第75話 「境界」
午前六時。サンクスマート桜谷駅前店。
イエヤスが自動ドアをくぐった。リュックを二つ背負っている。右肩に黒ツルハシ。
棚を見た。鮭おにぎりが、通常の三倍は並んでいた。
「……すげー」
「朝の五時半から並べたんだから、感謝しなさいよ」
瀬田ユアがレジの奥から声を出した。夜勤明けの顔。目の下に隈。だがネイルの手入れだけは完璧だった。
「鮭、十六個」
ユアが無言で棚から鮭おにぎりを取り出し、カウンターに並べていく。白い三角形が十六個。昨日の十四個と合わせて三十個。リュックに詰めれば、六人で五日分。
「二千八十円」
イエヤスがポケットから小銭を出した。数えた。
「……ぴったりだ」
「え」
ユアの手が止まった。
「ぴったりなの?」
「二千八十円。ぴったり」
「……どうしたの急に。気持ち悪い」
「昨日のツケの分も含めて、刃が朝イチで寮の俺の部屋に小銭置いてった」
ユアのレジを打つ指が、一瞬だけ震えた。兄が弟の代わりに小銭を用意している。あの無愛想な男が、朝の五時前にアパートのドアの前に小銭を置いていくところを想像して、ユアは何とも言えない顔になった。
「……あんたら兄弟、変な家族だね」
「だろ。親父がバカだから」
ユアがおにぎりを袋に詰めた。二袋分。大きいのと小さいの。小さい方には二個だけ入っている。
「これ、黒パーカーの人の分」
「刃の?」
「朝イチで来て、コーヒーだけ買って帰ったから。おにぎりは要らないって言ってたけど、どうせ食べてないでしょ」
イエヤスが笑った。袋を両方受け取り、リュックの隙間に押し込む。
「ユアさん。行ってくるっす」
ユアはレジに両手をついたまま、イエヤスを見た。
「……行ってらっしゃい」
声が短かった。それ以上言うと、何か余計なものが混じりそうだった。
自動ドアが閉まった。
ユアはカウンターから動かなかった。有線放送が朝のチャンネルに切り替わり、天気予報のジングルが流れた。晴れ。気温二十三度。風は穏やか。
エプロンのポケットに手を入れた。昨夜しまった付箋がある。九回分のツケの記録。
ユアはそれを取り出し、レジの横の定位置に貼り直した。
帰ってきた時に、すぐ見えるように。
◇◇◇
午前七時五十八分。ダンジョンゲート前。
六人が並んでいた。
先頭に氷室刃。探索者刀を腰に佩き、黒い装備に身を包んでいる。ポケットの中に八つの紫色の魔鉱石。顔に表情はない。
右翼に早瀬凛。刀の鯉口を切った状態。髪はいつもより高い位置で結んでいる。視界を確保するため。護衛の仕事は視界から始まる。
中央に神代イエヤス。黒ツルハシを右肩に担ぎ、リュック二つを左右に背負っている。荷物の総重量はチーム最大。当たり前のことだ。
左後方に雪平つむぎ。タブレット端末を胸に抱え、左腕にスタンド式センサーを装着。予備バッテリー。今度は足りる。
後方に伊吹あかり。小型カメラを右肩に構え、外部マイクを胸元に固定。バッテリー満充電。予備も十分。レンズキャップは既に外してある。
最後尾にセリア。フルフェイスヘルメットは被っていない。深層に一般人の目はない。銀に近い金色の髪と長い耳が、ゲートから吹き上がる冷たい風に揺れていた。背中に管理局支給の弓。
藤村彩はゲートの手前に立っていた。クリップボードは持っていない。手帳もペンもない。ただ、六人の前に立っている。
「最終確認。通信の有効範囲は深層最奥部まで。境界壁を越えた時点で途絶する可能性が極めて高い。その瞬間から、私の指揮は届かなくなる」
六人が黙って聞いている。
「現場の指揮は凛に委任。撤退判断は凛の権限。異論は」
「ありません」と凛。
「ないっす」とイエヤス。
「了解」と刃。
「了解です」とつむぎ。
「了解」とあかり。
「了解です」とセリア。
彩が六人を見渡した。一人ずつ。順番に。凛。刃。イエヤス。つむぎ。あかり。セリア。
目を合わせた。一人につき一秒。それだけ。
彩はポケットから紙パックの麦茶を取り出した。昨夜、執務室に残しておいた、半分だけ残った紙パック。ストローを刺して、一口飲んだ。
