかりがカメラのレンズを拭いている。エルティは椅子に座り、まだ顔色は白いが目は開いていた。
「揃ってますね」
つむぎの声に、全員が顔を上げた。
「三日も何してたんだ?」
イエヤスが聞いた。
「あなたが三日で鮭の話を四十二回した間に、データを解析していました」
「数えてたのかよ」
「端末の音声記録に残っています。正確には四十二回と、寝言で三回」
凛が深いため息をついた。
◇◇◇
「まず、これを見てください」
つむぎが端末の画面を広場の切り株の上に置いた。
表示されているのは、烈火の殴り書き。岩壁に刻まれた乱暴な文字を、あかりが撮影し、つむぎがデータ化したもの。
『こっち側から叩いて直す』
イエヤスはその文字を見つめた。
親父の字だ。読めるか読めないかギリギリの、力任せの筆跡。ガキの頃に冷蔵庫に貼ってあったメモと同じ字。「牛乳かえ」「カレーのルー」「イエヤス はやくねろ」。
「この三日間、エルフの古文書と私たちの観測データを照合しました」
つむぎが端末を操作し、二つの波形を並べた。
「左が、境界核の現在の振動周波数。右が、烈火さんが境界核に打撃を加えた痕跡から逆算した周波数です」
凛が波形を見た。
「……似てるわね」
「似ています。烈火さんは境界核の振動を読んでいた。そして、自分の打撃で周波数を上書きしようとしていた」
つむぎは一拍置いた。
「昨日までの仮説と、同じ発想です。共鳴を断ち切る。方向は——合っていました」
全員が黙った。
「じゃあ、なんで壊れたんだ」
イエヤスが聞いた。
「方法です」
つむぎが端末を切り替えた。烈火の打撃痕から復元した振動パターン。一本の、太い波。
「烈火さんは一人でやった。一人の打撃で、境界核の周波数を丸ごと上書きしようとした。出力は桁外れです。人間一人が出せる振動としては、記録上ありえない数値が出ています」
つむぎの声が、少しだけ小さくなった。
「でも、境界核の共鳴は一人の力で上書きできる規模じゃなかった。無理に上書きしようとした結果、周波数が乱れて核が不安定になった。それが今の暴走の原因です」
正しい方向に、間違った方法で突き進んだ男。
力が足りなかったのではない。力は有り余っていた。足りなかったのは、人数だ。
イエヤスは殴り書きを見つめていた。
黙っていた。
珍しいことだった。イエヤスが黙る時間は、普段なら三秒が限界だ。それが十秒を超えた。
凛が横から覗き込んだ。
「……考えてる顔してるけど、どうせ大したこと考えてないでしょ」
イエヤスは答えなかった。
凛の表情が少し変わった。冗談で言ったのに、返ってこない。
セリアが反対側からイエヤスの隣に座った。何も言わず、ただ隣にいた。
あかりがカメラを構えた。
「イエヤスくんのシリアス顔、レアだから撮っとこ」
イエヤスがようやく口を開いた。
「……やろうとしたことは、合ってたのかよ」
声が、自分で思ったより低かった。
つむぎが静かに答えた。
「方向は合ってました。でも一人でやったから壊れた」
イエヤスは親父の字をもう一度見た。
それから、顔を上げた。
「いや——腹減っただけだわ」
空気が、一瞬で崩れた。
「は?」
凛が素で声を出した。
「だって三日間ずっとエルフ飯だぞ。鮭がねえ生活は限界がある」
「今そういう話してないでしょ!」
「してる。鮭の話は常にしてる」
セリアが真顔で頷いた。
「確かに、四十五回目です」
つむぎが訂正した。
「四十六回目です。今のを含めて」
凛が額を押さえた。あかりが笑いながらカメラを回し続けた。
だがイエヤスの目は、一瞬だけ殴り書きに戻っていた。
親父のこと。合ってたということ。一人だったということ。
全部、腹の底に落としてから、笑った。
そういう男だった。
◇◇◇
つむぎは咳払いをして、端末に三つの波形を並べた。
「整理します」
一つ目の波形を指で示す。
「共鳴打撃。境界核の振動に同調し、同じ周波数を合わせる力。これはイエヤスさんが持っています」
二つ目の波形。
「斬撃。同調した共鳴の経路を物理的に断つ力。振動を伝える回路そのものを切断する」
つむぎの視線が広場の端に向いた。
刃は腕を組んだまま、何も言わなかった。
だが否定もしなかった。
「三つ目」
つむぎは三本目の波形を指で示した。
他の二つに比べて、振幅が圧倒的に大きい。
「魔力増幅。共鳴打撃と斬撃のエネルギーを増幅し、境界核まで届かせる力。烈火さんはこの三つ目を、自分の打撃力だけで補おうとした。だから暴走した」
つむぎは端末を閉じた。
「三つの力を同時にぶつけないと、増幅が暴走します。共鳴打撃で周波数を合わせ、斬撃で経路を断ち、魔力増幅で出力を届かせる。三つが揃って初めて、境界核の共鳴を安全に断ち切れる」
凛が腕を組んだ。
「共鳴打撃はイエヤス。斬撃は刃。三つ目は?」
「まだ分かりません」
つむぎの声は正直だった。
「魔力増幅は、文字通り魔力です。人間には使えない。エルティさんの血の力は逆位相に必要で、増幅と同時には担えない」
エルティが静かに頷いた。
否定したかったのかもしれない。だが二十年間、自分の体の限界を誰より知っている女性は、黙って頷いた。
「三つ目を担える存在が、どこかにいるはずです。でなければ、烈火さんも一人でやろうとはしなかった。一人で三つ全部をやろうとしたということは——三つ必要だと、本能で分かっていたはずです」
つむぎの目が、殴り書きの画像に戻った。
『こっち側から叩いて直す』
「烈火さんは正しかった。ただ、一人だった」
風が広場を抜けた。
イエヤスは黒ツルハシを持ち上げた。まだ沈黙している。紫の光は走らない。ただの鉄の塊。
でも親父はこれで境界核を叩いた。
方向は合っていた。方法が間違っていただけだ。
「三つ目、探すぞ」
イエヤスが言った。
つむぎが頷いた。凛が頷いた。セリアが頷いた。あかりがカメラを構えたまま頷いた。
刃だけが何も言わなかった。
だが壁から背を離し、広場の中に一歩踏み出した。
それで十分だった。
三つの力の理論は揃った。
だが三つ目を担う者が、まだいない。




