第79話 「世界の心臓」
翌朝。エルフの集落、長老の間。
巨木の最上部——地上五十メートルほどの高さに、その部屋はあった。壁面の発光苔が通常より明るく、天井には結晶化した樹液が星のように散りばめられている。集落で最も神聖な場所だ、と通された時にセリアが小声で言った。
円形のテーブルを囲むように、三人の長老が座っていた。全員が白い髪と深い皺を持つ。千年を超える時間が、顔に地層のように刻まれている。
反対側に、六人。イエヤス、凛、刃、つむぎ、あかり、セリア。
そしてエルティが、長老たちの横に座っていた。顔色は昨夜より悪い。左肩を右手で押さえている。隠す素振りすら、もうなかった。
中央の長老が口を開いた。翻訳魔具が、ゆっくりとした声を変換する。
『世界には、心臓がある』
短い一文だった。だが、部屋の空気が変わった。
『お前たちの世界の「核晶」と同じものが、この世界の地下深くにもある。わしらは「境界核」と呼んでいる。二つの核は対になり、互いに共鳴し合うことで二つの世界の均衡を保っている』
つむぎの指が膝の上で動いた。端末に手を伸ばしかけて——止めた。今は聴く時だ。
『だが、境界核が暴走し始めている。やがて核は一つの意志を持つだろう。わしらはそれを——「魔王」と呼ぶ』
イエヤスが口を開きかけた。凛が横から肘で突いた。黙って聴け、という意味だ。
『そしてエルティナーデは』
長老の目がエルティに向いた。
『二十年間。たった一人で、境界核に血の防壁を張り続けてきた』
◇◇◇
セリアの息が止まった。
翡翠の瞳が姉に向けられる。エルティは視線を伏せたままだった。
「姉さま——」
「あなたには言えなかった」
エルティが顔を上げた。淡い青緑の瞳に、疲労と諦めが等量で混じっている。
「あなたに言えば、あなたも一緒に張ろうとする。でもあなたが消耗すれば、わたしたちの血は絶える。だから黙っていた」
セリアの口が開いて閉じた。姉を守ろうとした妹を、姉が先に守っていた。二百二十年分の姉妹の歪みが、この一瞬に凝縮されていた。
セリアが立ち上がりかけた。エルティが小さく首を振った。
「立たないで。今あなたが立つと——わたしの方が崩れる」
セリアが座り直した。膝の上で握った手が白くなっている。涙はこぼれなかった。
あかりはカメラを膝に置いたまま、レンズキャップに手を載せていた。撮らない、と決めた顔だった。
◇◇◇
「二十年前までは、安定していました」
エルティが続けた。話すと決めた人間の声だ。
「でもあの人が去った後……外から振動が届くようになった。規則的で、強い振動。定期的に。まるで誰かが壁の向こうから——叩いているように」
イエヤスの背筋が伸びた。
刃の目が、わずかに開いた。
「心臓はそれを攻撃と認識した。防衛反応として暴走が始まった。わたしはそれを——」
エルティの右手が左肩を強く握った。紫の光が、指の隙間から漏れた。
「二十年間、一人で抑えてきました」
部屋が静まった。
エルティが息を吐いた。声のトーンが変わった。疲労の色は消えていない。だが、その底に二十年分の苛立ちが漏れた。
「——本当に。誰なんでしょうね、この迷惑な振動を鳴らしている人は」
翻訳魔具が拾った言葉が、想像していた重さの半分くらいで落ちてきた。
「こちらは必死で抑えているのです。一人で。二十年間。それなのに、向こう側から定期的に……まるで嫌がらせのように」
怒りではなかった。怒り切れないほど疲れた人間の、最後の一滴のような苛立ちだった。
イエヤスと刃が、同時に顔を見合わせた。
目が、合った。
数秒。
イエヤスが、ゆっくりと視線を逸らした。
刃が、ゆっくりと壁に頭をもたせかけ直した。
言葉はなかった。だが、その動きで全員に伝わった。
「……あの顔、知ってる」とあかりが小さく呟いた。
「どの顔よ」と凛。
「親父の話してる時の、神代兄弟の顔」
◇◇◇
