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第9話 「探索者のねえちゃん」

浅層と中層の境界付近は、空気が変わる場所だった。


 温度が一段下がる。照明の間隔が広くなり、薄暗さが増す。壁面の岩質も変わって、浅層の灰色がかった岩盤から、黒みを帯びた硬質の地層に切り替わる。


 そして何より——匂いが違う。


 浅層は乾いた土と埃の匂いだ。人の出入りが多いから、どこか生活感がある。しかし境界付近まで来ると、その生活感が消える。代わりに、もっと深い場所の——地層そのものの匂いというか、長い時間圧縮された岩と鉱物の匂いが漂ってくる。


 イエヤスはその匂いが好きだった。


「おい、イエヤスくん」


 後ろから彩の声が飛んでくる。


「そっちは境界線。それ以上奥に行っちゃダメ」


「うす」


「本当に分かってる?」


「分かってるっす」


「わかってない顔してるから言ってんの」


 的確だった。


 浅層の採掘許可エリアは、中層との境界の手前百メートルまで。それより奥は四級採掘者(よんきゅうレイバー)の管轄外だ。イエヤスは毎日少しずつ採掘ポイントを奥に移動させていて、今日とうとう境界付近まで来てしまった。


 意図的に、とまでは言わない。ただ、奥の方が鉱脈が見つかりやすい。壁の「音」が豊かになる。浅層の手前側は掘り尽くされた場所が多いが、境界付近はまだ手つかずの壁面が残っている。


「ここ、いい壁してるんすよ。音が——」


「音の話はいいから。ここは探索者の往来も多い場所だからね。邪魔にならないように」


「うす」


 彩が離れていく。今日は彩の担当区画が少し手前にあるので、イエヤスは一人で掘ることになっていた。一人で任せてもらえるようになったのは、ここ数日のことだ。


 壁に向き合う。ツルハシを構える。


 ——カンッ、カンッ、カンッ。


 リズムよく壁を削っていく。この辺りの岩盤は浅層の手前よりも硬い。その分、手応えがある。腕に返ってくる振動が心地いい。


 壁の音を聞きながら、鉱脈を探す。まだ見つからない。でも焦りはない。鉱脈は急いで探すものじゃない。壁と対話するように、一打ずつ、少しずつ——


 背後の通路から、足音が聞こえた。


 速い足音だった。走っている。しかも軽い。体重が軽い人間の、地面を蹴る音。


 イエヤスは手を止めて振り返った。


 中層へ続く通路の奥から、一人の人影が駆け下りてきた。


 探索者(ハンター)だった。


 一目でわかる。装備が違う。軽量の防護スーツに身を包み、腰には細身の剣を帯びている。動きが速い。足音のリズムが正確で、無駄がない。走っているのではなく、流れている——というのが、イエヤスの印象だった。


 その探索者が、イエヤスの前で足を止めた。


 女の子だった。


 イエヤスと同年代か、少し上くらい。黒髪をポニーテールに結んでいる。切れ長の目。整った顔立ち。息は少し上がっているが、それでも姿勢が崩れない。防護スーツの左胸に三級探索者(さんきゅうハンター)の資格章が光っていた。


 三級。中層で活動できる等級だ。


 この年齢で三級。それがどういう意味か——イエヤスにはわからなかった。彩が聞いたら驚いただろうが、イエヤスの頭に等級の相場観はない。


 少女がイエヤスを見た。


 正確には、イエヤスの格好を見た。泥まみれの作業着。ヘルメット。手にしたツルハシ。足元に散らばる岩の欠片。


「……採掘者レイバー?」


 声は低めだった。低め、というか、意識して低くしている感じがある。


「うす。四級っす」


「こんな境界付近で一人? 護衛は」


「護衛っていうか、師匠が少し手前で作業してます」


「師匠が手前で、あなたが境界付近に。危なくない?」


「大丈夫っすよ。ここまだ浅層だし」


 少女の眉がわずかに寄った。怪訝な顔、というよりは、呆れに近い表情だった。


「浅層でも境界付近はモンスターの出現リスクがある。中層から迷い込んでくる個体もいる。採掘者が単独でいていい場所じゃない」


「へー。そうなんすか」


「…………」


 少女が黙った。


 イエヤスは気にせず、少女を見上げた。少しだけ背が高い。ポニーテールが揺れている。防護スーツには中層の粉塵がうっすらと付着していて、剣の柄には使い込まれた跡があった。


