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第81話 「汚い字」

つむぎが、洞窟の壁の前にしゃがみ込んだ。

 端末をひざに置き、翻訳魔具を壁に向けたまま、ノートを開いた。


「10分ください。烈火さんに届いた手紙を解析した時のアプリをヴァージョンアップします」

「解読、できそう?」

「紙と岩肌の差を計算できれば、恐らく」


 ボールペンを握った瞬間、目の色が変わった。研究者の目だ。


「皆さんは、少し離れた所で休んでいてください。集中できないので」


 イエヤスが頷いた。


「分かった」


 凛が念を押した。


「邪魔しないようにね」

「分かってる」

「あんたの『分かってる』は半分くらいしか信用できないのよ」

「半分も分かれば上等だろ。親父なんかゼロだぞ」


 つむぎは、二人の会話を完全に無視して壁に集中していた。


          ◇◇◇


 刃と凛が、洞窟の奥を確認しに行った。あかりがついていく。

 イエヤスはつむぎの近くに残った。


 奥の壁にも、似たような殴り書きが見つかった。

 全部、読めない。


 凛が壁面を見渡した。


「これ、何個書いてあるんだろ」


 刃が振り返りもせず答えた。


「数えるだけで日が暮れる」


 あかりがライトを動かしながら、ぼそりと言った。


「……これ、何かに似てない?」

「何に」

「子供が初めて鉛筆持って書く字」

「……似てる」

「似てるな」


 確かに、似ていた。大の大人が書いたとは思えない汚い字だった。


 一方、洞窟の入口近く。

 イエヤスはつむぎの邪魔にならない位置で、地面に座っていた。

 黒ツルハシを膝に置いて、ぼんやりしている。


 ツルハシの柄が、微かに振動していた。壁の文字に、共鳴するように。


 イエヤスは何度か、その振動を確認した。

 覚えがあった。核晶を叩いた時の、自分の打撃のリズム——それと近い。だが、少し雑だった。

 誰かが叩いている。だが、自分の打撃ではなかった。


 つむぎに伝えようと口を開きかけて、止めた。

 今じゃないな、という顔だった。


          ◇◇◇


 八分。


 つむぎが顔を上げた。


「……できました」

「マジで?」

「マジです」


 全員が集まった。ノートに、つむぎの字で文字が並んでいた。


『ココマデ キタ

 カク ガ ヤバイ

 コッチ カラ タタイテ ナオス

 ——レッカ』


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 刃が、最初に動いた。


「……これ、いつのだ」


 つむぎがノートの端に走り書きした数値を読んだ。


「文字の劣化具合と、壁の苔の被覆率から、約二十年前です。あの男がこの世界を去る、直前くらいだと思います」


 二十年前。

 エルティが、血の防壁を張り始めた時期。

 外からの振動が始まった、と長老が言った時期。


 全員、頭の中で時系列が並んだ。言葉にしなくても、同じ図が描けた。

 二十年前、あの男は「核がヤバい」と感じた。そして「叩いて直す」と決めた。

 その直後、エルティの世界に「外からの振動」が届くようになった。


「核がヤバいから、向こう側——人間の世界の側から、叩いて直す、って言ってるよね」

「言ってる」

「で、その『直す』は、つまり」


 イエヤスが顎を引いた。


「核晶を叩く、ってことだろうな」


 誰も、その先を言わなかった。


 言わなくても全員、薄々考えていた。

 あの男が「叩いて直す」と決めて、二十年間、世界中の核晶を叩き続けてきた。

 その結果として、エルティの世界が二十年間、血の防壁を張り続けることになった。


 もし「叩いて直す」が、本当に直していたなら。

 二十年経って、核は安定しているはずだ。

 だが、エルティの言葉では、振動はここ数年、強くなり続けている。


 つむぎが、ノートを閉じた。閉じたが、すぐにもう一度開いた。


「……一つ、訂正します」

「何を」

「あの男は、二十年前の時点で、『叩いて直す』と決めていました。検証もデータもなしに」


 つむぎの声が、いつもより低い。


「親父さんが核晶を叩き続けてきたのは、思いつきではなかったってことです。二十年前から、確信があった。そして二十年間、ずっと叩き続けた」


 壁の汚い字が、急に重くなった。

 大の大人が書いた、子供みたいな字。

 その「大の大人」が、二十年間、自分の決断を一度も疑わずに叩き続けてきた。


          ◇◇◇


 刃が、ゆっくりと立ち上がった。


「『叩いて直す』が、本当に直してるかどうかは、まだ分からない」


 イエヤスが壁にもたれた。


「だな」

「でも」

「でも、もし、直してなかったら」

「親父は二十年間、何をやってたんだ、ってことになる」


 二人とも、それ以上は言わなかった。


 凛が、状況を簡潔にまとめた。


「あの男の方針が分かった。それだけ。まだ何が起きてるかは分からない。次は、実際に何が起きてるかを確認する。境界核の状態を、自分たちの目で見る」


 あかりが最後にもう一度、壁の文字をカメラに収めた。

 SNSに上げる手つきではなかった。記録として、静かに。


 つむぎが解読結果を清書しながら、ぽつりと言った。


「……あの人って、本当に、自分のやってることが正しいって、信じてるんでしょうね」


 刃が目を閉じた。


「だろうな」


 凛が洞窟の入口を見た。


「疑ったこと、ないんだろうね」


 イエヤスが黒ツルハシの柄を指で弾いた。乾いた音が洞窟に響いた。


「考える前に動く。それがモテる男だってよく言ってたぞ」


 誰も笑わなかった。

 笑える話ではなかった。

 でも、それが、烈火という男の核心だった。

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