第78話 「異世界の日常」
到着から三日目。おにぎりなし生活、二日目。
イエヤスは朝から森の中を歩いていた。巨木の一本一本に手を触れ、目を閉じ、耳を澄ませている。
「この木は低い音。こっちは高い。あっちの太い奴は和音みたいに二つ重なってる」
三歩後ろに、エルフの賢者がいた。白い髭の老人——に見えるが、実年齢は千三百歳を超えている。杖をついてイエヤスを静かに観察していた。
『……人間でこれができる者は、あの男以来だ』
翻訳魔具が拾った。
「親父もやったんすか」
『同じことをした。木に抱きつき、地面に耳を当て、「すげえ」と繰り返していた。木の声を聴く人間は、あの男とお前で二人目だ』
「親父はバカだけど、耳だけはいいんすよね」
『耳と——女に好かれる才能だけは、一流だった』
「やっぱモテたんすね!」
賢者がイエヤスの背後を見て、目を細めた。集落の方角から凛が歩いてきていた。
「あんた、朝から勝手にうろうろしないでって言ったでしょ」
「悪い。木の音が面白くて」
「面白くても護衛なしで集落の外を歩かないの」
凛がイエヤスの腕を引いて戻っていく。賢者が二人の背中を見送り、頷いた。
『……やはり、遺伝しているな』
◇◇◇
午前。集落の射場。
凛がセリアの弓を受け取り、構えていた。
「肘を、もう少し高く。引き手は頬の横まで」
セリアが凛の肘に手を添えて角度を修正する。凛が矢を放った。的の端に当たった。
「悪くないです。初めてにしては」
「お世辞はいいわよ」
「お世辞ではありません。わたしが初めて弓を引いた時は、的の三メートル手前で地面に刺さりましたから」
「何歳の時?」
「六歳。人間でいうと、一歳くらいでしょうか」
凛が弓を下ろした。
「比較対象がおかしい」
セリアが小さく笑った。凛も笑った。並んで弓を構える二人の影が、射場の地面に伸びている。護衛と被保護者の距離ではなかった。
◇◇◇
同時刻。集落の巨木の内部。エルフの賢者の研究室。
つむぎは棚に並んだ鉱物標本を一つずつ端末でスキャンしていた。
「世界は違っても、法則は同じです。結晶格子の対称性が保存されている」
賢者が横で見ていた。
『あの男が石を持っていこうとした時のことを思い出す。「向こうに持ち帰ってどうする」と聞いたら、「分析する奴がいる」と言った。だが結局、一人で叩いただけだった』
つむぎの手が止まった。
「……分析する人が、いなかったんですね」
『いなかった。力はあったが、それを使う人間がいなかった』
つむぎは端末を胸に抱えた。
「わたしがいます。今は」
小さな声だった。だが指が端末の上を走り始めた速度は、さっきより速くなっていた。
◇◇◇
集落の広場。あかりがエルフの子供たちに囲まれていた。カメラのモニターに自分たちの顔が映るのを見て、子供たちが歓声を上げている。
「笑って、って意味の言葉、こっちの世界だと何?」
セリアが通りがかり、エルフ語で一言伝えた。子供たちが一斉に叫んだ。
『銀花!』
シャッターを切った。エルフの子供たちの満面の笑み。木漏れ日の背景。
「……帰ったら表紙に使いたいなあ」
集落の外縁では、刃がエルフの若い衛兵と向き合っていた。衛兵は木製の長棒を構えている。翻訳魔具なしでも、構えの意味は分かった。手合わせだ。
衛兵が踏み込んだ。突き。速い。エルフの身体能力は人間を上回る。
刃の太刀が動いた。最小限の動きでいなし、長棒の柄を斬り上げた。衛兵の手から棒が弾き飛ばされ、地面に刺さった。一合。一秒未満。
衛兵が地面に座り込んだまま、掠れた声で言った。
「……人間は、こんなに速いのか」
刃が太刀を鞘に納めた。
「遅い方だ」
◇◇◇
午後。エルティの住居。
セリアが姉と二人きりで、こちらの世界での日々を語っていた。管理局。フルフェイスヘルメット。コンビニの鮭おにぎり。自動ドアに怯えたこと。
イエヤスの名前が出るたびに、セリアの声が少しだけ明るくなっていた。本人は気づいていない。エルティは気づいていた。
「……あなた、あの人の息子に懐いているのね」
セリアの耳の先端が赤く染まった。エルフの白い肌では隠しようがない。
「な、懐いて——そんなことは——」
「いいのよ。わたしも、あの人に——最初はそうだった」
セリアの赤面が止まらなかった。
「姉さま、話を変えましょう」
「ええ。——でもセリア。あの人の息子も、あの人と同じように……不器用でしょう?」
三秒の沈黙。
「……はい。とても」
姉妹が顔を見合わせ、同時に笑った。
だが。笑いの最中に、エルティの手が膝の上で震えた。茶の器が傾きかけて、もう片方の手で押さえた。
セリアはそれを見ていた。二日前から気づいていた。
「姉さま。——本当に、大丈夫ですか」
エルティの笑みが固まった。
「大丈夫よ。心配しないで」
セリアは何も言わなかった。だが翡翠の瞳に、決意が灯っていた。
◇◇◇
夜。
イエヤスが仮眠用の部屋で横になっていた体が、びくりと跳ねた。足元から振動が来た。木の幹を通じて、地面から。
低い音。重い音。三日間聴いていた「合唱」とはまるで違う。不協和音。
窓の外。森の奥に紫がかった光が一瞬走った。音は遅れてこなかった。雷ではない。同じ瞬間、集落中の木の葉が一斉に揺れた。風はないのに。
セリアの叫びが、夜の集落に響いた。
「姉さま!」
イエヤスが部屋を飛び出した。凛が一秒遅れ。刃は既に廊下にいた。
エルティの住居の扉が開いている。中からセリアの声が漏れている。
「姉さま——しっかり!」
エルティが床に膝をついていた。右手で左肩を押さえている。顔色が蒼白だ。全身が震えている。
「……大丈夫。少し——」
声が途切れた。左肩から手を離した瞬間、手のひらに淡い紫色の光が脈打っていた。
セリアの息が止まった。あの光は、森の奥から走った紫の光と同じ色だ。
エルティが顔を上げた。もう隠せないと分かっている顔だった。
「……明日。長老たちに、話を聞きなさい」
窓の外で、森の木々がまだ揺れ続けていた。




