第72話 俺たちでいく
特別探索チーム認定から三日後。午前十時。管理局第三会議室。
長机の上に額縁が一つ置かれていた。ダンジョン庁深層特務課課長・霧島征一郎の署名が入った認定証。金色の縁取り。赤い公印。チーム名の欄だけが、真っ白なまま残されている。
「——というわけで。認定は取れたけど、名前がないの」
藤村彩が額縁の横に立ち、全員を見回した。缶コーヒーはブラック。今朝はまだ一本目。比較的余裕のある朝だ。
「庁に正式登録するには、チーム名が必要よ。今日中に決めなさい」
長机を囲むように、六人が座っている。
早瀬凛が背筋を伸ばして椅子に座り、雪平つむぎがタブレットを膝に載せ、伊吹あかりが小型カメラを——彩に睨まれて膝の下にしまい、セリアがフルフェイスヘルメットを脇に抱えてイエヤスの隣に座っている。
氷室刃は椅子に座らず、壁際に立って腕を組んでいた。いつも通り。
神代イエヤスが最初に手を挙げた。
「モテ隊」
四秒の沈黙。
彩がホワイトボードに『モテ隊』と書き、横に大きく×をつけた。議事録として記録に残す判断だ。
「却下。次」
「えー、なんでっすか。分かりやすいし、覚えやすいし——」
「却下」
凛が手を挙げた。
「桜谷特務探索チーム」
真面目だった。堅実で、組織名として申し分ない。
あかりが即座に首を横に振った。
「配信映えしない。字面が硬すぎて、サムネに載せても誰もクリックしないよ」
「配信基準で名前を決めないでくれる?」
「でも世間への認知度を考えたら——」
「認知度で名前を決めるの?」
つむぎが挙手した。
「論理的に考えましょう。候補を全員三つずつ出して、一対比較法で——」
「いったいひかく?」
「二つの候補を並べて、どちらが良いかを全組み合わせで比較する統計的手法です」
「めんどくせー」
「科学的に正しい方法です!」
「つむぎが決めていいよ。俺、名前のセンスないし」
つむぎの頬がかすかに赤くなった。
「わ、わたしが……? で、でもそれはチーム全員の合意形成プロセスを経ないと正当性が——」
あかりが身を乗り出した。
「じゃあチーム・イエヤス!」
「え、俺? モテそうだな」
「却下」と凛。即答だった。
「なんでよ」
「リーダーの名前をチーム名にするのは組織論として——」
「じゃあチーム・凛」
「それも却下!」
凛の耳が赤くなっている。
つむぎが眼鏡を押し上げた。
「学術論文の共著機関として記載する場合の可読性も考慮すべきです。『境界探索研究チーム(仮称)』はいかがでしょうか」
「(仮称)まで正式名称にする気?」
「仮称であることを明示するのは、科学者として誠実な態度です」
「長い」とイエヤス。
「覚えられません」とセリア。
セリアが口を開いた。エルフ語の流麗な発音が会議室に響いた。翻訳魔具が断片的に拾う。
『大いなる……鉱脈の……守り手たちの……盟約……永遠に……輝く……』
「美しい名前ですね!」とつむぎ。
「発音できる?」と凛。
イエヤスが三回挑戦した。三回とも全く違う名前になった。二回目は明らかに別の言語だった。
「……無理だな」
「無理ですね」とセリアが悲しそうに頷いた。
彩がホワイトボードを見た。×印が十二個並んでいる。まだ午前中だ。
「氷室くんは?」
「どうでもいい」
全員が振り返った。予想通りの回答に、誰も驚かなかった。
「知ってた」
凛とあかりの声が重なった。
◇◇◇
会議が膠着したため、昼食休憩。
イエヤスがサンクスマートに向かうと、セリアがフルフェイスヘルメットを被ってついてきた。刃も何故か同じ方向に歩いていた。「たまたま同じ道だ」と言ったが、寮とは反対方向である。
自動ドアが開いた。蛍光灯の白い光。有線放送のJ-POP。レジカウンターの向こうに、瀬田ユアが立っている。
「いらっしゃ——また増えてるじゃん」
