第70話 ② 三日間の戦争 後編
中層第九区画。
刃が飛び出した。制限のない全速。〇・二秒で間合いを詰め、関節の継ぎ目に刀を叩き込む。
火花が散り——数ミリ削れただけで止まった。
凛が反対側から斬りつけた。同じ結果。刀が弾かれ、手首に衝撃が返る。
イエヤスが地を蹴った。黒ツルハシのフルスイング。
全力の一撃が特異体の脚部に炸裂する。手が痺れるほどの反発。弾かれた。
「マジか。今の俺の全力だぞ!」
今回はタイムアタック。インナーは始めから着ていない。正真正銘のイエヤスの全力だ。
つむぎが予備端末を見て声を上げた。
「装甲密度、先ほどの個体の四倍以上です。中層の物理法則では貫通不可能——」
特異体の腕が振り下ろされる。刃が凛を押し退けて回避。床がクレーターのように砕けた。
イエヤスが壁に耳を当て、核の位置を探ろうとした。
目を閉じる。三秒。五秒。
「……ない」
「ない?」
「核がない。こいつ、全部でひとつ。弱点がどこにも——」
言い終わる前に、特異体が再び腕を振った。
イエヤスが横に跳ぶ。着地の衝撃で膝が軋む。
五十時間分の疲労が、一気に噴き出してくる。
三人が壁際に追い込まれかけた。刃が三度斬り
つけた。無論、異常に重たいブレスレットはつけていない。全力の斬撃だ。
凛が隙を突いて突きを入れた。イエヤスが側面から叩いた。
全て、弾かれた。
十五秒。三十秒。通常攻撃が一切通らない相手に、時間だけが削られていく。
凛の判断が「退避」に傾きかけた、その時。
セリアが動いた。
弓ではなかった。弓は効かないと二体目の戦闘で身に染みている。セリアは矢筒を背中に戻し、代わりにイエヤスの横に並んだ。翡翠の瞳が、特異体ではなく黒ツルハシの柄を見つめていた。
鉱石視覚。鉱脈だけでなく、魔力を帯びた構造の内部まで透視する目。セリアのその目が、深層木の柄と深層鋼の刃の奥に、微細な回路のような「脈」を
捉えていた。打撃のたびに自動で発動する斥力場とは別の、もっと深い層にある——休眠中の何か。
「イエヤス。そのツルハシ——脈が眠っています。起こせば、通る」
「脈? 何のこと——」
セリアがイエヤスの手ごと、黒ツルハシの柄を両手で包んだ。翡翠の瞳を閉じる。二百年の時を経たエルフの純粋な魔力が、指先を通じて深層の武器へと流れ込む。
ドクン、と。
ツルハシが、脈打った。
黒い刃の表面に、紫色の光が走った。幾何学的なラインが浮かび上がり、柄から刃先まで一本の輝く線が貫いている。空気がびりびりと震える。打撃時に自動で出ていた斥力場とは次元の違う、攻撃のための圧が刃先に集中していた。
「うおっ。なんか光った」
イエヤスが目を丸くしている。自分の武器の真の姿に、持ち主が一番驚いている。
セリアが息を切らしながら手を離した。鼻から一筋、血が流れた。膝が震えている。だが手を離す前に、はっきりと言った。
「長くは保ちません。一撃で」
イエヤスが笑った。不器用な、口の端だけの笑い。
「充分」
刃が再び飛び出した。特異体の腕を誘い、正面の装甲に一瞬の隙を作る。凛が反対側から突きを放ち、注意を分散させた。巨体が動く。胸部の極厚装甲が、一瞬だけ無防備になる。
イエヤスが駆けた。紫に光る黒ツルハシを振りかぶる。
門番の腕が振り下ろされる。
〇・三秒——。
凛の剣がその軌道を逸らし、刃が逆側から肩を叩いて
門番の重心をずらした。
〇・三秒が、二人の手で埋まった。
「おらぁ!」
叩き込んだ。
ツルハシの刃先が装甲に触れた瞬間、集中した斥力場が鉱物結晶の内部を爆発的に押し広げた。装甲が内側から砕け、亀裂が全身に走り、深層の門番が核のない巨体の
まま崩壊した。石ころの雨が通路に降り注ぐ。
粉塵の中で、紫の光がゆっくりと消えていくツルハシを見つめながら、イエヤスが呟いた。
「……親父のやつ、説明書くらいつけとけっての」
つむぎが予備端末に猛然と打ち込んでいた。
「パッシブの斥力場とは別系統の攻撃回路……外部魔力で起動する二段階構造……。烈火さん、このツルハシを作った時点で『自分以外の誰かが魔力を注ぐこと』を想定していた——」
凛がため息をついた。
「想定してたなら、説明書をつけなさいよ本当に……」
あかりがカメラを構えたまま、声を絞り出した。
「今の、全部撮れてた。
……帰ったら編集で三日かかる」
セリアは壁にもたれかかっていた。魔力を大量に使った反動で顔色が白い。だが、翡翠の瞳の光は消えていなかった。矢が通らなかった悔しさの代わりに、自分にしかできないことを見つけた目だった。
誰にも聞こえない声で、セリアは呟いた。
「——よかった。私も役に立てて」
*
つむぎが通信機を入れた。
「彩さん。三体目、撃破しました。全員無事です」
地上からの返事は、数秒遅れた。
「……全員?」
「全員です」
「——了解」
彩の声が、わずかに震えていた。
モニターの前で、九本目の缶コーヒーに手を伸ばしかけて、止めた。六つの光点が動いている。
全部、動いている。それだけで十分だった。
五十二時間。
門番を倒しても、第九区画は終わらなかった。
通路は続いている。勾配がさらに急になっていた。