「おお、探索者ハンターか。かっこいいな」


「——は?」


 少女の表情が変わった。怪訝から、困惑に。


「装備。すげーっすね。光ってるし。俺の作業着とは大違いだ」


「……別に。これは支給品だし」


「剣もかっこいい。やっぱ探索者って感じだなー。いいなー」


 イエヤスに他意はなかった。純粋に思ったことを口にしているだけだ。探索者の装備はかっこいい。それは管理局の前で初めて見た時から思っていた。


 少女は一瞬だけ——本当に一瞬だけ——口元を動かした。笑いかけたのか、何か言いかけたのか。すぐに表情を引き締め直した。


「……褒めても何も出ないけど」


「別に何か欲しくて言ってるわけじゃないすよ。かっこいいものはかっこいいっす」


「…………」


 少女がイエヤスを見つめた。見つめる、というほど長くはなかったが、視線がイエヤスの全身を上から下まで素早く走った。観察している。


「……あなた」


「はい」


「採掘者にしては、変な立ち方してる」


「変?」


「重心が低い。両足の幅が肩幅より広い。左足が半歩前。——それ、採掘の構えじゃなくて戦闘の構え」


 イエヤスは自分の足元を見下ろした。言われてみれば、確かにそうかもしれない。壁に向かって掘っている時でも、この立ち方になる。親父に教わった基本姿勢だ。いつでも動ける構え。いつでも反応できる構え。


 あまりに長い間この姿勢で過ごしてきたから、もはや自然体になっている。


「親父にこうしろって言われたんで」


「お父さんに?」


「うす。ガキの頃から」


 少女の目が細くなった。何かを考えている目。しかしイエヤスはその意味を読み取れなかった。


「……そう」


 それだけ言って、少女は視線を外した。


「中層の巡回報告を管理局に出さないといけない。——境界付近で一人にならないで。ここは浅層でも油断しちゃいけない場所だから」


「うす。気をつけます」


「…………」


 少女は何か言いかけて、やめた。軽く頷いて、通路を管理局の方に向かって歩き出す。


 イエヤスはその背中を見送った。


「——あ」


 少女が数歩で立ち止まった。振り返らずに言った。


「かっこいいって言ったの」


「うす。言いました」


「……別に嬉しくなんかない」


 早足で去っていった。ポニーテールが左右に揺れている。


 イエヤスは首を傾げた。嬉しくないのか。ならなぜわざわざ確認したのか。よくわからないが、探索者というのは変わった人が多いのかもしれない。


「……名前、聞いてなかった」


 まあいいか、と思ってツルハシを拾い上げた。壁に向き直る。掘るものは目の前にある。



          ◇◇◇



 管理局へ向かう通路を、早瀬凛は早足で歩いていた。


 歩きながら、頭の中で先ほどの採掘者の姿を反芻する。


 泥まみれの少年。四級採掘者。ツルハシを持って、境界付近で一人で壁を掘っていた。それだけなら珍しくもない。——いや、四級が境界付近にいること自体は珍しいが、それは管理の問題だ。


 引っかかったのは、もっと別のことだった。


 立ち方。


 重心の置き方。視線の配り方。こちらが通路の奥から走ってきた時、あの少年は振り返る動作が異常に早かった。足音を聞いて反応し、体の向きを変え、いつでも動ける姿勢を取っていた。


 凛はそれを、知っている。


 自分の父が——第一世代(だいいちせだい)の探索者が、そうやって立つ。


「あの採掘者……」


 呟いてから、首を振った。


 考えすぎだ。たまたまだろう。親に武道でも習ったのかもしれない。この国には格闘技の経験者など掃いて捨てるほどいる。


 でも。


「立ち方が探索者みたいだった」


 凛は自分の言葉を噛みしめて、管理局の扉を開けた。


 巡回報告を提出する。中層の状況は異常なし。ただし、再出現頻度がやや上がっている印象がある——とだけ書き添えた。


 報告書を出し終え、建物の外に出る。


 夕暮れの空を見上げた。


 泥まみれの採掘者の顔を、もう一度思い出した。


 屈託のない笑顔。「かっこいいな」とまっすぐに言った目。探索者に対して臆することも、卑屈になることもない。ただ純粋に、そう思ったから口にした——そういう顔だった。


「——ふん。変なやつ」


 それきり考えるのをやめて、凛は駅に向かって歩き出した。


 名前を聞くのを忘れたことに気づいたのは、電車に乗ってからだった。



   ◇◇◇


一方その頃。


 一人残されたイエヤスは、壁の奥から一つの石を掘り出していた。

 青く澄んだ、今までで一番「キラキラした」魔鉱石。


「お、いい感じじゃん。明日、鑑定ってとこに持っていけばいいんだっけな」


 イエヤスは泥だらけの手で石を掲げ、のんきに笑った。

 その石が翌日、ダンジョン庁の最高研究機関を根底から揺るがす大騒動を引き起こすことになるとは——

 この時のバカは、微塵も思っていなかった。

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