第73話 「烈火の指示」
翌朝。午前七時十二分。
藤村彩は執務室のデスクで、昨夜イエヤスが転送してきたメッセージを睨んでいた。
暗号化通信。送信者不明。本文一行。
『準備はできたか。——烈火』
本文だけなら放置してもいい。だが、メッセージにはファイルが一つ添付されていた。座標データ。数列が四行。彩の目では意味が読み取れない。
彩は端末を持って立ち上がった。缶コーヒーはまだ開けていない。先にやることがある。
◇◇◇
午前七時二十八分。管理局地上棟、第三研究室。
雪平つむぎは既にデスクに向かっていた。モニター三台。左に境界壁の魔力変動グラフ、中央にセンサーデータの時系列解析、右にメールの受信トレイ。目の下に薄い隈がある。昨夜も四時間睡眠だろう。
「雪平さん」
「はい。——あ、管理官。おはようございます」
彩が端末を差し出した。つむぎが座標データを受け取り、画面に展開する。
十五秒。つむぎの指がタブレットの上を走り、座標を三次元マップに投影した。
深層最奥部。核晶の空洞のさらに奥。セリアが境界壁を越えてきた亀裂の、すぐ近く。
つむぎの指が止まった。
画面を見つめる目の色が変わっていた。
「……ここです」
声が低くなっている。
「境界壁の脆弱部位。残り三パーセントの——ピンポイントです」
彩は何も言わなかった。つむぎも何も言わなかった。
二人の間にある沈黙が、抱えてきた秘密の重さそのものだった。
境界壁は核晶修復後、九十七パーセントまで復元した。だが残りの三パーセントは薄いまま。もう一度核晶級の衝撃が加われば、再び開く可能性がある。
彩とつむぎだけが知っている情報だった。イエヤスにも、凛にも、刃にも、セリアにも伝えていない。「時が来たら言う」と、つむぎが言った。彩が「分かっています」と答えた。あの日から、ずっと。
「……時が来ましたね」
つむぎが彩を見た。
彩が小さく頷いた。
「全員を集めて。十時に第三会議室」
「了解です」
つむぎが端末に通知を打ち始める前に、彩が付け加えた。
「もう一件。霧島課長に連絡を入れるわ。深層最奥部への正式な探索許可が要る」
「……霧島課長が承認するでしょうか」
「するわよ。あの人は約束を守る人間だから」
彩は研究室を出て、廊下で端末を取り出した。霧島の直通回線。一度だけ使ったことがある。
コール音が三回鳴って、繋がった。
「霧島です」
「藤村です。お時間をいただけますか」
「どうぞ」
「深層最奥部、境界壁付近への探索許可を申請します。特別探索チームによる公式探索として」
二秒の沈黙。
電話越しに、万年筆のキャップが外れる小さな音がした。
「……目的は」
「境界壁の脆弱部位の実地調査。および、越境の可能性の検証です」
さらに三秒の沈黙。霧島が何かを書いている音が聞こえた。紙の上をペン先が走る、規則正しい音。
「承認します」
それだけだった。
「装備と予算の支援は、前回お約束した通り提供します。申請書は本日中に処理しますので、明日には許可が下りるでしょう。——藤村管理官」
「はい」
「お気をつけて」
通信が切れた。
彩は端末を握ったまま、廊下の窓の外を見た。朝の光がダンジョンのゲートを照らしている。
霧島は聞かなかった。「越境」の意味を。境界壁の向こうに何があるかを。
聞く必要がなかったのだろう。あの男は最初から全部知っている。知った上で、自分の役割を果たしている。法と制度の範囲内で。
彩は缶コーヒーのプルタブを開けた。ブラック。苦い。今日は苦くていい。
◇◇◇
午前十時。第三会議室。
七人が集まっていた。昨日と同じ配置。長机を囲むイエヤス、凛、つむぎ、あかり、セリア。壁際に刃。議長席に彩。
