第74話 「最後の夜」
早瀬凛の夜。
管理局地上棟、装備庫。午後九時。
凛は作業台の上に装備を一つずつ並べていた。探索者刀。予備の短剣。応急処置キット。携行食八日分。通信機。照明用の魔灯石。防護手袋の替え。
一つ一つ、手に取って状態を確かめる。刀身に刃こぼれがないか。鯉口の動きは滑らかか。包帯のパッケージに破損はないか。凛のやり方は徹底している。護衛という仕事は、装備の一つが欠けただけで人が死ぬ。
全ての点検を終え、装備をバッグに詰め直した。バッグの重さを肩にかけて確認する。
それから、スマートフォンを取り出した。
連絡先の一番上。『父』。
コールが三回鳴って、繋がった。
「……凛か」
「うん。——行ってくる」
三秒の沈黙。凛は電話越しの父の呼吸を聞いていた。早瀬巖。一級探索者。「鉄壁」の異名。娘の前ではただの過保護な親バカ。
「……胃薬は持ったか」
凛が笑った。声に出して。小さく、だが確かに。
「持った」
「そうか」
それだけだった。父娘の会話は、それで全部だった。
凛が通話を切り、スマートフォンをポケットにしまった。装備バッグを肩にかけ直し、装備庫の照明を消す。
廊下に出る前に、一度だけ振り返った。作業台の上に何も残っていないことを確認した。忘れ物はない。
凛は前を向いて歩き出した。
足音は規則正しかった。だが、歩幅がいつもよりほんの少しだけ広い。急いでいるのではなく、迷いがないのだ。行く場所が決まっている人間の歩き方だった。
◇◇◇
雪平つむぎの夜。
第三研究室。午後十時十五分。
モニターの画面に「投稿完了」の表示が出ていた。
『境界壁の魔力動態に関する基礎的考察——修復後の残留脆弱性を中心に』。論文の第三稿。共著者の欄に「神代イエヤス」の名前がある。三本目だ。
つむぎは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。目の下の隈は消えていない。消えることは、たぶんない。この仕事を続ける限り。
デスクの隅に置いてある布袋に手を伸ばした。中から、拳大の青い魔鉱石を取り出す。
淡い青。浅層境界域の、あの独特の透明感。イエヤスが採掘者になって最初に掘り出した石。つむぎが最初に鑑定した石。「結晶構造が壊れていない」と声を震わせた、あの日の石。
蛍光灯の光が結晶面を透過して、デスクの上に水色の影を落とした。
つむぎは石を両手で包むように持った。冷たい。硬い。この石が全ての始まりだった。イエヤスの異常な採掘技術に気づいたのも、チームに加わったのも、三日三晩眠れなくなったのも。全部、この石から始まった。
「……帰ってきたら、この石の研究の続きをします」
声に出した。研究室には誰もいない。モニターの青白い光だけが聴いている。
石を布袋に戻し、デスクの引き出しにしまった。持っていかない。この石はここにある。帰ってくる場所に、置いておく。
つむぎは端末を鞄に入れ、予備バッテリーを確認した。今度は足りなくならないようにする。
研究室の照明を消す直前、モニターに映る「投稿完了」の四文字をもう一度だけ見た。
帰ってきたら、査読結果が届いているはずだ。
◇◇◇
伊吹あかりの夜。
寮の自室。午後十一時。
あかりはベッドに座り、スマートフォンの配信アプリを開いていた。カメラは使わない。テキストだけの投稿。
指が画面の上で止まっている。何を書くか、五分ほど考えた。煽りも、ハッシュタグも、サムネ用の自撮りも要らない。今夜は、言葉だけでいい。
打ち始めた。
『明日、境界壁の向こうに行きます。
配信できるかどうかはわかりません。通信が届かない可能性が高いです。
でも、カメラは持っていきます。
誰も見たことのない場所を、記録してきます。
帰ってきたら、全部見せます。
——あかり』
投稿ボタンを押した。三秒後に通知が鳴り始めた。五秒で百件。十秒で五百件。コメントが雪崩のように流れ込んでくる。
あかりはスマートフォンを裏返しにしてベッドに置いた。通知音がベッドのシーツ越しにくぐもって響いている。
机の上に、明日持っていく機材が並んでいた。小型カメラ本体。外部マイク。バッテリー。レンズクリーナー。メモリーカードの予備。全部で一・八キロ。
あかりはカメラを手に取り、レンズキャップを外した。レンズを蛍光灯にかざす。傷はない。曇りもない。
「よし」
レンズキャップを戻し、カメラを鞄に入れた。
スマートフォンを表に返した。コメントは二千を超えていた。読まなかった。明日の自分に必要なのは、数字ではなく充電済みのバッテリーだ。
照明を消す。枕に頭を載せる。
天井の暗がりを見つめながら、あかりは呟いた。
「……最高の画、撮ってくるから」
目を閉じた。三分で眠りに落ちた。配信者の睡眠は、質で勝負する。
◇◇◇
氷室刃の夜。
寮の自室。午後十一時四十分。
刃はデスクの上に太刀を置き、油を染み込ませた布で刀身を拭いていた。しゅっ、しゅっ、と規則的な音。あの男がツルハシを磨く音と同じリズムだったが、認めるつもりはない。
手を止めた。
ポケットに手を入れる。紫色の魔鉱石の欠片。八つ。いつの間にか、こんなに増えていた。いつ入れられたのかも分からないものが半分以上だ。捨てようと思ったことは、何度もある。一度も捨てなかった。
八つの欠片を掌の上に並べた。蛍光灯の下で、紫色の光が鈍く明滅している。核晶修復の日に共鳴して以来、冷たくならない。いつも微かに温い。
