第69話 中層第九区画
試験開始六時間前。管理局地上棟、第三会議室。
長机の上にタブレットが三台、紙の地図が二枚、霧島の四十七ページの報告書が一部。つむぎが画面を全員に向けた。
「ルートは三案あります」
スクリーンに中層第九区画の断面図が映し出された。赤、青、緑の三本の線が、入口から出口まで異なる経路を描いている。
「ルートA。霧島課長が実際に踏破した正規ルートです。安全性は最も高いですが、推定所要時間は八十時間以上。制限の七十二時間を超えます」
「それ意味なくない?」とあかり。
「比較基準として必要です」
つむぎが画面を切り替えた。
「ルートB。地形データから最短距離を割り出した直進ルート。推定五十二時間。ただし、霧島課長の報告書に記載のない未検証区間が全体の三割を占めます」
「三割が未知ってことっすか」とイエヤス。
「はい。何があるかわからない区間を、データなしで突破する必要があります」
三本目の線——緑が、赤と青の間を縫うように走っている。
「ルートC。AとBの折衷です。推定六十五時間。安定性と速度のバランスを取ったルートで、未検証区間は全体の一割以下に抑えられます」
つむぎがタブレットを置いた。
「私の推奨はCです。ただし——現場でイエヤスの聴覚とセリアの鉱石視覚がリアルタイムで地形を補正すれば、Bに近い速度をCの安全性で出せる可能性があります」
凛が断面図を見つめていた。
「つむぎ。Cの推定六十五時間は、戦闘や休憩を含んだ数字?」
「含んでいません。移動のみの理論値です。休憩と想定外の対応を加算すると、余裕は三時間から五時間程度になります」
「きついわね」
「きついです」
イエヤスが腕を組んだ。
「でも、やれるっしょ」
「根拠は」と凛。
「俺の耳とセリアの目があるから」
凛が小さく息を吐いた。根拠としては薄い。だがこの数ヶ月、その耳と目が外したことがないのも事実だった。
「……いいでしょう。Cで行きましょう」
彩が会議室の隅から声を出した。腕を組み、壁に背を預けている。目の下の隈はまだ消えていない。
「私は地上に残ります。通信と法的バックアップ、撤退判断の最終権限は私が保持。何かあったら——」
「何もないっすよ」とイエヤス。
「——何かあったら、私が判断します。いい?」
「……はい」
あかりがカメラのレンズを拭きながら言った。
「あたしは記録員で同行ね。配信はしない。管理局保存用の非公開記録だけ。でもカメラワークは手を抜かないから」
「配信したいんでしょ」と凛。
「めちゃくちゃしたい。同接十万いくよこれ」
「却下」と彩。
「知ってた」
刃は会議室の壁にもたれたまま、報告書の地図を一枚だけ手に取り、三秒ほど見て、戻した。それだけだった。
セリアが静かに立ち上がった。
「準備は、できています」
銀色の髪が蛍光灯の下で白く光った。管理局支給の弓が背中にある。エルフの弓ではないが、二百年の手が馴染ませた弓だった。
彩が全員を見回した。
「特別探索チーム認定実地試験。中層第九区画、制限時間七十二時間。——六時間後に開始。各自、準備を」
*
午前零時。中層第九区画、入口。
管理局が設置した鉄製のゲートの向こうに、暗い横穴が続いている。中層最深部に近い。空気が重い。湿度が高く、岩壁に結露が光っている。
隊列は事前の取り決め通り。刃が先頭、凛が中衛、イエヤスが中核、セリアが後方索敵、つむぎがデータ処理、あかりが最後尾で記録。六人が縦一列で、ゲートをくぐった。
彩の声が通信機から聞こえた。
「試験開始。タイマー、スタート」
刃が歩き出した。足音はほとんどしない。暗闇の中を、壁との距離を正確に保ちながら進んでいく。凛がその二歩後ろにつく。
イエヤスが黒ツルハシの柄で壁を軽く叩いた。
コン、と短い音。反響が岩盤の中を走り、数秒後に返ってくる。
「……右の壁、厚さ四メートルくらい。奥に空洞がある。でかい」
セリアが目を細めた。
「見えます。右壁の奥に空間——鉱脈の痕跡があります。青みがかった脈が、斜め下に走っています」
つむぎがタブレットに入力した。
「方位〇六二、壁厚推定四メートル、空洞あり。鉱脈は斜め下方向。——霧島課長の報告書十四ページの記述と一致します。二十二年経っても地形の基本構造は変わっていませんね」
三人の連携が、歩きながら地図を作っていく。霧島が二十三ページかけた地形データを、リアルタイムで再現し、更新していく。
あかりが最後尾でカメラを回していた。イエヤスのツルハシ捌きとセリアの視線の先を同じ画角に収めるために、足場の悪い岩の縁まで踏み込んでレンズを構えている。配信で鍛えた体幹と注意力が、ここでは記録員としての精度になっていた。
最初の一時間で、ルートCの第一区間を予定より八分早く通過した。
三時間が経った。ルートCの予定線をやや上回るペース。イエヤスの聴覚とセリアの視覚が地形の微細な変化を拾い、つむぎがリアルタイムで最適経路を修正していく。刃は先頭で一度も立ち止まらず、凛は中衛から全体の距離感を保っている。
六時間経過。チームは第九区画の中間地点に差しかかっていた。
凛が歩きながら言った。
「このペースなら六十時間を切れるかもしれない」
イエヤスが足を止めた。
「……凛さん、ちょっと静かにしてもらっていいすか」
「?」
「なんか変な音がする」
全員が止まった。暗闇の中で、六人の呼吸だけが聞こえる。
イエヤスが黒ツルハシの先端を岩盤に当て、目を閉じた。ツルハシを通じて、岩の奥の音を聴く。
鼓膜ではなく、足の裏から骨を伝って直接届いてくる振動。重くて、濁っている。中層で聴いたどの音とも違った。
数秒の沈黙。
「……この音、中層じゃねえ」
声が低くなっていた。
「深層のやつだ」
つむぎの指がタブレットの上を走った。
「周波数帯を解析します。——中層生態系のデータベースと照合中。不一致。深層特異体のデータベースに切り替え……一致率八十七パーセント」
刃が足を止めていた。右手が壁に触れている。指先で振動を感じ取るように、五秒ほど静止した。
「二体」
凛が刃の横に並んだ。
「距離は」
「近い」
セリアが前方の暗闇に目を向けた。鉱石視覚——鉱脈だけでなく、魔力を帯びた存在の輪郭を捉える目。
「……前方、およそ二百歩。岩の裏に、二つ。動いています」
凛が剣の柄に手をかけた。
「全員、隊列を維持。つむぎ、地上に報告」
つむぎが通信機のスイッチを入れた。
「彩さん。深層特異体と推定される存在を二体確認しました。試験区画内です」
通信機の向こうで、一瞬の間があった。彩の声が返ってきたとき、明らかにトーンが変わっていた。
「——了解。記録を残して。全部」
通信が切れた。
管理局地上棟。彩は通信機を置き、モニターに映る区画の平面図を見つめた。チームの位置を示す六つの光点が、第九区画の中間地点で停止している。
深層特異体。中層の試験区画に、深層の魔物がいる。自然発生ではない。中層と深層の生態系は境界で隔てられている。つまり——誰かが意図的に配置した。
「……やはり仕掛けてきたか、霧島」
彩は手帳を開かなかった。代わりにモニターの光点を見つめ続けた。六つの点が動き出すまで、目を離すつもりはなかった。
中層第九区画、六時間経過。残り六十六時間。
暗い岩壁の奥から、紫がかった光が二つ、揺れている。
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