第70話 ① 三日間の戦争 前編
70 三日間の戦争
紫がかった光が、揺れている。
岩壁の奥、暗闇の中に二つ。生き物の目ではない。
鉱物質の表面が、内側の熱で発光しているのだ。
イエヤスが黒ツルハシの先端を岩盤から離し、目を開けた。
「一体目、正面。距離は——セリア」
「約百八十歩。岩盤に張り付いています。輪郭は……大きい。この通路の幅と同じくらい」
つむぎがタブレットを操作した。
「深層特異体のデータベースと照合完了。甲殻型、岩盤擬態種。中層には本来生息しません。装甲は鉱物質で、通常の中層装備では——」
「傷がつかない」
刃が先頭で言った。壁にもたれていた背中が離れ、右手が柄にかかっている。
「やる」
「待って」
凛が刃の横に並んだ。
「隊列は崩さない。つむぎ、あかり、セリアは後方。
イエヤス——」
「わかってる」
イエヤスが黒ツルハシの柄を握り直し、岩盤に先端を当てた。目を閉じる。ツルハシを通じて、特異体の内部構造を聴く
三秒。
「殻の中に核がある。左寄り、深さ……拳二つ分くらい」
「左、拳二つ」
刃が復唱した。それだけで十分だった。
凛が通信機のスイッチを入れた。
「彩さん。戦闘に入ります」
地上から彩の声が返った。
「了解。記録は全部残して」
次の瞬間、刃が消えた。
暗闇の中を、足音もなく駆ける。岩盤に擬態していた特異体が反応し、表面の鉱物質が隆起する。遅い。
刃の抜刀から斬撃まで、〇・八秒。
刃の刀が装甲に叩きつけられた。火花が散り、亀裂が走る。だが——貫通しない。弾き返された。
「硬い」
刃が着地し、半歩退いた。刀の切っ先を確認する。
刃こぼれはしていないが、鉱物質の粉が付着していた。
凛が動いた。
刃が作った亀裂に剣先を差し込み、体重を乗せてこじ開ける。筋力ではなく、角度と体勢で力を伝える技術。亀裂が広がり、鉱物質の装甲がめくれ上がった。二人の剣が交差した瞬間——殻の内側、紫色に脈打つ核が露出した。
「見えた——」
イエヤスが黒ツルハシを振り上げた。深層木の柄がしなり、深層鋼の刃が紫の核に叩きつけられる。
共鳴音が、区画全体に響いた。
低く、重く、長い音。イエヤスの打撃が核を震わせ、核が装甲を震わせ、装甲が岩盤を震わせた。
特異体の鉱物質が内側から砕け、破片が飛び散った。
崩壊。
粉塵が舞う中、つむぎがタブレットを確認した。
「撃破確認。戦闘時間、四分十二秒」
あかりがカメラを下ろさずに言った。
「……今の、配信したかった」
セリアが前方の暗闇に目を向けた。鉱石視覚が、
奥の光を捉えている。
「もう一体、動き始めました」
*
二体目は、一体目とは違った。
岩盤に擬態するのではなく、壁を這うように移動する。
六本の脚が岩壁に食い込み、天井と壁を交互に渡りながら接近してくる。一体目より二回りは大きい。
そして——速い。
最初の攻撃は振動だった。
特異体が壁に脚を叩きつけ、岩盤を通じて衝撃波を放った。足元から突き上げるような揺れがチーム全体を襲い、つむぎが体勢を崩した。手からタブレットが弾き飛ばされ、岩の上を滑って暗闇に消えた。
「——バックアップは腰のポーチに」
つむぎは転びながら、既にポーチから予備端末を引き抜いていた。起動まで三秒。その三秒の間に、二発目の振動が来た。
セリアが弓を引いた。矢が暗闇を切り裂き、特異体の脚の一本に命中する。装甲に弾かれたが、衝撃で移動ルートがずれた。
三発目の矢。四発目。
当たっても貫通しない。だが特異体の進路を壁際に限定していく。
イエヤスが核の位置を探ろうとしていた。だが振動攻撃の低周波と、核が発する固有の振動が混ざり合って、聴き分けられない。
一体目のときは周囲が静かだった。今は特異体自身が岩盤全体を鳴らしている。ノイズの中から信号を拾うのは——
「イエヤス」
凛の声。短く、鋭く。
「音に集中して。壁は私と刃で持つ」
イエヤスが頷いた。黒ツルハシの柄を両手で握り、先端を足元の岩盤に当てた。目を閉じる。
凛と刃が前に出た。特異体が天井から降りてきた。
六本の脚が岩を砕きながら着地し、凛に向かって突進する。凛が剣で脚の一撃を受け流し、半歩ずれて懐に入る。刃が反対側から斬りつけ、注意を分散させた。
