第76話 「エルフの森」
光が収まった時、六人は森の中に立っていた。
匂いが先に届いた。花。土。湿った緑。人間の世界にはない、もっと古くて深い匂い。
次に音。風が葉を揺らしている。だがその葉の一枚一枚が、あちら側の木の葉よりずっと大きい。
「……すげえ」
イエヤスが見上げた。首が痛くなるほど、上。
木だった。だが太さが家一軒分ある。高さは百メートルを超えている。その巨木が、視界の中に何十本も立っていた。森というより、柱の大聖堂だった。
つむぎが端末を起動していた。境界を越えて三秒で数値を取り始めている。
「魔力濃度、人間の世界の中層の約八倍です」
「つむぎ。データは後」と凛。
「安全確認のデータです」
「……屁理屈が上手くなったわね」
刃は既に木の陰に移動していた。言葉はない。あかりはカメラを回していた。通信は途絶している。配信はできない。だがカメラは止めない。
セリアが前に出た。フルフェイスヘルメットはない。銀に近い金色の髪が、この世界の風に揺れている。
人間の世界にいた時のセリアは、どこか萎縮していた。今のセリアは背筋が伸びている。巨木の根の上を、裸足のように自然に歩いている。生まれ育った世界だ。
「こちらです」
振り返りもしなかった。五人がその背中を追った。
◇◇◇
森の中を一時間ほど進んだ。道はない。だがセリアは一度も立ち止まらなかった。
イエヤスが歩きながら、手近な木の幹に手を触れた。
「……すげえ。この木、中に鉱脈みたいなのが走ってる。全部の木が同時に脈打ってて——合唱みたいだ」
セリアが振り返った。
「……あなたにも、聴こえるのですね。わたしたちエルフでも、木の声が聴こえるのは一部の賢者だけです」
「え? 普通聴こえるだろ」
凛が額を押さえた。
「あんた、異世界に来て最初にやったことが木に話しかけることって、何」
「しかも木の方が返事してるっぽいのが一番やばいよね」とあかり。
刃が幹の影から低く言った。
「親父もやったんだろうな。同じことを」
全員が一瞬黙った。だがその影は、数秒で消えた。今ここにいるのはイエヤスだ。
◇◇◇
さらに三十分歩いた先に、集落があった。
巨木の中腹、地上三十メートルほどの高さに、木と蔦で作られた住居群。木と木の間に蔦の橋。空中に浮かぶ村。
集落の入口で、弓を持ったエルフの衛兵に止められた。セリアが前に出て、エルフ語で交渉する。故郷の言葉で話すセリアは、人間の世界にいた時とは別人のように流暢で、声に力があった。
交渉は一分で終わった。衛兵が弓を収め、道を開ける。
だがその直後、衛兵の一人がイエヤスの顔を見て動きを止めた。
「……レッカ?」
翻訳魔具を通さなくても意味が分かる名前。二十年経っても、エルフの記憶にはあの男の顔が残っていた。
「息子っす。神代イエヤス」
衛兵は三秒ほどイエヤスの顔を凝視し、ゆっくりと手を下ろした。
セリアがエルフ語で短く付け加えた。翻訳魔具が最後の一文だけを拾った。
『この人たちは、わたしの仲間です』
◇◇◇
巨木の内部をくり抜いた広間に案内され、食事が出された。木の実、干した果物、花の蜜のスープ、葉に包まれた蒸し物。全てが植物由来で、肉はない。
凛がスープを一口飲んだ。「甘い。……美味しいわ」
セリアの顔がほころんだ。自分の世界の食事を褒められたのが嬉しいらしい。
刃は無言でスープを飲み、木の実を五つ続けて食べた。凛が「結構食べてない?」と聞くと、「腹が減っていただけだ」と答えた。六つ目に手が伸びていた。
つむぎは木の実を端末でスキャンしてから口に入れた。あかりが「こっちの世界でもそれやるんだ」と笑った。
イエヤスが、スープを一口飲んだ。固まった。
「……鮭おにぎりが恋しい」
