表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/108

第75話 「境界」

午前六時。サンクスマート桜谷駅前店。


 イエヤスが自動ドアをくぐった。リュックを二つ背負っている。右肩に黒ツルハシ。

 棚を見た。鮭おにぎりが、通常の三倍は並んでいた。


「……すげー」

「朝の五時半から並べたんだから、感謝しなさいよ」


 瀬田(せた)ユアがレジの奥から声を出した。夜勤明けの顔。目の下に隈。だがネイルの手入れだけは完璧だった。


「鮭、十六個」


 ユアが無言で棚から鮭おにぎりを取り出し、カウンターに並べていく。白い三角形が十六個。昨日の十四個と合わせて三十個。リュックに詰めれば、六人で五日分。


「二千八十円」


 イエヤスがポケットから小銭を出した。数えた。


「……ぴったりだ」

「え」


 ユアの手が止まった。


「ぴったりなの?」

「二千八十円。ぴったり」

「……どうしたの急に。気持ち悪い」

「昨日のツケの分も含めて、刃が朝イチで寮の俺の部屋に小銭置いてった」


 ユアのレジを打つ指が、一瞬だけ震えた。兄が弟の代わりに小銭を用意している。あの無愛想な男が、朝の五時前にアパートのドアの前に小銭を置いていくところを想像して、ユアは何とも言えない顔になった。


「……あんたら兄弟、変な家族だね」

「だろ。親父がバカだから」


 ユアがおにぎりを袋に詰めた。二袋分。大きいのと小さいの。小さい方には二個だけ入っている。


「これ、黒パーカーの人の分」

「刃の?」

「朝イチで来て、コーヒーだけ買って帰ったから。おにぎりは要らないって言ってたけど、どうせ食べてないでしょ」


 イエヤスが笑った。袋を両方受け取り、リュックの隙間に押し込む。


「ユアさん。行ってくるっす」


 ユアはレジに両手をついたまま、イエヤスを見た。


「……行ってらっしゃい」


 声が短かった。それ以上言うと、何か余計なものが混じりそうだった。


 自動ドアが閉まった。

 ユアはカウンターから動かなかった。有線放送が朝のチャンネルに切り替わり、天気予報のジングルが流れた。晴れ。気温二十三度。風は穏やか。


 エプロンのポケットに手を入れた。昨夜しまった付箋がある。九回分のツケの記録。

 ユアはそれを取り出し、レジの横の定位置に貼り直した。


 帰ってきた時に、すぐ見えるように。



          ◇◇◇



 午前七時五十八分。ダンジョンゲート前。


 六人が並んでいた。


 先頭に氷室刃(ひむろじん)探索者刀(ソードギア)を腰に佩き、黒い装備に身を包んでいる。ポケットの中に八つの紫色の魔鉱石。顔に表情はない。


 右翼に早瀬凛(はやせりん)。刀の鯉口を切った状態。髪はいつもより高い位置で結んでいる。視界を確保するため。護衛の仕事は視界から始まる。


 中央に神代(かみしろ)イエヤス。黒ツルハシを右肩に担ぎ、リュック二つを左右に背負っている。荷物の総重量はチーム最大。当たり前のことだ。


 左後方に雪平(ゆきひら)つむぎ。タブレット端末を胸に抱え、左腕にスタンド式センサーを装着。予備バッテリー。今度は足りる。


 後方に伊吹(いぶき)あかり。小型カメラを右肩に構え、外部マイクを胸元に固定。バッテリー満充電。予備も十分。レンズキャップは既に外してある。


 最後尾にセリア。フルフェイスヘルメットは被っていない。深層に一般人の目はない。銀に近い金色の髪と長い耳が、ゲートから吹き上がる冷たい風に揺れていた。背中に管理局支給の弓。