二人の動きに、言葉はなかった。
その間に、イエヤスはツルハシを通じて岩盤の振動を聴いていた。特異体の振動攻撃のパターン、脚が岩を叩く周期、凛と刃の足音。全部がノイズ。その奥に——
ひとつだけ、一定のリズムで脈打つ音がある。
「核は背中側。装甲が一番薄いのは——右の第三関節」
目を開けた。刃が既に動いていた。壁を蹴り、天井に手をかけ、特異体の背面に回る。人間離れした身体能力ではなく、最短距離を見切る空間把握。
凛が正面から剣で突きを放ち、特異体の注意を正面に釘付けにした。
刃の斬撃が、右の第三関節を断った。装甲の継ぎ目がずれ、内部が露出する。
「今!」
凛の声。
イエヤスがツルハシを肩に担いだまま駆け出した。
露出した隙間は広くない。狙いを定める時間は——
〇・三秒もない。
振りかぶった瞬間、特異体が震えた。最後の振動攻撃。
至近距離から放たれた衝撃波がイエヤスの全身を叩く。
腕が一瞬止まる。ツルハシが核に届く前の、〇・三秒の空白。
刃の刀が、横から割り込んだ。振動波を放つ器官を、根元から切断した。同時に凛の剣が反対側から突き立てられ、特異体の体勢を固定した。
〇・三秒が埋まった。
黒ツルハシが、核を貫いた。
共鳴。一体目より深く、長い音。紫の光が膨れ上がり、一瞬で消えた。特異体が内側から崩壊し、鉱物質の破片が雨のように降り注いだ。
沈黙。
粉塵の中で、三人が立っていた。イエヤスがツルハシを肩に戻し、凛が剣を下ろし、刃が刀を鞘に納めた。
つむぎの声が、静寂を破った。
「撃破。戦闘時間、十一分三十八秒」
予備端末の画面を確認しながら、続ける。
「……全員の心拍数が平常値の一・七倍です。
休憩を推奨します」
「つむぎちゃん、今それ言う?」
あかりが岩の縁に座り込みながら言った。カメラだけは、最後まで回っていた。
*
崩壊した特異体の残骸が散らばる広間で、チームは壁際に寄って座った。
イエヤスが岩に背を預け、天井を見上げている。黒ツルハシを膝の上に横たえたまま、呟いた。
「親父はこれを一人でやったのか」
刃が少し離れた壁にもたれていた。刀を膝に立てかけ、目を閉じている。
「……化け物だな」
「どっちが」
「両方」
凛が二人を見て小さく息をついた。休憩中にまでこの距離感。兄弟なのか他人なのか、未だによくわからない関係だった。
つむぎが予備端末でデータを整理していた。吹き飛ばされたタブレットは回収済みで、画面にひびが入っているが動作はしている。
「戦闘データをまとめます。一体目、甲殻型擬態種。打撃による核破砕で撃破。二体目、移動型振動種。関節部切断と核破砕の連携で撃破。どちらも深層特異体の
データベースとの一致率は八十七パーセント以上。
中層における自然発生の確率は——」
「ゼロでしょ」
あかりがカメラの電池を交換しながら言った。
「誰かが置いたんだよ。あたしでもわかる」
つむぎが頷いた。
つむぎが通信機を入れた。
「彩さん。二体撃破。全員無事です」
地上から、一拍の間があった。
「——よくやった。データは全部残してる?」
「はい」
「続けて。私はここで見てる」
通信が切れた。
管理局地上棟。彩はモニターの前で、六つの光点が再び動き出すのを確認した。両手を膝の上で組んでいた。
震えを止めるために。
深層特異体二体——霧島が配置した「壁」。
あの男のことだ、致死域は避けている。避けているはずだ。だが「死なない」と「無事でいられる」はまったく別のことだった。
セリアが弓の弦を確認しながら、静かに言った。
「わたしの矢は、装甲を貫けませんでした」
「でも動きは止めてたっすよ」とイエヤス。
「止めただけです。——次はもっと深くまで届く弓が
必要です」
「“今”に集中しろ。次がないかもしれない」
刃の冷静はこの状況では頼もしかった。
背中を押されるようにイエヤスが立ち上がった。
「いや、次もある。絶対に」
試験開始から二十時間。三十時間。四十時間。
二体の特異体を超えた後、第九区画に新たな脅威は
現れなかった。霧島が用意した「壁」は、あの二体