「——行ってらっしゃい」
イエヤスがゲートに向き直った。
「行ってきます、彩さん」
六人がゲートの闇に踏み込んだ。足音が地下へ沈んでいく。最後にセリアの銀色の髪が闇に消えるまで、彩はその場に立っていた。
手元の端末に、六つの光点が映っている。全部、動いている。全部、下へ向かっている。
彩は麦茶を飲み干した。紙パックを握りしめ、モニター室へ歩き出した。
◇◇◇
深層最奥部。
中層を抜け、境界区画を通過し、核晶の空洞を横切り、さらに奥へ。六人は四時間をかけて深層最奥部に到達した。
核晶修復の時に初めて見た巨大な空洞は、あの日と同じ紫色の光を静かに放っている。核晶の脈動は安定していた。修復は成功している。
空洞を抜けた先。核晶の背後に、あの亀裂があった。セリアが意識を失いながら倒れ出てきた、あの亀裂。
だが今は閉じている。岩壁にうっすらと継ぎ目のような線が走っているだけで、隙間はない。金色の光も漏れていない。
「ここか」
イエヤスが壁に右手を当てた。目を閉じる。
三秒。岩盤を通じて、音を聴く。
「……薄い。この壁の向こう、音が近い。核晶の壁より全然薄い」
つむぎがスタンド式センサーを壁面に設置した。三脚の高さを調整し、端末にデータを取り込む。
「壁面の魔力密度を測定します。——出ました。この一点だけ、周囲の壁の三パーセントの密度しかありません。烈火さんの座標と完全に一致」
セリアが壁の前に立った。翡翠の瞳を細める。鉱石視覚——鉱脈だけでなく、魔力の濃淡を色として知覚する目。
「……見えます。ここだけ、色が薄い。周りの壁は深い紫ですが、この部分だけ——淡い金色に透けています」
肉眼では見えない。機器のデータでは数字としてしか捉えられない。だがセリアの目には、壁の薄さが「色の違い」として映っている。
「向こう側の光です。わたしの世界の」
セリアの声が震えていた。怖さではない。二百二十年の生涯で、故郷の光を壁越しに見るのが初めてだったのだ。
凛が全員の位置を確認した。
「隊列は維持。イエヤスが壁の正面。つむぎは左後方二メートル。センサーは手持ちではなくスタンド固定。セリアは右後方で鉱石視覚による監視。あかりは五メートル後方。刃——」
刃は既に空洞の入口に背を預け、通路の奥を見張っていた。核晶修復の時と同じ配置。返事は要らない。
「壁を開けます」
つむぎがタブレットを操作した。壁の脈動パターンを計測し、共鳴打撃のリズムに変換する。核晶修復の時と同じ手順だ。だが今回は「閉じる」のではなく「開ける」。亀裂を修復するのではなく、亀裂を再現する。
四十秒。
「パターン出ました。全四小節、計十二打。構成は核晶修復時と同一です。ただし——」
つむぎが一瞬だけ言葉を切った。
「最後の一打だけ、位相が逆転しています。修復の時は亀裂を『閉じる』位相でしたが、今回は『開く』位相です」
イエヤスが黒ツルハシを構えた。深層樫の柄が掌にぴったりと馴染む。今朝、寮を出る時から微かに震えていた柄の振動が、壁の前に立った瞬間に強くなった。ツルハシが、壁の向こう側の音に応えている。
「リズム、教えてくれ」
「はい。第一小節——タン、タン、タン。均等に。第二小節——タタン、タン。前半を詰めて。第三小節——タン、タタン。後半を詰めて。最終小節——タン、タン、タァン。最後の一打に全力を。ただし、前回と逆の位相です。叩くのではなく——押し開くように」
「閉じるんじゃなくて、開ける」
「そうです」
イエヤスがツルハシを振り上げた。
彩の声が通信機から入った。地上から。最奥部まで、かろうじて電波が届いている。
「イエヤス。打撃を開始しなさい」
「了解っす」
目を閉じた。壁の脈動が聴こえる。ドクン、ドクン、ドクン。核晶の脈動よりもずっと速い。二つの世界の境界が、心臓のように打っている。
——第一小節。
タンッ。
深層鋼が壁に触れた。振動が岩盤を走り、壁の向こうに届く。