刃はデスクの引き出しを開けた。奥の、文房具の裏。
黒い金属製のブレスレット。深層鉱石で作られた重力装身具。烈火がかつて母に贈り、母が捨てようとし、刃が拾い上げた。十九年間身に着け続けた、復讐の重り。
刃先の手で取り出し、蛍光灯の下で見た。黒い表面に傷一つない。十九年分の汗と執念が染み込んでいるはずだが、見た目は何も変わっていない。
失敗作だと、あの男は手紙に書いていた。
三秒、見つめた。
引き出しに戻した。持っていかない。
明日必要なのは、この重りではない。研ぎ上げた太刀と、八つの温い石だけだ。
魔鉱石をポケットに戻し、太刀を鞘に納めた。
灯りを消す。ベッドに横になる。
目を閉じた——が、すぐに開けた。
起き上がり、デスクの上のメモ帳にペンを走らせた。
『明朝五時半。サンクスマート。缶コーヒー。鮭おにぎり二個。』
誰に宛てたメモでもない。自分の行動予定だ。だが「鮭おにぎり二個」のうち一個が誰のためかは、書かなくても分かっている。
刃はメモを裏返しに置き、もう一度横になった。今度は、目を閉じたまま動かなかった。
◇◇◇
藤村彩の夜。
管理局地上棟、執務室。午前零時。
デスクの上に書類が三部。霧島から届いた探索許可証の控え。装備リストの最終版。緊急時の指揮権移譲に関する内部通達。全てに彩の署名が入っている。ペンを置いた。
缶コーヒーには手を伸ばさなかった。代わりに、引き出しから紙パックの麦茶を取り出した。ストローを刺す。甘くない。苦くもない。ただの、麦の味。
手帳を開いた。ページをめくる。核晶修復の前夜に書いた一行がある。『全員で行って、全員で帰る』。その下に、中層第九区画の試験前夜に書き足した一行。『——二回目』。
彩はペンを手に取り、さらにその下に書き加えた。
『今度は、向こう側から。——三回目』
手帳を閉じた。
麦茶を一口飲む。
モニターを見た。六つの光点——チームメンバーの位置情報は全てグリーン。全員、寮か管理局内にいる。動いていない。眠っているか、眠ろうとしているか。
彩は椅子から立ち上がり、窓に寄った。
夜の街。ダンジョンのゲートが街灯に照らされている。明日、あの中に入り、最奥部を抜け、壁の向こうへ行く。
自分は行かない。地上に残って、通信が途絶するまで見守り、途絶した後も——待つ。
彩は窓ガラスに映る自分の顔を見た。目の下に隈がある。頬がやせている。ここ二週間で缶コーヒーを何本飲んだか、もう数えていない。
「……帰ってきなさいよ」
窓ガラスの向こうのゲートに向かって、声に出した。
返事はない。当たり前だ。
彩は執務室の照明を消し、ドアを閉めた。鍵をかける。
麦茶の紙パックは、デスクの上に置いたままだった。半分残っている。明日の朝、飲む。
◇◇◇
瀬田ユアの夜。
サンクスマート桜谷駅前店。午前一時。
夜勤のシフトは通常なら五時までだ。だが今夜、ユアは閉店処理を終えた後も店に残っていた。
明日の入荷分がバックヤードに届いている。通常の二倍の鮭おにぎり。ユアが昨日、発注を増やしていた。
段ボールを開け、棚に並べ始める。鮭。鮭。鮭。白い三角形が棚を埋めていく。
いつもより多い。明らかに多い。一人の常連のために、コンビニの仕入れを変えている。
自分でも馬鹿だと思う。だが手は止まらなかった。
並べ終えて、棚の前に立った。鮭おにぎりの山。店長が見たら「なんでこんなに」と聞くだろう。「常連が大量に買うんで」と答えるしかない。嘘ではない。
「……帰ってきた時に足りないと困るでしょ」
誰もいない店内で、一人呟いた。蛍光灯の白い光。有線放送は深夜帯のインストゥルメンタル。
ユアはカウンターに戻り、付箋を見た。『イエヤス −10円(9回目)』。その横に昨夜自分で書いた一行。『明日の鮭、多めに発注済。足りなかったら梅も出す』。
ユアは付箋を丁寧に剥がした。折り畳んで、エプロンのポケットに入れた。
捨てたのではない。しまったのだ。帰ってきた時に、また貼り直すために。
◇◇◇
神代イエヤスの夜。
寮の個室。午前二時。
部屋には何もない。凛が選んだテーブルと椅子。つむぎのセンサーデータが入った端末の充電器。あかりがプロデュースした間接照明は消えている。床に黒ツルハシが壁に立てかけてある。
リュックが二つ。一つには鮭おにぎり十四個と携行食。もう一つにはチーム全員の予備の水と照明。イエヤスが一番重い荷物を持つ。当たり前のことだ。
イエヤスは床に座り、黒ツルハシの柄に右手を触れた。
目を閉じる。
深層樫の柄が、掌の中でかすかに振動していた。打撃の時のような鋭い振動ではない。もっとゆっくりとした、脈拍のようなリズム。
壁の向こうから、音が届いている。
金色の残響。あの日——セリアが境界壁を越えてきた時と同じ、温かくて、どこか切ない響き。
何かが待っている。
何が待っているのかは分からない。でも、音が聴こえる。聴こえるなら、行く。泣いているなら、掘りに行く。
イエヤスは目を開けた。
窓の外は暗い。星は見えない。曇っているのだろう。
「……明日だな」
誰に言うでもなく呟いた。
黒ツルハシの柄から手を離し、床に横になった。枕はある。凛が買ってくれた。
三秒で眠りに落ちた。
柄の振動だけが、暗い部屋の中で静かに続いていた。
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