つむぎの計測では霧島の報告書の記載より一・八倍。
二十二年前から、地形そのものが変わっている。
残り、二十時間。
門番戦の直後は全員に安堵の空気があったが、それは三十分で消えた。身体が冷え始めると、五十時間分の疲労が一斉に請求書を送りつけてきた。
イエヤスの右腕は門番戦の反動で感覚が鈍くなっていた。ツルハシは振れる。だが壁を叩いた時の反響を読み取る精度が、自分でわかるほど落ちている。
左手で壁を叩き、左耳で反響を拾い始めた。
精度は右手の七割。それでも止まる選択肢はなかった。
セリアがその分を補った。鉱石視覚の範囲を広げ、イエヤスが叩かなくても先の構造を報告し始めた。消耗した顔色のまま、瞳だけが翡翠の光を保っている。
五十五時間。残り十七時間。
つむぎの端末のバッテリーがまた落ちた。
予備に切り替える。三つ用意した最後の一つ。
「——あとひとつです。節電モードに切り替えます」
つむぎの声は平坦だった。だが端末を握る指が白かった。
五十八時間。あかりが初めて膝をついた。
三秒。立ち上がった。カメラは止めなかった。
イエヤスが振り返りかけた。
「大丈夫。——プロだから」
あかりの声がかすれていた。だが目だけはファインダーの向こうを見据えていた。
凛が何も言わずにあかりの隣に並んで歩いた。
肩が触れる距離。支えるためではなく、倒れた時に即座に手を出すための距離だった。
六十時間。残り十二時間。全行程の八割を消化していた。だが最後の二割が一番長く感じた。
イエヤスが先頭に代わった。刃が黙ってそれを許した。右腕はまだ痺れていたが、左手で壁を叩きながら進む。セリアが隣を歩き、視覚で補正する。
「左壁の先、三メートルに下り段差。高さは——
膝丈ほどです」
「了解。みんな、段差に気をつけろ」
イエヤスが後ろに声をかけた。
六十五時間。残り七時間。
つむぎの端末が最後のバッテリーの警告を出した。
残量十二パーセント。
「……端末の記録を最低限に切り替えます。地図の更新は停止。現在位置の座標記録だけを残します」
つむぎの声が震えていた。それは疲労だけではなかった。データを記録できないことが、つむぎにとっては武器を失うことと同義だった。
イエヤスが振り返った。
「つむぎ。ここまでの地図で十分だ。あとは俺の耳とセリアの目で行く」
つむぎが唇を結んだ。頷いた。
六十七時間。残り五時間。
通路の先に、空気の流れが変わる場所があった。
イエヤスが立ち止まった。
「…………風だ」
全員が足を止めた。微かな、だが確かな空気の流れ。
六十七時間閉鎖空間にいた身体が、外気の混入を敏感に捉えた。
セリアが前方を透かした。
「通路が広がっています。三百メートル先に——開けた空間。第九区画の終端部です」
つむぎが通信機を入れた。手が震えていた。
「彩さん。終端部を視認しました。残り三百メートルです」
地上から、彩の声が返った。
「——待ってる」
それだけだった。
凛が全員を見た。
「最後……みんな行こう」
返事は声ではなかった。刃が歩き出した。
あかりがカメラを構え直した。つむぎが端末を胸に抱えた。セリアがイエヤスの隣に並んだ。
最後の三百メートル。
あかりの膝が折れた。今度は三秒では立てなかった。
イエヤスが振り返り、無言であかりの機材を左肩に
担いだ。右肩には黒ツルハシ。背中にはつむぎの
予備機材。
あかりが何か言いかけた。
「カメラだけは持っててほしい」
イエヤスがそう言うとあかりが唇を噛んだ。カメラを両手で握り直した。
立ち上がった。
中層第九区画の終端。管理局が設置した鉄製のゲートが見えている。ゲートの隙間から漏れる白い光が、六人の顔を照らした。
つむぎが端末の震える手で、最後の数値を記録した。
「——踏破完了。六十八時間四十七分。全員生存」
七十二時間の制限に対して、残り三時間十三分。
楽ではなかった。余裕もなかった。
だが、全員がここにいた。
つむぎが最後の通信を入れた。
「彩さん。中層第九区画、踏破完了。
六十八時間四十七分。六名全員生存です」
地上から返ってきた声は、短かった。
「——おかえり」
彩の声が震えていた。
イエヤスが天井を仰いだ。目を閉じた。
「……着いたっすね」
「ええ」
凛が短く答えた。
つむぎが小さく付け加えた。
「霧島課長の記録を大幅に上回っています。
ただし——」
言葉を切った。全員が知っていることを、あえて言うべきか迷ったのだろう。
イエヤスが代わりに言った。
「親父の二日には届かなかった、っすね」
沈黙が落ちた。
六十八時間四十七分。約二日と二十一時間。
烈火の記録との差は、二十時間以上ある。
六人がかりで、一人の男の記録に届かなかった。
風が吹いている。出口からの風。三日ぶりの外の空気の匂いがする。
刃が歩き出した。出口に向かって、振り返らずに。
一言だけ。
「次」
イエヤスが笑った。大きな笑いではなく、
口の端だけの、不器用な笑い方。
「——っすね」
全員が、光の中へ歩き出した。
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