第68話 彩の切り札
午前三時十七分。管理局地上棟、藤村彩の執務室。
デスクの上に空き缶が八本並んでいる。ブラック五本、砂糖入り三本。砂糖入りが増えたのは、イエヤスが「ブラックばっかだと胃に悪いって電車のテレビでいってた」と缶を三本置いていったからだ。余計なお世話だと思いながら、全部飲んだ。
彩はノートパソコンの画面を睨んでいた。法規アーカイブ。ダンジョン庁設置法の施行細則、附則、通達、運用指針、改正履歴。この三日間で読んだ条文の数は、もう数えていない。
第十七条。深層事案における特別徴用。霧島征一郎が振りかざしてきた法的根拠。条文そのものに穴はない。書いた人間が優秀だったのだ。——おそらく、霧島本人が草案を書いている。
だが。
彩の指が、画面上のある一行で止まった。
「……あった」
声が掠れていた。三日間まともに寝ていない喉から出た音は、自分でも聞き取りにくかった。
画面に表示されていたのは、法規アーカイブの最下層。ほとんどの職員がスクロールすらしない領域に埋もれていた一つの条文。
『特別探索チーム認定制度に関する施行細則(附則第三号)』
十五年前に一度だけ適用され、以降一度も使われていない。事実上の死文。
彩は条文を三回読んだ。一回目で構造を掴み、二回目で適用条件を確認し、三回目で霧島の条文との関係を整理した。
核心はこうだ。——特別探索チーム認定を受けた組織は、ダンジョン庁設置法第十七条に基づく特別徴用の対象から除外される。つまり、認定さえ取れば、霧島はイエヤスに手を出せなくなる。
ただし、認定には実地試験が必要であり、その内容は申請を受理した管轄機関の長が定める。管轄機関の長。深層特務課の課長。——霧島征一郎。
彩は空き缶の列を見つめた。
「……試験内容は、あの男が決める」
最悪のカードと最善のカードが、同じ手の中にある。法的に戦える土俵がある。だが、その土俵のルールを決めるのは相手。
それでも。土俵がないよりはいい。
彩は九本目の缶に手を伸ばし、——やめた。代わりに携帯端末を取った。
「……全員、明日の十時に第一会議室。寝てる人は起こして。以上」
送信。既読がつくまでの間に、画面をもう一度見た。十五年間、誰にも使われなかった条文。
「——掘り当てたわよ」
空き缶に向かって、小さく呟いた。
*
午前十時。管理局第一会議室。
長机の端に霧島征一郎が座っている。銀縁眼鏡、皺のないスーツ、背筋は定規で測ったように真っ直ぐ。
対面に彩。目の下に濃い隈がある。ファイルを持つ指先が、かすかに震えていた。カフェイン八缶分の代償だ。だが霧島を見る目は揺れていなかった。
その後ろに、チーム全員が並んでいる。
彩がファイルを差し出した。
「特別探索チーム認定申請書。附則第三号に基づく正式申請です」
霧島がファイルを受け取り、開いた。一枚ずつ、めくる。読む速度は一定で、感情の読めない目が活字を追っていく。
最後のページで、指が止まった。
「……附則第三号」
「はい」
「十五年前の適用例を、よく見つけましたね」
「法規アーカイブは公開資料です。読む根気があれば、誰でも辿り着けます」
「三日で、ですか」
「管理官の仕事は書類を読むことですから」
霧島がファイルを閉じた。三秒の沈黙。
それから、霧島は胸ポケットから一枚の紙を取り出した。まるで最初から用意していたかのように。
「認定制度の有効性は認めます。——実地試験の条件を提示します」
彩の目が、わずかに細くなった。用意していた。こちらがこの条文を見つけることを、最初から想定していた。
霧島が紙を机の上に置いた。
「中層第九区画。七十二時間以内の完全踏破。チーム全員で入り、全員で出ること」
会議室が静まった。凛の呼吸が一瞬止まり、つむぎのタブレットを持つ手が強張り、あかりが唇を閉じた。刃だけが壁にもたれたまま動かなかった。
「中層第九区画」
彩が繰り返した。
「課長ご自身が三ヶ月かけて踏破した区画ですね」
「ええ。ですから七十二時間は十分な譲歩のつもりです」
霧島の声に皮肉はなかった。本気でそう思っている声だった。
「付け加えるなら——神代烈火は同区画を二日で踏破しています。三日というのは、烈火の記録と私の記録の間を取った数字です」
イエヤスが口を開きかけた。彩が先に言った。