だけだったのかもしれない。
チームは黙々と進んだ。イエヤスが壁を叩き、セリアが奥を視て、つむぎが地図を更新する。
戦闘を経て一段階上がったリズムは、疲労の中でもぶれなかった。イエヤスの打撃音に対するセリアの反応が速くなり、つむぎのデータ変換にかかる時間が短縮されている。噛み合う、という言葉がそのまま当てはまるリズムだった。
だが、身体は正直だった。
三十時間を超えた頃から、イエヤスが壁を叩く音の間隔に〇・一秒にも満たないズレが混じり始めた。
本人は気づいていない。つむぎの端末だけが
それを記録していた。
あかりの足取りに揺れが出始めた。カメラを持つ右手は安定しているが、左手で壁を触って歩行を補正する頻度が増えている。
四十時間を超えると、つむぎが歩きながら端末を打つ指の速度が目に見えて落ちた。入力ミスの修正回数が三十時間台の倍になっている。唇を噛んでいた。
イエヤスが黙って二人の機材を黒ツルハシと一緒に肩に担いだ。凛がつむぎの腕を引いて歩く場面が増えた。
あかりだけは、ふらつきながらもカメラを止めなかった。
刃は先頭で一度も足を止めなかった。ペースも落とさなかった。ただ、障害物を排除する動きがわずかに丁寧になっていた。後続が躓かないように。
凛は中衛から全体の距離感を保ち続けた。
セリアの鉱石視覚に変化はなかった。エルフの体力は人間とは別の次元にある。だがセリアは自分の体力ではなく、周囲の消耗を見ていた。翡翠の瞳がイエヤスの背中を追う時間が長くなっていた。
四十五時間目。
つむぎが通信機を入れた。
「彩さん、中間報告です。現在、全行程の約六割を消化。全員歩行可能。ただし——」
つむぎが一瞬、言葉を選んだ。
「——疲労の蓄積が、想定を上回っています」
通信機の向こうで、彩が息を吸う音がした。
「数字で」
「イエヤスの聴覚精度が推定で一割低下。あかりの歩行バランスに補正動作が増加。私の入力速度が三十時間台の七割まで落ちています」
「……刃と凛は」
「二人は変化なし。セリアも」
「そう。——予定通りのペースなの?」
「はい。ルートCの予定線上です」
「なら、続けて。判断は現場に任せる」
「了解です」
あかりが通信のやり取りを聞きながら、カメラを凛に向けた。
「ねえ、これ公開したら同接百万いくよ」
「却下」
凛が即答した。
通信機の向こうから、彩の声が被せてきた。
「却下」
「二人して……」
「ケチー」
*
五十時間を超えた頃、前方の空気が唐突に変わった。
湿度が下がり、岩壁の結露が消え——代わりに、肌を焦がすような熱気と、濃密すぎる魔力の圧が通路を塞いだ。
セリアが鋭く叫んだ。
「前方、空間が歪んでいます。
今までとは比較にならない……」
イエヤスの耳にも、それは嫌でも届いていた。
鼓膜ではなく、足の裏から骨を伝って直接届く重く濁った低周波。中層の岩盤が伝える振動とは根本的に異なる音。
暗闇の奥から、通路の天井を削りながら現れたのは、岩壁が巨人になったような特異体だった。灰白色の装甲に罅一つなく、鈍い光沢を放っている。前の二体とは桁が違う。
「……あの眼鏡のおっさん、良い性格してるなぁ」
イエヤスがツルハシを構えた。このタイムアタックのために、最初から重りは外してある。刃も同じだ。
五十時間ずっと本気で歩き続けた身体で、三体目と向き合っている。
残り、二十二時間。
つむぎが通信機を入れた。
「彩さん、三体目です。深層特異体——前の二体とは別格の個体が出現しました」
地上から返ってきた彩の声は、低かった。
「……三体目。データは」
「装甲密度、目視で前二体の数倍以上。詳細は交戦しないと——」
「わかった。記録を最優先。撤退判断は凛に委任する」
「了解」
通信が切れた。
管理局地上棟。彩はモニターの光点を見つめたまま、椅子の肘掛けを握った。三体。霧島の試験環境調整の権限で配置できる特異体は、書類上は二体までのはずだった。
三体目は——想定外か、それとも。
彩の目が、机の上に置かれた設置法の条文に向かった。
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