昨日と違うのは、ホワイトボードに×印が並んでいないことと、彩の手元に認定証の額縁ではなく薄いファイルが置かれていることだった。
「昨夜、イエヤスの端末に烈火さんからメッセージが届いたのは、全員知ってると思うわ」
彩がファイルを開いた。中身はつむぎが今朝解析したデータのプリントアウト。
「本文は一行。『準備はできたか。——烈火』。これに座標データが添付されていた。つむぎ、説明して」
つむぎが立ち上がり、タブレットをプロジェクターに繋いだ。壁面に三次元マップが投影される。
深層最奥部の断面図。核晶の空洞。そのさらに奥。セリアが越えてきた亀裂の付近に、赤い点が一つ打たれている。
「烈火さんが送ってきた座標は、ここです。深層最奥部、境界壁上の一点。この座標が何を意味するかは——」
つむぎが一瞬だけ彩を見た。彩が小さく頷いた。
それだけのやり取りだった。声も、言葉も必要なかった。数ヶ月間、二人だけで抱えてきた秘密を手放す瞬間の、最後の確認。
「——境界壁の修復率について、お話しします」
つむぎの声が切り替わった。研究者の声だ。
「セリアさんが越えてきた後、境界壁は九十七パーセントまで復元しました。ですが、残りの三パーセントが薄いまま回復していません」
会議室が静まった。
凛が真っ先に反応した。声は低かった。
「いつから知っていたの」
「セリアさんの覚醒直後の検査データから判明しました。いえ、セリアさんが目覚めた翌日の分析で」
凛の視線が彩に向いた。
「彩さん」
「私の判断よ。情報が不確定な段階で共有すれば、不必要なリスクテイクを誘発すると判断した。……結果として、つむぎと二人で抱えることになった」
凛の唇が引き結ばれた。怒りではなかった。管理官の判断を理解した上での、もっと複雑な感情だった。自分が知っていれば何かできたのかという自問と、知らなかったから冷静に動けたのかもしれないという自答が、同時に走っている。
「……了解しました。で、その三パーセントは」
「烈火さんの座標と完全に一致しています。あの人は、壁の薄い場所を正確に知っていた」
イエヤスが口を開いた。
「つまり、あの壁をもう一回叩けば、向こう側に行けるってことっすか」
全員の視線がイエヤスに集まった。核晶修復の時と同じだ。この男は、複雑な状況を一番短い言葉に圧縮する。
「理論上は」
彩が答えた。声は平坦だった。
「ただし、行ったら帰れる保証はない。壁が再び閉じる可能性がある。通信も途絶する。向こう側の環境データはセリアさんの証言以外ゼロ。補給もゼロ。何が起きても、この世界からの支援は届かない」
セリアが口を開いた。
「わたしが越えてきた時、壁は閉じました」
翡翠の瞳が、一人ずつ全員の顔を見ている。
「振り返った時には、もう通れなくなっていました。同じことが起きるかもしれません。——いえ、起きる可能性の方が高いと思います」
重い沈黙が落ちた。
セリアの言葉は事実の報告だった。だがその事実の重さが、会議室の空気を変えていた。行ったら帰れないかもしれない。全員が、それを飲み込んでいる。
壁際から、短い声が降ってきた。
「行くんだろう」
刃だった。腕を組んだまま、目を閉じたまま。問いかけではなかった。確認ですらなかった。既に知っていることを、声にしただけだった。
「行く」
イエヤスが即答した。
「……知ってた」
凛が小さく息を吐いた。
つむぎが端末を胸に抱え直した。
「境界壁の脆弱部位のデータは、核晶修復時の打撃パターンと合わせて逆算すれば、開放に必要な共鳴リズムを算出できます。準備に必要な時間は——二日です」
あかりが膝の下からカメラを取り出した。彩を見る。彩は三秒ほどあかりを見つめ、それから視線を逸らした。却下とは言わなかった。
「記録は必要よ。——ただし非公開。管理局の保存用のみ」