 藤村彩(ふじむらあや)はゲートの手前に立っていた。クリップボードは持っていない。手帳もペンもない。ただ、六人の前に立っている。


「最終確認。通信の有効範囲は深層最奥部まで。境界壁を越えた時点で途絶する可能性が極めて高い。その瞬間から、私の指揮は届かなくなる」


 六人が黙って聞いている。


「現場の指揮は凛に委任。撤退判断は凛の権限。異論は」

「ありません」と凛。

「ないっす」とイエヤス。

「了解」と刃。

「了解です」とつむぎ。

「了解」とあかり。

「了解です」とセリア。


 彩が六人を見渡した。一人ずつ。順番に。凛。刃。イエヤス。つむぎ。あかり。セリア。

 目を合わせた。一人につき一秒。それだけ。


 彩はポケットから紙パックの麦茶を取り出した。昨夜、執務室に残しておいた、半分だけ残った紙パック。ストローを刺して、一口飲んだ。


「——行ってらっしゃい」


 イエヤスがゲートに向き直った。


「行ってきます、彩さん」


 六人がゲートの闇に踏み込んだ。足音が地下へ沈んでいく。最後にセリアの銀色の髪が闇に消えるまで、彩はその場に立っていた。


 手元の端末に、六つの光点が映っている。全部、動いている。全部、下へ向かっている。


 彩は麦茶を飲み干した。紙パックを握りしめ、モニター室へ歩き出した。



          ◇◇◇



 深層最奥部。


 中層を抜け、境界区画を通過し、核晶の空洞を横切り、さらに奥へ。六人は四時間をかけて深層最奥部に到達した。

 核晶修復の時に初めて見た巨大な空洞は、あの日と同じ紫色の光を静かに放っている。核晶の脈動は安定していた。修復は成功している。


 空洞を抜けた先。核晶の背後に、あの亀裂があった。セリアが意識を失いながら倒れ出てきた、あの亀裂。

 だが今は閉じている。岩壁にうっすらと継ぎ目のような線が走っているだけで、隙間はない。金色の光も漏れていない。


「ここか」

 イエヤスが壁に右手を当てた。目を閉じる。


 三秒。岩盤を通じて、音を聴く。


「……薄い。この壁の向こう、音が近い。核晶の壁より全然薄い」


 つむぎがスタンド式センサーを壁面に設置した。三脚の高さを調整し、端末にデータを取り込む。


「壁面の魔力密度を測定します。——出ました。この一点だけ、周囲の壁の三パーセントの密度しかありません。烈火さんの座標と完全に一致」


 セリアが壁の前に立った。翡翠の瞳を細める。鉱石視覚——鉱脈だけでなく、魔力の濃淡を色として知覚する目。


「……見えます。ここだけ、色が薄い。周りの壁は深い紫ですが、この部分だけ——淡い金色に透けています」


 肉眼では見えない。機器のデータでは数字としてしか捉えられない。だがセリアの目には、壁の薄さが「色の違い」として映っている。


「向こう側の光です。わたしの世界の」


 セリアの声が震えていた。怖さではない。二百二十年の生涯で、故郷の光を壁越しに見るのが初めてだったのだ。


 凛が全員の位置を確認した。


「隊列は維持。イエヤスが壁の正面。つむぎは左後方二メートル。センサーは手持ちではなくスタンド固定。セリアは右後方で鉱石視覚による監視。あかりは五メートル後方。刃——」


 刃は既に空洞の入口に背を預け、通路の奥を見張っていた。核晶修復の時と同じ配置。返事は要らない。


「壁を開けます」

 つむぎがタブレットを操作した。壁の脈動パターンを計測し、共鳴打撃のリズムに変換する。核晶修復の時と同じ手順だ。だが今回は「閉じる」のではなく「開ける」。亀裂を修復するのではなく、亀裂を再現する。


 四十秒。


「パターン出ました。全四小節、計十二打。構成は核晶修復時と同一です。ただし——」

 つむぎが一瞬だけ言葉を切った。

「最後の一打だけ、位相が逆転しています。修復の時は亀裂を『閉じる』位相でしたが、今回は『開く』位相です」


 イエヤスが黒ツルハシを構えた。深層樫の柄が掌にぴったりと馴染む。今朝、寮を出る時から微かに震えていた柄の振動が、壁の前に立った瞬間に強くなった。ツルハシが、壁の向こう側の音に応えている。


「リズム、教えてくれ」

「はい。第一小節——タン、タン、タン。均等に。第二小節——タタン、タン。前半を詰めて。第三小節——タン、タタン。後半を詰めて。最終小節——タン、タン、タァン。最後の一打に全力を。ただし、前回と逆の位相です。叩くのではなく——押し開くように」

