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第85話 仮説

エルティが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。


 セリアが小屋の入口に座り、膝の上に弓を置いたまま一晩中動かなかった。

 イエヤスが水を運び、凛が毛布を替え、つむぎだけが端末に向かい続けていた。



 エルティの目が開いた。


 紫がかった瞳が天井を見つめ、ゆっくりとセリアに向いた。


「……心配させたわね」


「当然です」


 セリアの声は平坦だったが、弓を握る指が白かった。



 つむぎが小屋に入ってきたのは、その十分後だった。


 端末を胸に抱え、いつもの無表情。だが目の奥に、何かを掴みかけている人間の色があった。


「エルティさん、一つ聞いてもいいですか」


「ええ」


「昨日、血の力で守護獣を鈍らせた時——何をしましたか」


 エルティは少し考えた。

 言葉を探しているのではなく、感覚を正確に言語化しようとしている顔だった。


「打ち消そうとしたのではないの」


「……はい」


「あの子の振動に、私の力を重ねた。同調してから、ほんの少しだけ——ずらしたの」


 つむぎの指が止まった。


「同調してから、ずらした」


「ええ。真正面からぶつけても弾かれる。だから同じ波に乗って、内側から位相をずらす。二十年間、境界核の振動を抑え続けてきた時も、同じやり方だった」


 つむぎは端末を開いた。

 昨日の戦闘データ。エルティの血の力が発動した瞬間の波形。守護獣の振動周波数に、一瞬だけ逆向きの山が重なっている。


 逆位相。


 つむぎはもう一つのファイルを並べた。

 イエヤスが中層で共鳴打撃を発動した時の波形。


 二つの波形を重ねる。


「……近い」


 呟いたのはつむぎ自身だった。


「エルティさんの干渉波形と、イエヤスさんの共鳴打撃の波形。周波数帯がほぼ同じです」


 エルティが身を起こそうとして、セリアに肩を押さえられた。


「つまり?」


「イエヤスさんの共鳴打撃は、守護獣の振動に同調する力を持っている。エルティさんの血の力は、同調した振動をずらす力。この二つを組み合わせれば——」


 つむぎは端末の画面を全員に見せようと振り返った。


 イエヤスが壁にもたれて寝ていた。


 口が半開きで、微かに寝息が聞こえる。黒ツルハシを抱えたまま、完全に落ちている。


「…………」


 つむぎの無表情が、さらに無表情になった。


 凛が小屋の入口から腕を伸ばし、イエヤスの後頭部を叩いた。乾いた音が小屋に響く。


「ぐっ——」


「寝るな」


「いや寝てねえ。聞いてた。えーと、同調して、ずらす、で——」


「その先はまだ言ってません」


 つむぎの声に温度はなかった。

 だが、端末を閉じた。


 凛が眉を上げた。


「つむぎ、続きは?」


「……別に」


「別にって何。途中でしょう」


「別に、です」


 つむぎは端末を膝の上に置いたまま、窓の外を見た。

 顔は無表情のまま。だが口元が、ほんの少しだけ下がっている。


 セリアが小首を傾げた。


「……怒っていますか?」


「怒ってません」


「怒ってますね」


 凛が断定した。つむぎは否定しなかった。


 あかりが小屋の隅からカメラを構えたまま小声で言った。


「つむぎちゃん、分かりやすくなったよね」


「なっていません」



 イエヤスは頭をかいた。


 目の前で一晩中データを分析して、仮説を組み立てて、やっと全員に説明しようとした瞬間に寝ていた男がいたら、そりゃ怒る。怒って当然だ。


 イエヤスは親父のことを思い出した。

 ガキの頃、泣いてると親父がでかい手で頭を撫でた。理由も聞かずに。犬にするみたいに、ぐしゃぐしゃと。それで大体のことは収まった。


 イエヤスは手を伸ばして、つむぎの頭に置いた。


 ぽん、と一回。それからゆっくり撫でた。


「悪かった。ちゃんと聞くから」


 つむぎの動きが止まった。


 完全に、止まった。


 端末が膝から滑り落ちかけて、かろうじて両手で押さえた。耳の先が赤くなっている。顔は正面を向いたまま動かない。


「…………続けます」


 声が、0.5トーンほど上がっていた。本人は気づいていない。



 あかりのカメラは全部捉えていた。


「ちょっと待って。つむぎちゃんだけズルくない?」


「え? なんで?」


 イエヤスが本気で分かっていない顔で聞いた。


 凛が剣の柄に手をかけていた。無意識だった。


「そ、そうよ。ズルくはないわよ、何も!」


 早口だった。


 セリアが凛を見て、イエヤスを見て、つむぎを見た。


「人間の文化では、あれは何の儀式ですか?」


 誰も答えなかった。


 エルティだけが、二十年ぶりに声を出して笑った。

 小さく、短く。だが確かに笑っていた。




          ◇◇◇




 つむぎは咳払いを一つして、端末を開き直した。


 耳はまだ赤かったが、声は元の温度に戻っていた。


「——続けます。イエヤスさん」


「起きてる」


「目を見て言ってください」


 イエヤスがつむぎの目を見た。つむぎが0.3秒だけ視線を逸らして、すぐ戻した。


「……理論上は、守護獣と境界核の共鳴を断ち切れる可能性があります」


 凛が聞いた。


「可能性がある、ということは——足りないものがある?」


「はい」


 つむぎは端末の数値を指で示した。


「出力です。イエヤスさんの共鳴打撃で同調し、エルティさんの力でずらす。手順は成立する。でも守護獣と境界核の共鳴は桁が違う。二つの力だけでは、ずらした瞬間に押し戻される」


 つむぎは端末を閉じた。


「増幅する何かが要ります。同調とずらしの間に、エネルギーを上乗せして境界核まで届かせる、三つ目の力が」


 沈黙が落ちた。


 イエヤスは今度はちゃんと起きていた。

 顔には「六割くらいは分かった」と書いてあった。


「つまり、あと一個足りねえってことか」


「端的に言えばそうです」


「最初からそう言ってくれ」


「最初から順を追って説明していました。寝ていたのはそちらです」


 イエヤスは何も返せなかった。




          ◇◇◇




 刃が小屋の反対側の壁に背を預けていた。


 腕を組み、目を閉じている。

 会話に参加する気はないように見えた。


 だが、短く口を開いた。


「魔鉱石。温かくなっていた」


 全員が刃を見た。


「昨日の戦闘中ではない。もっと前から。桜谷にいた頃から、温度が上がり続けていた」


 刃はポケットから八つの魔鉱石を取り出した。

 掌の上で、石は微かに光っている。昨日より、少しだけ強く。


「何に反応しているかは分からない。だが、何かに近づいている」


 つむぎが魔鉱石を見つめた。

 端末を開きかけて、やめた。


 今のデータだけでは、答えが出ない。

 分かっている。だが、ピースは増えた。


 共鳴打撃。逆位相。そして、温かくなり続ける魔鉱石。


 三つ目は、まだ見えない。



 エルティがセリアの肩を借りて、ゆっくりと身を起こした。


 窓の外を見る。

 北の山は静かだった。


 だが、静かなだけだ。

 あの守護獣は眠りに戻ったのではない。次は、本気で目覚める。


「時間は、あまりないわね」


 誰も否定しなかった。

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