ユアの視線がイエヤス、フルフェイスヘルメットのセリア、壁際に立つ刃の三人を順番になぞった。
「鮭おにぎり。九つ」
「九つ。いつから大家族になったの」
「チーム名決めてるんだけど、全然決まんなくて」
ユアがレジの下から隠し在庫のおにぎりを出しながら、呆れた顔で言った。
「あんたらに名前つけるのって、野良猫の群れに名前つけるようなもんでしょ。まとまるわけない」
「そうなのか」
「そうだよ」
セリアがバイザーを上げておにぎりの棚を凝視していた。ユアが慣れた手つきで棚の裏から追加の鮭おにぎりを出す。発見から二週間、もうこのオペレーションは確立されていた。
「千百七十円」
イエヤスがポケットから小銭を出し、並べた。数えた。
「あ」
「十円?」
「十円」
ユアの右眉がぴくりと跳ねた。付箋を見る。『イエヤス −10円(8回目)』。
「特別探索チームに認定されても、十円は十円なわけね」
「すんません」
刃がブラックの缶コーヒーを一本、無言でカウンターに置いた。百三十円。ぴったり。
ユアがスキャンしながら呟く。
「……兄の方はいつもぴったりなのに」
刃がセリアのフルフェイスヘルメットを一瞥した。
「その格好、逆に目立つ」
「……仕方ないでしょう。耳を隠す必要が——」
「帽子の方がまだマシだ」
「帽子は耳が潰れて痛いんです」
「知るか」
自動ドアが閉まった後、ユアはカウンターに肘をつき、去っていく三つの背中を眺めた。泥だらけの作業着と、黒いパーカーと、全身白のフルフェイス。
付箋の『8回目』の横に、小さく書き足した。
『チーム名募集中らしい。知らんけど。』
◇◇◇
午後一時。会議再開。
おにぎりを食べながらの続行。ホワイトボードの×印は増え続け、二十を超えた。
あかりが配信の視聴者にアンケートを取ろうとした。
「非公開の限定アンケートなら——」
「非公開の意味を辞書で引きなさい」
「紙の辞書持ってない世代なんですけど」
「電子辞書でいいわよ」
つむぎが一対比較法の表をタブレットに作り始めたが、候補が増えすぎて組み合わせ数が爆発し、「……計算量がNP困難に近づいています」と呟いて眼鏡を押し上げた。
イエヤスがおにぎりの三個目を食べ終え、ふと言った。
「そもそも、リーダーって誰なんすか」
全員が動きを止めた。
「俺は掘る人っすよ。リーダーは彩さんでしょ」
「私は管理官。現場に出ない時もある。リーダーとは違うわ」
「じゃあ凛?」
「え? わ、私は護衛であって——」
「つむぎ?」
「わたしは分析です。指揮系統の問題は——」
「あかりさん?」
「配信者はチームの外側から撮る人だからなあ」
「セリア?」
「わたしは……この世界のことをまだよく知りません」
全員の視線が壁際に向かった。刃は腕を組んだまま目を閉じていた。
「刃?」
「論外だ」
沈黙が落ちた。誰もリーダーを名乗らない。名乗れない。
その沈黙を破ったのは、刃だった。目を開けないまま、短く。
「リーダーはいない。全員が自分の仕事をするだけだ」
会議室が静まった。
凛が三秒ほど刃を見て、小さく笑った。
「……刃さんにしては、いいこと言うじゃない」
「うるさい」
イエヤスが天井を見上げて呟いた。
「じゃあ、名前も決まんなくていいんじゃねえの。名前なくても、全員いるし」
彩のペンが止まった。
ホワイトボードの×印を見渡し、それから、イエヤスの横顔を見た。この男は時々、何も考えていないような声で、一番大事なことを言う。
彩はペンを置いた。
「……名前は保留にするわ。庁への登録は私が何とかする」
あかりが「えー、せっかくここまで——」と言いかけたが、彩の目を見て口を閉じた。管理官の目が、議題の切り替えを告げていた。
◇◇◇
午後五時。会議は七時間に及んだ。
ホワイトボードには×印が二十三個。名前は一つも決まらなかった。
彩が額縁の認定証を手に取った。チーム名の欄は白いまま。
