第80話 「森の奥」
翌朝。集落の入口。
空はまだ薄暗い。発光苔の光が、木漏れ日に置き換わる前の時間帯。
セリアが先頭に立っていた。背中には弓——管理局支給のものではなく、エルフの森に置いてあった彼女自身の弓。腰には小型のナイフ。革袋には保存食と巻物が三本。エルフの森を歩く時の正装らしい。
「私が案内します。森の奥は、エルフでも普段は立ち入りません」
「分かった」とイエヤス。
「ちなみに姉さまは」
「留守番。動かさない方がいい」と凛が即答した。「集落で休んでてもらう」
エルティは見送りのために門のところに立っていた。顔色は昨夜よりわずかに良い。
「気をつけて。森の奥は——」
「分かってる」と刃。
「分かってないでしょ」とエルティ。
刃が黙った。
刃を黙らせる人間が二人目に現れた瞬間だった。一人目は凛である。
「集落跡には、近づきすぎないで。あそこは、長く立ち入る場所ではありません」
「ああ」
◇◇◇
森の奥への道は、最初の一時間は普通の獣道だった。
二時間目から、空気が変わった。
「結界を抜けます」とセリア。
セリアが手をかざした。指先から微かな光が空中の見えない壁に触れる。詠唱はない。ただ、エルフの血が結界に応え、道が開いた。
次の一歩で、空気の密度が変わった。光の質も変わる。森が一段深くなった。
「これで二層目」
「あとどれくらいあんの」とイエヤス。
「七層」
「マジか」
つむぎが端末で計測しながら歩いていた。
「魔力濃度、入った瞬間で一・八倍。多分、奥に行くほど濃くなります」
あかりが小声でつむぎに訊いた。
「これ、撮ってもいい数値?」
「撮っていい数値の基準が分かりません」
「あたしも分かんない」
二人は撮ることにした。
◇◇◇
四層目を抜けた先に、それはあった。
森が途切れ、開けた窪地。
その中に、朽ちた建物の群れが点在していた。
石造りでも木造でもない。岩を削り出したような、流線形の建造物。屋根は崩れ、壁の半分は崩落していたが、残った壁面には淡い光を放つ紋様が刻まれていた。
「魔族の集落跡です」とセリアが小声で言った。「人間でもエルフでもない、第三の種族が住んでいた場所です」
「『住んでいた』」と凛。
「ある時、いなくなりました。私が生まれる前の話です」
つむぎが端末を構えた。
三秒で、画面に変換結果が浮かんだ。
「壁の紋様、文字です。翻訳できそうです。少し時間ください」
「分かった」
あかりがカメラを建造物に向けた。一周する。
「……綺麗な造りなんだよね、これ」
「魔族は、芸術に長けた種族でした」とセリア。「歌、織物、紋様。エルフとは違う美しさを持っていた、と父が言っていました」
誰も、何も言わなかった。
セリアの語尾が「いた」だったことに、全員、気づいていた。
◇◇◇
つむぎが解析を進める間、刃が建物の中をひと通り見て回った。
戻ってきた刃の手には、何も握られていなかった。
「持ち帰れるものは、何もない」
「何でだ」
「全部、誰かが整理した跡がある。家具、服、食器、全部。きれいに片付けられた後、二十年放置されたって感じだ」
「片付けた、って」と凛。
刃は答えなかった。
代わりに、セリアが小さく口を開いた。
「……あの人が、片付けたのかもしれません」
全員が、セリアを見た。
「私が小さい頃、あの人がこの場所のことを話してくれたことがあります。『あそこの連中は、歌が上手かった。歌だけは、どんなエルフより上手かった』と。何度か来ていた、と言っていました。エルフの集落と、ここを行き来していたと」
「親父が、魔族と交流してたってことか」
「はい。あの人は、種族で人を見ない人でした。それは、私も覚えています」
セリアが、朽ちた建物の壁に、そっと手を触れた。
「いい人たちでした、と父が言っていました。あの人も、同じ言い方をしていました」
しばらく沈黙が流れた。
セリアが、ふと付け加えた。
「あの人、ここで子供たちに鉱石の見分け方を教えていたそうです。エルフの子も、魔族の子も、一緒に座らせて。私の父が、笑いながら教えてくれました。『あの男だけが、種族の境界線を最初から見ていなかった』と」
誰も、何も言わなかった。
イエヤスが、自分の靴の先を見た。
刃が、空を見上げた。
二人とも、何も言わなかった。
あかりは、その背中をカメラには収めなかった。
◇◇◇
つむぎの解析が、ある程度進んだ。
「皆さん、断片的にですが」
全員が集まった。
「壁の紋様、いくつかは記録のようなものです。一つは生活の記録。日々の出来事を、絵と文字で残していたみたいです。子供の誕生、収穫、祭事——」
「祭事もあったんすか」
「ええ、定期的に。歌と踊りの祭事だったようです。月の満ち欠けに合わせて」
つむぎが画面を切り替えた。
「もう一つ、注目すべきは『来訪者の記録』です。誰がこの集落に来たかを、紋様で残しています。エルフ、人間——」
画面に、不格好な人型のシルエットが浮かんだ。手にツルハシらしきものを持っている。
「これは多分、烈火さんですね」
「『多分』もクソもないでしょ」と凛。
「画風が雑なので、別人の可能性も一応」
「画風が烈火だ」と刃。
皆が小さく息を吐いた。
「他には?」
つむぎが少し言葉を選んだ。
「……一族の人数の記録もあります。年ごとに、何人いたか。最後の年——途中で記録が途切れています。途切れた年の数字は、ゼロでした」
部屋の空気が、止まった。
「何があった、とは書いてありません。書く時間が、なかったのかもしれません」
セリアが目を伏せた。
凛が短く息を吐いた。
誰も、何も訊かなかった。
訊いたところで、答えは壁にしか残っていない。
◇◇◇
集落跡の奥、一段深い場所に、岩肌に開いた洞窟の入口があった。
高さ三メートルほどの楕円形の口。中から、わずかに低い振動が伝わってくる。
「振動、ここから来てます」とつむぎ。「集落跡より、こっちが本命です」
「中、入るんすか」
「行く」と刃。
セリアが躊躇した。
「……ここは、私も入ったことがありません」
「俺らが先に行く」と刃。「セリアは後ろで」
「了解」
刃を先頭に、洞窟の入口に近づいた。
あかりがライトをつけた。
光が、洞窟の岩肌を照らした瞬間、入口のすぐ内側の壁に、何かが書かれているのが浮かび上がった。
文字、らしきもの。
だが、形が崩れている。線が震えている。読める気配が、ない。
全員が、その壁を見た。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に動いたのは、つむぎだった。
端末を構え、文字に翻訳魔具をかざし、しばらく操作した。
画面に、結果が出た。
つむぎが、画面を見たまま、無表情で言った。
「……解析、できません」
「読めない、ってことか」
「違います」とつむぎ。「読めないのではなく——字が、汚すぎて」
全員が、もう一度、壁の文字を見た。
全員の声が、ぴったりと重なった。
「……烈火だ」
翻訳魔具より速い、満場一致の判定だった。




