第71話 合格
踏破翌日、午前十時。管理局第一会議室。
霧島征一郎がいつもの席に座っていた。銀縁眼鏡、皺のないスーツ、姿勢は昨日も一昨日も変わらない。机の上にファイルが一冊と、万年筆が一本。
対面に七人。
六十八時間の地下から戻って一晩しか経っていない。凛の肩が微かに強張っているのは筋肉痛だろう。つむぎの目の下に隈があり、あかりは化粧が普段より薄い。イエヤスは黒ツルハシを壁に立てかけ、パイプ椅子に座っていた。セリアだけが疲労の色を見せていないのは、エルフの回復力のおかげか、二百年の忍耐のおかげか。
刃は椅子に座らず、壁際に立っている。いつも通り。
彩が七人目の席についていた。目の下の隈は地上で待機していた分だけ薄い。だがこの三日間、モニターの前で一睡もしなかったことは全員が知っている。
霧島がファイルを開いた。
「結果を確認します」
ページをめくる音だけが会議室に響いた。
「中層第九区画、踏破時間——六十八時間四十七分。参加者七名、全員生存。深層特異体を二体確認、いずれもチーム連携により撃破。鉱石視覚と聴覚の併用による地形マッピングの精度は——」
霧島の視線がデータの一行で止まった。〇・五秒ほどの間。誰も気づかない程度の躊躇。
「——私の三ヶ月の調査に匹敵します」
万年筆を手に取った。
認定書類の署名欄に、ペン先を当てる。霧島の指が一瞬止まった。万年筆の軸を持つ指先に、かすかな力の偏りがある。震えではない。ただ、二十二年分の何かが指先に溜まっているような、そういう間だった。
署名。流れるような筆跡が、紙の上に名前を刻んだ。
「特別探索チーム、認定します」
凛が小さく息を吐いた。音にならない吐息だったが、強張っていた肩が二センチほど下がった。
つむぎが隣の彩の腕に、額をそっと当てた。言葉はなかった。彩は動かなかった。ただ、つむぎの頭が離れるまで腕を引かなかった。
あかりが無言で右手の親指を立てた。カメラは回していない。今この瞬間は、記録ではなく記憶にだけ残すものだと判断したのだろう。
刃は壁際で腕を組んだまま、表情を変えなかった。
セリアは書類を見つめていた。「認定」という単語の重みを半分は理解し、半分はまだわかっていない顔。ただ、周囲の空気が緩んだことは感じ取っていた。
彩が立ち上がった。全員に向かって、深く頭を下げた。
「——ありがとうございます」
それが霧島に向けた言葉なのか、チームに向けた言葉なのか、あるいはその両方なのか。彩自身にもわからなかったかもしれない。
霧島が万年筆をしまった。
「感謝は不要です。条件を満たしただけのことです」
*
霧島が鞄を持って立ち上がり、会議室を出ようとした。
ドアの手前で、足が止まった。イエヤスの前。
「神代くん」
イエヤスが顔を上げた。パイプ椅子に座ったまま、霧島を見上げる形になる。
「六十八時間四十七分でした」
「はい」
「お父上は二日。あなた方は約三日。差は二十時間以上あります」
「……わかってます」
イエヤスの声は低かった。悔しさではなく、事実を受け止めた声だった。
「しかし、お父上は恐らく一人で向こう側に渡り、……行き詰った。記録には残っていないですが」
イエヤスの目が変わった。見上げていた視線が、真っ直ぐ霧島を捉えた。
霧島の声は平坦だった。だが眼鏡の奥の目が、一瞬だけ遠くを見ていた。桜谷の方角でも、深層の方角でもない。二十二年前の、どこかを。
「……向こう側にも、七人で行くつもりですか」
イエヤスが立ち上がった。パイプ椅子が軽く鳴った。
「——当然っすよ」
霧島が眼鏡のブリッジに触れた。三秒の沈黙。会議室の蛍光灯がかすかに唸っている。
「……私に協力できることがあれば、言ってください。法と制度の範囲内で」
それだけ言って、霧島は会議室を出た。
廊下を歩く。刃が壁にもたれている横を通り過ぎるとき、足は止めなかった。ただ、通り過ぎざまに小さく。
「いい斬撃でした、氷室くん」
刃は壁にもたれたまま目を閉じていた。返事はなかった。霧島もそれを期待していなかった。
革靴の足音が廊下の奥に消えていった。
霧島の足音が完全に消えてから、会議室の空気が緩んだ。
その瞬間、イエヤスの腹が鳴った。盛大に。
凛が額を押さえた。あかりが「……台無し」と呟いた。
「いや、昨日から鮭おにぎりしか食ってないんすよ。腹減って」
「認定の余韻くらい味わわせなさいよ」と凛。
「腹が減ってる方がリアルっしょ」
セリアが小さく笑った。この世界に来て、何度目かの笑い方だった。
*
ダンジョン庁本庁舎、深層特務課執務室。
霧島征一郎はデスクに座り、手帳を開いた。万年筆のキャップを外し、日付の横に書き始める。
『六十八時間四十七分。七名全員生還。深層特異体三体を連携で撃破。
藤村管理官の統率。神代の聴覚。氷室の斬撃。早瀬の判断。雪平の分析。リュミエラの視覚。伊吹の記録。
個々の能力は烈火に及ばない。だがチームとしての完成度は——』
ペンが止まった。
書こうとした言葉を、消した。何を書こうとしたのかは、霧島自身にしかわからない。消した跡だけが紙の上に残った。
手帳の横に、古い冊子がある。二十二年前の選抜プログラム名簿。八十名の顔写真と経歴が並んでいる。一ページ目に霧島征一郎、十八歳。理論試験総合一位。三ページ目に神代烈火。経歴欄はほぼ空白。写真の中の烈火は不遜な笑みを浮かべていて、二十二年経った今も、その笑みは少しも古びていなかった。
「烈火」
誰もいない執務室で、霧島はかつての同期の名を呼んだ。
「——お前はこれを見越していたのか」
答えはない。名簿の中の烈火は笑っているだけだ。
霧島は名簿を閉じた。デスクの引き出しにしまい、鍵をかけた。窓の外を見た。ダンジョン庁本庁舎の五階から見える景色は、ビルの壁と灰色の空だけだ。桜谷は見えない。
だが霧島は、しばらくその方角を見ていた。
デスクの上には、先ほど署名した認定書類の控えがある。「特別探索チーム第一号」の文字。その横に、チーム名の欄。空白のまま。
霧島は眼鏡を外し、ブリッジを指で拭いた。眼鏡をかけ直し、手帳の消した跡の横に、一行だけ書き足した。
『今度は、私のやり方で追いつく』
手帳を閉じ、次の書類に手を伸ばした。深層特務課課長の仕事は、まだ山のように残っていた。
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