「名前の件は後日。——先に、全員に確認したいことがある」
声のトーンが変わった。缶コーヒーを置く音が、静かな会議室に響いた。管理官の声だ。
「チームの認定は取れた。霧島課長も協力すると言っている。装備と予算の見込みも立ちつつある。問題は一つだけ」
彩が全員を見回した。
「向こう側に行くのか。境界壁の先へ。セリアさんの世界へ。——全員で行くのか」
帰れる保証はない。壁が閉じるかもしれない。何があるかもわからない。それでも。
イエヤスが答えた。座ったまま。おにぎりの最後の一口を飲み込んで。
「俺たちで行く。全員で」
当たり前のことを言う声だった。「朝飯食った?」と同じ温度で、世界の裏側に行くと言い切った。
凛が小さく息を吐いた。
「聞くまでもなかったわね」
つむぎが端末を胸に抱えた。
「わたしのデータなしで向こう側の鉱物分析はできません。行くに決まっています」
あかりがカメラのレンズキャップを外した。
「世界初の異世界記録。——配信できなくても、カメラは止めない」
セリアがイエヤスの袖を掴んだ。翡翠の瞳が真っ直ぐに彩を見ている。
「わたしの世界です。案内します」
刃は壁にもたれたまま、何も言わなかった。ドアに向かわなかった。腕を組み直しただけだった。
それが答えだと、全員が知っていた。
彩は手帳を開いた。核晶修復の前夜に書いた一行——『全員で行って、全員で帰る』。その下に、新しい一行を書き加えた。
『二回目の準備開始』
◇◇◇
午後八時。管理局地上棟、屋上。
イエヤスが一人でフェンスに肘を載せていた。五月の夜風が、洗いざらしのTシャツの裾を揺らしている。
ダンジョンのゲートが、闇の中で街灯に照らされている。あの奥の、さらに奥。壁の向こう。
黒ツルハシの柄に右手を触れた。かすかな振動。セリアが越えてきた日から止まっていない、金色の残響。
「……待ってろよ」
屋上の重いドアが開いた。
振り返らなくてもわかった。足音の軽さと、革底が金属の床を叩くリズム。
「……また一人で屋上?」
凛だった。
「風が気持ちいいから」
「……そう」
凛が横に立った。フェンスに手をかけ、イエヤスと同じ方向を見た。肩は触れていない。でも、いつもより近かった。
風が吹いた。凛の髪が揺れて、イエヤスの腕に触れた。凛はそれを直さなかった。
「名前、結局決まらなかったわね」
「まあ、いいんじゃないっすか。名前なくても、全員いるし」
「……そうね」
五秒ほど、風の音だけが屋上を渡った。
「ねえ、イエヤス」
「ん?」
「向こう側に行ったら……鮭おにぎり、ないわよ」
イエヤスの顔に、深層級と戦った時よりも深刻な表情が浮かんだ。三秒の沈黙。
「……持ってく」
「何個」
「百個くらい?」
「腐るわよ」
「じゃあ二百個」
「増やしてどうするのよ」
凛が笑った。小さく、でも確かに。声に出して。
イエヤスは凛の笑い声を聞いて、少しだけ目を丸くした。こいつが声を出して笑うのは珍しい。理由はわからなかったが、悪い音じゃないと思った。
風が止んだ。星が見え始めていた。
ポケットの中で、端末が震えた。
イエヤスが取り出す。画面が光っている。
送信者:不明。
暗号化メッセージ。
件名はなく、本文は一行だけ。
イエヤスは画面を見つめた。読めない漢字だ。でも、この字の汚さには覚えがある。
「——凛。これ、なんて読む?」
凛がイエヤスの手元を覗き込んだ。肩が触れた。今度は、二人とも離れなかった。
画面の一行。
『準備はできたか。——烈火』
凛の目が鋭くなった。管理官に報告すべき内容だと、即座に判断している。だがその前に、凛はイエヤスの横顔を見た。
笑っていた。画面の向こうにいる、クソ親父に向かって。
「相変わらずだな」
屋上の夜風が、もう一度吹いた。
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