つむぎがようやく端末に手を伸ばした。
「長老様。一つ、確認してもよろしいでしょうか」
翻訳魔具を介して、研究者の声に切り替わっている。
「その『外からの振動』が始まった時期と、間隔を、正確に教えていただけますか」
長老の一人が答えた。
『最初は、あの男が去って数か月後だ。弱く、不規則だった。だが年を追うごとに強くなり、間隔も短くなっていった。最近は、ほぼ毎月。もっと頻繁な月もある』
つむぎの指が端末の上を走った。エルティから提供された魔力変動データと、人間世界の核晶活動ログを重ねていく。
二分。
画面の上に、二本のグラフが重なった。波形がほぼ完全に同期していた。
「……重なります。日単位の精度で。二つの世界は、確実に連動しています」
つむぎが顔を上げた。視線がイエヤスを通り抜け、刃の方へ向かった。
「振動の強度は、ここ一年で急速に上がっています。グラフが明らかに角度を変えている。最近、何か『大きな出来事』が複数回続いた、というパターンです」
誰も、何も言わなかった。
全員、心当たりがあった。
あの男が世界中のダンジョンを巡り、配信にスパチャを投げてくる頻度と、ぴたりと重なる時期だ。
◇◇◇
長老が静かに首を振った。
『病の原因は、内側だけではないかもしれぬ。外から、何かが届いている。だが——その何かを、こちらから止める術がなかった』
エルティが顔を上げた。淡い青緑の瞳が、イエヤスを真っ直ぐに見た。
「あなたたちは、向こう側から来た。——もし、心当たりがあるのなら」
言葉が止まった。
言わせるな、という顔だった。エルティの方も、もう察している。あの男の息子の顔を見てしまった以上、察するなという方が無理だった。
刃が、壁にもたれたまま、短く言った。
「——調べる」
二文字。
それだけで、エルティの肩から少しだけ力が抜けた。
調べる、と言った人間が初めて現れた、という顔だった。
長老が、もう一つだけ、と前置きをした。
『お前たちに伝えるべきか迷ったが——せめて、知っておくがいい』
翻訳魔具の声が、一段下がった。
『かつてこの地に、魔族の娘がいた。あの男が滞在していた頃、森の奥に住んでいた一族の娘だ。あの男が去る時、その娘の赤子を一人、連れていった。「こちらに置いておくのは危険だ」とだけ言って』
部屋が静まり返った。
凛の眉が、わずかに寄った。
つむぎの指がまた膝の上で止まった。
あかりはカメラに手を載せたまま、動かなかった。
「……親父は、もう一人」とイエヤスが呟いた。
「赤子を連れて、向こうに帰った」と長老の言葉を翻訳魔具が繰り返した。
『その後の行方は、わしらにも分からぬ。あの男はこの地のことは何一つ説明せずに去った。残されたのは——壁に書かれた、お前たちの言葉でいう、汚い字の落書きだけだ』
唯一、つむぎの口が小さく動いた。
「……それ、烈火さんですね」
「だろうな」と刃。
「鑑定の必要すら、ないっす」とイエヤス。
数秒の沈黙のあと、イエヤスがぽつりと続けた。
「……親父、こっちの世界でも女作ってたのか。すげーな……」
「感心するとこ、そこじゃないでしょ」
部屋の重さが、一段だけ軽くなった。
軽くなったのは空気だけで、事実は何一つ軽くなっていなかった。
◇◇◇
長老の間を出た後の、螺旋階段の踊り場。
イエヤスと刃が並んで立っていた。
「親父だな」
「親父だ」
「明日、森の奥行く」
「ああ」
会話はそれだけだった。
黒ツルハシの柄が、イエヤスの肩で微かに振動していた。三日前から続いている振動。森の奥から届く低い音と、同じリズムで脈打っていた。
刃のポケットの中で、八つの紫の魔鉱石も、いつもより少しだけ温い。
夜の森の方角を、二人が同時に見た。
月は出ていない。だが、地平の奥に、何かがある気配だけがあった。
二人とも、口には出さなかった。
明日の朝、自分の足で確かめに行く。
それで十分だった。




