第84話 守護獣
翌朝、集落の外縁で森が震えた。
風はない。なのに葉が揺れている。
低周波が足裏から膝を伝い、背骨の奥まで這い上がってくる。
イエヤスは黒ツルハシの柄に右手を置いた。
昨夜まで微かに脈打っていた振動が、今朝は完全に沈黙している。
「……黙ってる」
「ツルハシが?」
凛が横から視線だけ寄越した。
「ああ。昨日までブルブルしてたのに、今朝はただの鉄」
振ってみる。叩いてみる。
何も返ってこない。共鳴打撃の気配が、完全に消えていた。
刃は門に背を預け、北の空を見ていた。
薄い灰色の空に雲はない。光が遮られているわけでもないのに、空気そのものが一段重い。
エルティは集落の門の前に立っていた。
顔色は蒼白だが、足取りは揺らがない。
左肩の衣の下から、紫の光が薄く漏れている。
「いつ?」
凛が聞いた。
エルティは北の山を見たまま、短く答えた。
「もう、来ています」
◇◇◇
集落の北側。
草原が切れて低木が散在する一帯に、七人が並んだ。
凛が隊列を決める。
刃が最前。イエヤスが中央やや前。セリアが右翼に弓を構え、凛自身が左翼に剣を抜く。つむぎとあかりが後方。エルティは中央後ろ。
「エルティさん、動けなくなったら下がってください」
凛の声は静かだが、命令だった。
エルティは小さく頷いた。
山の稜線が歪んだ。
最初は陽炎のように見えた。
次の瞬間、稜線の向こうから巨大な翼の先端が突き出し、それが左右に広がった。
続いて頭部が昇る。
体長は数十メートル。
黄金色の虹彩。縦に裂けた瞳孔。
目だけで分かった。知性がある。
そして、こちらを値踏みしている。
つむぎの端末が甲高い警告音を発した。
画面に「魔力濃度——計測上限超過」の赤文字が点滅する。
「通常の魔物の三桁上……桁が、三つ違います」
つむぎの声は震えていなかった。
手は震えていた。
◇◇◇
刃が最初に動いた。
全速。右前脚に飛び、手刀を叩きつける。
中層の特異体の装甲を砕いた手刀だ。それが——鱗の表面で止まった。
弾かれたのではない。通らなかったのだ。
着地した刃の右手が微かに赤くなっていた。
何も言わない。だが二撃目を打たなかった。
凛が左翼から斬り込んだ。
剣の切っ先が鱗に触れた瞬間、金属が岩盤に当たるような音が弾けた。手応えがないまま弾かれ、着地が二歩ぶれた。
セリアが弓を引いた。
狙いは頭部。矢は真っ直ぐ飛んだが、守護獣の体表に届く前に軌道が逸れた。
魔力の圧が、空気ごと歪めている。
「矢が、届かない」
セリアの翡翠の目が細くなった。
イエヤスが中央から黒ツルハシを振り上げた。
前脚の鱗に全力で打ち込む。
何も起きなかった。
共鳴打撃が発動しない。
ツルハシはただの鉄のまま、鱗の表面を叩いて跳ね返った。両腕に衝撃だけが返ってくる。
「起きろ……起きろよ」
二度、三度。振り下ろすたびに腕が痺れる。
紫の光は一筋も走らなかった。
守護獣は首を一度だけ横に振った。
それだけだった。
それだけで風圧が壁になり、前衛三人が十メートル後方まで吹き飛ばされた。
◇◇◇
守護獣が喉の奥から音を出した。
音というより振動だった。
地面が共鳴し、足の裏から内臓まで揺さぶられる。
全員が膝をついた。
あかりが両耳を押さえ、鼓膜の奥が痛んだ。
エルティが両手を前に出した。
紫の光が薄い膜になって七人を包む。血の力。
振動が減衰し、呼吸ができるようになった。
守護獣の動きが鈍った。
翼を広げかけた姿勢のまま、わずかに硬直する。
エルティの血の力だけが、唯一この生物に干渉していた。
だがエルティの左肩の光は急速に弱まっていた。
腕が小刻みに震えている。
「エルティさん、下がって!」
凛が叫んだ。
聞こえていないのか、聞こえていて無視したのか。
エルティは「あと、少し」とだけ呟いた。
守護獣の二度目の振動が来た。
一度目より低く、長い。
エルティの防壁に亀裂が走った。
紫の光が破片のように散る。
エルティの膝が折れた。
「姉さま!」
セリアが駆け寄り、倒れる体を支えた。
エルティは意識を保っていたが、もう立てなかった。
守護獣の硬直が解けた。
翼がゆっくりと広がり直す。
◇◇◇
全員が覚悟した。次が来る、と。
守護獣は首を上げ、黄金色の目で七人を見下ろした。
長い、長い沈黙があった。
そして——翼を一度だけ打ち下ろし、風を巻き上げて北の山の向こうへ飛び去った。
殺しに来たのではなかった。
まだ完全に目覚めてすらいない。ただ起き上がり、周囲を見回し、脅威の有無を確かめただけだ。
警戒モード。
つむぎが端末を見つめたまま呟いた。
「次に来た時は、本気で目覚めます」
地響きが遠ざかる。
やがて、静寂が戻った。
◇◇◇
七人は草原に座り込んだ。
エルティはセリアの膝に頭を預け、目を閉じたまま呼吸を整えている。
刃は自分の右手を見つめていた。通らなかった。その事実を、まだ噛んでいる。
凛は剣を鞘に戻したが、柄を握る手が白かった。
イエヤスは黒ツルハシを地面に立て、柄に額を押しつけた。
沈黙したままの相棒に、何も言えなかった。
つむぎが端末のデータを整理し終え、顔を上げた。
「一つ、分かったことがあります」
全員がつむぎを見た。
「守護獣の振動周波数が、境界核の共鳴周波数と一致していました。あの守護獣は境界核と繋がっている」
つむぎは端末の画面を指で辿った。
「もう一つ。エルティさんの血の力が発動した瞬間、守護獣の周波数に干渉が記録されています。動きが鈍ったのはこのせいです」
そこで一度、端末を膝に置いた。
別のファイルを呼び出す。イエヤスの過去の共鳴打撃データ。
「これは、イエヤスさんが中層で共鳴打撃を発動した時の波形です。エルティさんの干渉波形と、近い」
凛が聞いた。
「それは、つまり——」
「殺す相手じゃない、ということです」
つむぎは端末を閉じた。
「共鳴をどうにかする問題だと思います。でも——まだ分からないことが多すぎる。どうすれば断ち切れるのか、何が足りないのか。今のデータだけでは、答えが出ません」
風が草原を撫でた。
北の山の向こうに、守護獣の影はもう見えない。
足りないものがある。
それが何かすら、まだはっきりしない。
全員が、それを体で知った日だった。