「閉じるんじゃなくて、開ける」

「そうです」


 イエヤスがツルハシを振り上げた。


 彩の声が通信機から入った。地上から。最奥部まで、かろうじて電波が届いている。


「イエヤス。打撃を開始しなさい」

「了解っす」


 目を閉じた。壁の脈動が聴こえる。ドクン、ドクン、ドクン。核晶の脈動よりもずっと速い。二つの世界の境界が、心臓のように打っている。


 ——第一小節。

 タンッ。

 深層鋼が壁に触れた。振動が岩盤を走り、壁の向こうに届く。

 タンッ。

 二打目。壁の脈動と、イエヤスの打撃が同期し始める。

 タンッ。

 三打目。壁面に、肉眼でも分かる細い光の筋が一本走った。


「同期率九十七パーセント。一本目の亀裂、確認」とつむぎ。


 ——第二小節。

 タタンッ。タンッ。

 リズムが変わる。前半を詰めた打撃が、壁の内部構造を揺さぶる。光の筋が二本、三本と増えていく。


「四本目、五本目——順調です」


 ——第三小節。

 タンッ。タタンッ。

 壁全体が振動し始めた。光の筋が網目のように広がり、向こう側から金色の光が滲み出す。空洞の空気が変わった。冷たい深層の空気に、温かい何かが混じり始めている。


「九本目、十本目、十一本目——修復率が急速に低下。壁の厚さがゼロに近づいています」


 つむぎの声が震えていた。データを読み上げる声は正確だったが、その正確さを保つために唇を強く結んでいるのが分かった。


 セリアが壁を見つめていた。翡翠の瞳が大きく見開かれている。壁の向こう——淡い金色だった光が、鮮やかな金色に変わっていく。向こう側の世界の光が、壁が薄くなるにつれて直接届き始めている。


「……姉さま」


 セリアが呟いた。声が掠れていた。


 ——最終小節。

 イエヤスが目を開けた。残りの亀裂は一本。壁の中央を縦に走る、最大の継ぎ目。これを開ければ——。


 タンッ。十一打目。壁が軋む。光が溢れる。

 タンッ。十二打目の予備。壁の脈動と完全に同期する。


 最後の一打。

 押し開くように。


「——タァァンッ!!」


 振り下ろしではなかった。突くように。壁を破壊するのではなく、壁を押し分けるように。


 轟音と光が同時に爆発した。


 壁の中央が裂け、金色の光が噴き出した。空洞全体が黄金に染まる。暖かい風が亀裂から吹き込んできた。花の匂い。土の匂い。湿った緑の匂い。人間の世界にはない、もっと古くて深い匂い。


 亀裂は人が一人通れる大きさだった。縁が金色に光っている。向こう側は——見えない。光が強すぎて、何があるのか分からない。だが、風は温かかった。


 セリアが一歩前に出た。翡翠の瞳に金色の光が反射している。涙が一筋、頬を伝った。


「……見えます。森が。わたしの森が」


 凛が全員を確認した。全員の顔を。一人ずつ。


「——行くわよ」


 彩の声が通信機から届いた。ノイズが混じっている。亀裂の影響で電波が不安定になっている。これが最後の通信かもしれない。


「全員、聞こえる?」


「聞こえてるっす」


「……行ってらっしゃい。帰ってきなさい。絶対に」


 声が震えていた。管理官の声ではなかった。二十二歳の女の声だった。一瞬だけ。


「了解。——行ってきます、彩さん」


 イエヤスが先に亀裂をくぐった。金色の光の中に、黒ツルハシを担いだ背中が消える。

 凛が続いた。刃が続いた。つむぎが端末を胸に抱えて続いた。あかりがカメラを構えたまま続いた。

 最後にセリアが振り返った。核晶の空洞を。深層の闇を。一度だけ見て、それから前を向いた。


 六つの背中が、金色の光に溶けていった。



          ◇◇◇



 管理局地上棟。モニター室。


 彩のモニターに映る六つの光点が、一つずつ消えた。


 最初にイエヤスの点が消えた。次に凛。刃。つむぎ。あかり。最後にセリア。

 六つ全てが消えるまで、四秒。


 画面には何も映っていない。座標グリッドの上に、光点がゼロ。


 通信機からは、ホワイトノイズだけが流れている。声は届かない。何も聞こえない。


 彩はモニターの前に座ったまま、動かなかった。

 右手に麦茶の紙パック。今朝、ゲートの前で飲み干したはずだったが、もう一本持ってきていた。半分残っている。


 握りしめた。紙パックが少し潰れた。中身がストローから少しだけ溢れ、彩の指を濡らした。


 画面を見つめている。光点のない画面を。


「…………」


 何も言わなかった。

 言葉にすると、管理官でいられなくなる気がした。


 モニターの時計だけが、音もなく秒を刻んでいた。



---

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