「受理します」
イエヤスが彩を見た。彩は振り向かなかった。真っ直ぐ霧島を見たまま、続けた。
「ただし、試験中の安全管理責任は管轄機関の長——つまり課長にあります。事前に区画の現状データの開示を求めます」
「当然です。私の踏破報告書は公開資料ですが、改めて最新版をお渡しします」
霧島が鞄から、もう一つのファイルを出した。四十七ページ。やはり、最初から全て用意していた。
霧島が立ち上がり、会議室を出ていく。足音が廊下に消えるまで、誰も口を開かなかった。
*
霧島が完全にいなくなったのを確認して、あかりが息を吐いた。
「——あの人、全部読んでたってこと?」
「読んでいたというより、想定していたんでしょうね」
つむぎがタブレットを操作しながら答えた。
「附則第三号を見つける可能性も、実地試験に持ち込まれる可能性も。だから試験条件と報告書を事前に準備していた」
「じゃあ何、最初から茶番?」
「茶番ではないよ」
彩が椅子に座り直した。
「彼は本気で試している。こちらが法的に戦えるかどうかも含めて」
凛が腕を組んだ。
「中層第九区画。三日。——不可能ではないけど、簡単でもない」
「不可能じゃないっすよ」
イエヤスが立ったまま言った。
「七十二時間で中層抜けりゃいいんすよね」
「そう。ただし——」
つむぎが四十七ページの報告書をタブレットに表示した。
「第九区画は中層最難関です。霧島課長の踏破報告書は四十七ページ。地形データだけで二十三ページ。さらに魔物の生態記録が八ページ、鉱脈分布が六ページ、環境リスク評価が十ページ」
「それ、全部読むんすか」
「読みます。というか、昨夜のうちに公開版はダウンロード済みです。今朝届いた最新版と差分を照合すれば、二十二年間で何が変わったかわかります」
あかりがつむぎを見た。
「つむぎちゃん、いつ寝てるの」
「昨夜は四時間寝ました。彩さんよりは寝ています」
彩が何か言いかけて、やめた。
刃が壁から声を出した。
「何か仕掛けられているだろうな」
短い問い。だが全員が、その意味を理解した。試験区画に何か仕掛けてくるのではないか。
彩が一瞬黙った。
「……わからない。霧島課長の権限範囲は広い。深層特務課には試験環境の調整権がある」
「調整って、何でもありってこと?」
あかりの声が低くなっていた。
「法的には、受験者の安全を確保した上での環境設定が認められている。——何をもって『安全を確保した』と判断するかは、管轄機関の長の裁量です」
「つまり霧島の裁量」
「そう」
沈黙が落ちた。セリアが静かに口を開いた。
「わたしの目で、先を見ます」
全員がセリアを見た。
「二百年、森を歩いてきました。見えないものはあります。でも——見えるものは、見逃しません」
イエヤスが頷いた。
「頼むっす、セリア」
彩が手帳を開いた。
「では、作戦会議に入ります。つむぎ、報告書の分析を最優先。ルート候補を三案出して。凛、装備の確認と隊列の編成。あかり、記録機材の準備。刃——」
壁を見た。刃は既に会議室を出ていた。廊下で金属の留め具を締める硬い音が一つ鳴り、足音が遠ざかっていく。
「……まぁ、あの子はあの子で準備するでしょう」
彩はペンを握り直した。
「七十二時間。全員で入って、全員で出る。——それだけよ」
つむぎのタブレットに、四十七ページのPDFが展開されていく。チームの三日間が、始まった。
*
同時刻。管理局一階、自動販売機の前。
イエヤスが百三十円を入れて、ブラックコーヒーのボタンを押した。缶を拾い上げ、プルタブを開ける。
「——七十二時間か」
独り言。黒ツルハシが壁に立てかけてある。深層木の柄に触れると、かすかに振動しているような気がした。気のせいかもしれない。いつもの、気のせいかもしれない。
イエヤスはコーヒーを一口飲んで、ツルハシの柄を握った。
「——親父は二日だったんだよな」
答える人間はいない。自販機のモーター音だけが廊下に響いていた。
缶を飲み干し、ゴミ箱に捨てた。ツルハシを肩に担ぐ。
「三日ありゃ、充分っしょ」
誰にも聞こえない声で言って、訓練場の方へ歩き出した。
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