タンッ。
二打目。壁の脈動と、イエヤスの打撃が同期し始める。
タンッ。
三打目。壁面に、肉眼でも分かる細い光の筋が一本走った。
「同期率九十七パーセント。一本目の亀裂、確認」とつむぎ。
——第二小節。
タタンッ。タンッ。
リズムが変わる。前半を詰めた打撃が、壁の内部構造を揺さぶる。光の筋が二本、三本と増えていく。
「四本目、五本目——順調です」
——第三小節。
タンッ。タタンッ。
壁全体が振動し始めた。光の筋が網目のように広がり、向こう側から金色の光が滲み出す。空洞の空気が変わった。冷たい深層の空気に、温かい何かが混じり始めている。
「九本目、十本目、十一本目——修復率が急速に低下。壁の厚さがゼロに近づいています」
つむぎの声が震えていた。データを読み上げる声は正確だったが、その正確さを保つために唇を強く結んでいるのが分かった。
セリアが壁を見つめていた。翡翠の瞳が大きく見開かれている。壁の向こう——淡い金色だった光が、鮮やかな金色に変わっていく。向こう側の世界の光が、壁が薄くなるにつれて直接届き始めている。
「……姉さま」
セリアが呟いた。声が掠れていた。
——最終小節。
イエヤスが目を開けた。残りの亀裂は一本。壁の中央を縦に走る、最大の継ぎ目。これを開ければ——。
タンッ。十一打目。壁が軋む。光が溢れる。
タンッ。十二打目の予備。壁の脈動と完全に同期する。
最後の一打。
押し開くように。
「——タァァンッ!!」
振り下ろしではなかった。突くように。壁を破壊するのではなく、壁を押し分けるように。
轟音と光が同時に爆発した。
壁の中央が裂け、金色の光が噴き出した。空洞全体が黄金に染まる。暖かい風が亀裂から吹き込んできた。花の匂い。土の匂い。湿った緑の匂い。人間の世界にはない、もっと古くて深い匂い。
亀裂は人が一人通れる大きさだった。縁が金色に光っている。向こう側は——見えない。光が強すぎて、何があるのか分からない。だが、風は温かかった。
セリアが一歩前に出た。翡翠の瞳に金色の光が反射している。涙が一筋、頬を伝った。
「……見えます。森が。わたしの森が」
凛が全員を確認した。全員の顔を。一人ずつ。
「——行くわよ」
彩の声が通信機から届いた。ノイズが混じっている。亀裂の影響で電波が不安定になっている。これが最後の通信かもしれない。
「全員、聞こえる?」
「聞こえてるっす」
「……行ってらっしゃい。帰ってきなさい。絶対に」
声が震えていた。管理官の声ではなかった。二十二歳の女の声だった。一瞬だけ。
「了解。——行ってきます、彩さん」
イエヤスが先に亀裂をくぐった。金色の光の中に、黒ツルハシを担いだ背中が消える。
凛が続いた。刃が続いた。つむぎが端末を胸に抱えて続いた。あかりがカメラを構えたまま続いた。
最後にセリアが振り返った。核晶の空洞を。深層の闇を。一度だけ見て、それから前を向いた。
六つの背中が、金色の光に溶けていった。
◇◇◇
管理局地上棟。モニター室。
彩のモニターに映る六つの光点が、一つずつ消えた。
最初にイエヤスの点が消えた。次に凛。刃。つむぎ。あかり。最後にセリア。
六つ全てが消えるまで、四秒。
画面には何も映っていない。座標グリッドの上に、光点がゼロ。
通信機からは、ホワイトノイズだけが流れている。声は届かない。何も聞こえない。
彩はモニターの前に座ったまま、動かなかった。
右手に麦茶の紙パック。今朝、ゲートの前で飲み干したはずだったが、もう一本持ってきていた。半分残っている。
握りしめた。紙パックが少し潰れた。中身がストローから少しだけ溢れ、彩の指を濡らした。
画面を見つめている。光点のない画面を。
「…………」
何も言わなかった。
言葉にすると、管理官でいられなくなる気がした。
モニターの時計だけが、音もなく秒を刻んでいた。
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