第77話 「エルティナーデ」
巨木の幹の中を、螺旋状の階段が上へ続いていた。壁面の発光苔が青緑色の光で足元を照らしている。段差が広い。エルフの脚に合わせて作られている。
セリアが先頭を歩いていた。足取りが速い。二百二十年間、何千回と上り下りした階段だ。
イエヤスが二番目。凛、つむぎ、あかりが続き、刃が最後尾。刃は階段の入口で三秒立ち止まってから、無言で上り始めた。
三十メートルほど上った先に、木と蔦で編まれた扉があった。
セリアが扉の前で足を止めた。右手が触れかけて、止まった。指先が震えている。
「……セリア」
イエヤスが後ろから声をかけた。何を言うべきか分からなかったが、名前だけは言えた。
セリアが振り返った。翡翠の瞳が潤んでいる。だが泣いてはいない。
「大丈夫です」
扉を開けた。
◇◇◇
質素な部屋だった。木の壁。窓が一つ。壁に長弓がかかっているが、弦の上に薄く埃が載っていた。しばらく使われていない。
窓辺の椅子に、一人の女性が座っていた。
長い銀髪。セリアより長く、腰まで届いている。顔立ちは似ているが、輪郭がもう少し鋭い。目の色が違った。セリアの翡翠より薄い、氷のような淡い青緑。
エルティナーデ。セリアの姉。
扉の方を向いた。セリアが立っている。
「——セリア」
感情を抑え込んでいる声だった。
セリアが駆け出した。姉の前にしゃがみ込み、手を両手で掴んだ。翻訳魔具がエルフ語を断片的に拾う。
『どこに行っていたの』
『見つけに行っていました。レッカを。境界を越えて』
『一人で?』
『一人で。でも——向こう側で、仲間に会いました』
エルティの手がセリアの手を握り返した。細い指が白くなるほど。
『帰ってきたのね』
『帰ってきました。姉さま』
エルティが泣いた。声は出さなかった。涙だけが淡い青緑の目からこぼれ落ちた。
セリアも泣いた。こちらは声が出ていた。嗚咽が木の壁に反響した。
凛が扉の近くで視線を伏せていた。つむぎが端末を胸に抱えたまま唇を結んでいた。あかりはカメラを下ろしていた。このシーンは撮らなかった。
刃は部屋に入っていなかった。階段の一番上、扉の外に立っていた。中の声だけを、壁越しに聴いていた。
◇◇◇
数分後。セリアが涙を拭い、五人を部屋に招き入れた。刃が最後に、扉の枠に一瞬だけ手をかけてから中に入った。
エルティの目が、一人ずつ五人の顔を見ていた。凛。つむぎ。あかり。刃。
そして——イエヤスで、止まった。
「……あの人の、子供」
こちら側の言葉だった。拙いが、意味ははっきり通じた。二十年前に烈火から教わった言葉だ。
「うす。神代イエヤスっす」
「……同じ顔」
「よく言われるっす」
「あなたも……掘る人?」
「掘るっす。掘るとモテるらしいんで!」
エルティの表情が変わった。何かが崩れかけて——崩れなかった。唇を引き結び、視線を窓の外に戻した。
「……そう」
一言だけだった。
◇◇◇
セリアが花の蜜の茶を淹れた。エルティが一口飲み、少しだけ肩の力を抜いた。
エルティが語り始めた。声は静かだった。何度も反芻して、角が取れた声。
「あの人が来たのは、二十年前。境界の裂け目から現れました。泥だらけで、大きな道具を担いで。最初に言った言葉は——」
一瞬だけ、笑いかけた。唇の端が上がりかけて、止まった。
「『ここ、すげえな』」
凛が小さく息を吐いた。あかりが唇を噛んで笑いを堪えた。つむぎが「イエヤスさんと全く同じですね」と呟いた。
「数年間、この森にいました。走り回って、木に触れて、地面を掘って。子供たちと遊んで。そしてわたしのことを——『エルティ』と」
千年を生きるエルフの正式な名を、人間の男が勝手に短くした。本来なら無礼だ。だがエルティの声に、怒りはなかった。
「そして、ある日。一言だけ」
茶の器を握りしめた。
「『帰る』と」
部屋が静まった。
「それだけでした。理由も、行き先も。何も。——わたしたちにとっては、少し前のことですが」
イエヤスは黙っていた。セリアも黙っていた。
「あの人がいなくなった後、森が変わり始めました」
エルティの声が一段下がった。
「地面の奥から、振動が届くようになったのです。大きくて、重くて、規則的な音。最初は小さかった。でも年を追うごとに強くなっていった」
「エルフの長老たちは言います。『世界の心臓が病んでいる』と」
エルティがイエヤスを見た。
「森の奥で、最近……音がするのです。大きな、重い音。以前よりずっと強く。ずっと近く」
言いながら、右手が左肩を押さえた。微かに。ほんの少しだけ。だが——手が震えていた。
「姉さま——」
「大丈夫よ。少し、疲れただけ」
穏やかな笑み。だがその笑みの下に、何かを隠している顔だった。
セリアは何も言わなかった。だが姉の手を見つめる翡翠の目に、疑念が灯っていた。あの手の震えは、疲れではない。二百二十年間、姉の隣にいた。姉が嘘をつく時の顔を、知っている。
◇◇◇
住居を出た後。集落の外縁。
刃は森と集落の境目の巨木の根元に、一人で座っていた。太刀を膝に立てかけ、目を閉じている。
エルティの住居の窓は暗くなっていた。あの女が語った声を、刃は壁越しに全部聴いていた。
『帰る』とだけ言って消えた男。
烈火がこの世界でもやったことは、人間の世界と同じだった。女のそばにいて、名前を勝手に縮めて、そして何も言わずにいなくなる。
刃の拳が膝の上で握られた。すぐに開いた。復讐は終わっている。だが、あの男が残した傷跡は、どの世界にもあった。
「……忘れさせてはくれないんだな」
ポケットの中の八つの魔鉱石が、この世界の空気に触れて、いつもより少しだけ温かかった。
誰にも聞こえない声が、夜の森に消えた。