「おいしいですよ?」とセリア。
「うまいっすよ。うまいんだけど——塩気が足りない」
凛がため息をついた。「我慢しなさい。三十個持ってきたでしょ」
我慢できなかった。
食事の後、イエヤスはリュックから鮭おにぎりを取り出した。一個。二個。三個目を開けようとした時、凛が手を伸ばして包装を取り上げた。
「五日分って言ったの、覚えてる?」
「いや、でも——」
「一日六個ペースで食べたら三日で終わるの。算数くらいできるでしょ」
「三個だけ」
「二個にしなさい」
「二個半」
「おにぎりに半分はないの」
結局、イエヤスはその夜、合計十五個のおにぎりを食べた。
凛が気づいたのは全て終わった後だった。広間の隅でリュックの中身を確認し、残りの個数を数えた。
「…………」
十五個。三十個の半分。初日で。
「……イエヤス」
「うす」
「何個食べたの」
「……覚えてない」
「嘘つかないで」
「……じゅうごこ」
凛の目が据わった。だが怒鳴る前に、つむぎが追い打ちをかけた。
「凛さん。残りのおにぎりについてですが、こちらの世界の気温と湿度を計測したところ、人間の世界より魔力由来の微生物活性が高く、常温保存の場合——」
「何時間もつの」
「十二時間です」
「…………」
二日目の朝。イエヤスがリュックを開けた。
鮭おにぎりの包装が膨らんでいた。嫌な匂いがした。中身は——言葉にしない方がいい。
十五個。全滅。
イエヤスの顔に、深層級のモンスターと戦った時よりも深い絶望が浮かんだ。核晶の修復で世界が壊れるかもしれなかった時よりも暗い。中層第九区画を六十八時間歩き続けた時よりも重い。
「…………」
「…………」
凛がため息をつきながら、正確な診断を下した。
「初日に半分食べて、残りは腐った。——あなたの最大の弱点、計画性ね」
「食べ物って腐るんだな……」
「そこから!?」
刃がスープの器を持って通りかかった。
「エルフの食事は悪くない」
木の実を齧りながら去っていった。
◇◇◇
食事の後、エルフの子供たちがイエヤスに群がった。
「レッカの子供?」「同じ顔!」「武器見せて!」
イエヤスが黒ツルハシの素振りを見せると、風圧で子供が一人ぽてんと尻餅をついた。泣くかと思いきやキャッキャと笑い出し、今度はイエヤスの耳を引っ張った。
「短い!」
翻訳魔具が即座に変換した。エルフの子供にとって、人間の丸い耳は珍しいらしい。もう一人が反対側の耳を掴んだ。両耳を引っ張られたイエヤスが「いたたた」と悲鳴を上げている。
凛が壁際で見ていた。
「……この世界でもモテてるじゃない」
額を押さえた。押さえながら、口元は緩んでいた。
あかりがカメラを構えた。両耳を引っ張られて苦笑する採掘者とエルフの子供たち。
「素材の宝庫だわ……」
つむぎは広間の隅で端末に向かっていたが、エルフの子供が一人、端末を覗き込み——そのまま端末を持って逃げた。
「返してください! 三時間分のデータが——!」
つむぎが白衣の裾を踏みそうになりながら追いかけている。広間のエルフの大人たちが、二十年ぶりに笑い声を立てた。
◇◇◇
夕暮れが近づいた頃、セリアが全員を集落の外縁に案内した。
「姉さまの住居は、あの木です」
集落で最も大きな巨木。中腹に一つだけ離れた住居。窓から淡い光が漏れている。
セリアの足が止まった。五秒ほど、その木を見上げていた。
人間の世界で「連れて帰ります」と繰り返していた少女。連れて帰る相手は見つからなかった。代わりに——自分が帰ってきた。仲間を連れて。
「……姉さま」
窓に影が動いた。長い銀髪の輪郭。こちらを見下ろしている。
凛がセリアの肩に手を置いた。何も言わなかった。
セリアが頷いた。小さく。
巨木の根元に向かって、歩き出した。