「了解。最高画質で撮る」
彩が手帳を開いた。ペンを取る。
「深層最奥部への探索許可は霧島課長から承認済み。装備と予算の支援も確約されている。つむぎは打撃パターンの算出を最優先。凛と刃は装備の最終確認。あかりは記録機材の準備。セリアさんは——」
「案内します」
セリアが即答した。
「わたしの世界です。道は、覚えています」
彩はペンを走らせた。手帳に書いたのは、日付と時刻と、短い一行だけだった。
『越境探索。準備期間二日。全員で行く』
◇◇◇
午後八時。サンクスマート桜谷駅前店。
自動ドアが開いた。イエヤスが入ってくる。黒ツルハシは寮に置いてきたが、代わりにリュックを背負っている。空のリュック。これから中身を詰める気だ。
「鮭おにぎり。——三十個」
瀬田ユアのレジを打つ手が、完全に止まった。
「……何個って言った?」
「三十個」
「うちの在庫、全部合わせても二十二個しかないんだけど」
「じゃあ二十二個で」
ユアはレジから出て、棚のおにぎりを端から端まで確認した。鮭。十四個。梅。三個。ツナマヨ。五個。鮭以外も含めて二十二個。
「全種類買うの?」
「鮭だけでいい。十四個。明日の朝またくる」
ユアは鮭おにぎりを十四個、カウンターに並べた。小さな白い三角形の山ができる。
「……何個買う気なの、最終的に」
「向こう側にコンビニあるかわかんないから。できるだけ多い方がいい」
「……あんた、死ぬかもしれない場所に行くのに、心配してるのおにぎりの数なわけ?」
「いや、腹減ってフラフラしてたらモテないだろ。どこの世界でも」
ユアの手が、おにぎりを袋に入れる途中で止まった。
向こう側。
イエヤスが何を言っているのか、ユアにはほとんどわからない。ダンジョンの奥がどうなっているのかも、境界壁が何なのかも、知らない。知っているのは、この男が時々とんでもなく遠いところに行って、ボロボロになって帰ってくることだけだ。
「……帰ってくるんでしょうね」
声は平坦だった。有線放送のJ-POPが、サビに入っていた。
「帰ってくるっすよ」
「帰ってこなかったら、ツケ踏み倒しってことになるんだけど」
ユアが付箋を指で弾いた。『イエヤス −10円(8回目)』。
刃が一度清算した借金がまた膨れ上がっていた。
「八回分。八十円。……絶対返してよね」
声が少しだけ掠れていた。ユアは自分でも気づいていないかもしれない。
「返すっすよ。帰ってきたら」
「当たり前でしょ」
ユアはおにぎりを袋に詰め終え、カウンターに置いた。
「千八百二十円。——十円足りないのは分かってるから、言わなくていい」
イエヤスが小銭を並べた。千八百十円。ユアが付箋に『9回目』と書き加えた。
「明日の朝、残りの分を買いに来る。朝イチで」
「……入荷は五時半。六時には棚に並べとく」
いつもより三十分早い。ユアの夜勤は通常五時に終わるが、そのまま残って棚に並べるということだ。
「ユアさん」
「なに」
「ありがとうっす」
ユアはレジのモニターに目を落とした。
「礼は帰ってきてから言いなさい」
自動ドアが開き、イエヤスが出ていく。おにぎり十四個の入った袋を抱えて。リュックはまだ空のままだ。明日の朝、残りで埋まる。
自動ドアが閉まった。
店内に、ユア一人。蛍光灯の白い光。有線放送が次の曲に変わった。
ユアはカウンターに両手をついた。
付箋の横に、ボールペンで一行書き足した。
『明日の鮭、多めに発注』
それから、付箋をじっと見つめた。八十円分のツケ。
「どうせなら百円の方が分かりやすいのに……バカ」
誰もいない店内に、ユアの声だけが小さく響いて消えた。
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