第67話 ②「霧島の手 後編」
同日、午後七時。
管理局から徒歩五分の小料理屋。カウンター八席だけの小さな店。壁には手書きのメニューが貼られ、七輪で焼かれた干物の匂いが漂っている。
彩がカウンターの端に座った時、隣の席にはすでに霧島征一郎がいた。
「早いですね」
「早いのはそちらでしょう。——何を飲みます?」
「烏龍茶で」
霧島が冷酒を注文し、彩が烏龍茶を頼む。干物の盛り合わせが運ばれてきた。
「今日は、あの場の話の続きではなく——別件です」
霧島が箸を取りながら、穏やかに切り出した。彩は箸に手をつけず、烏龍茶のグラスを見つめている。
「藤村さん。あなたの管理能力は惜しい。二級採掘者のチームの面倒を見るには、あなたの能力は過分だ。特務課の副課長として来ませんか。報酬も権限も、今とは比較にならない」
カウンターの向こうで、店主が七輪の炭を返す音がした。
「それ、褒めてるつもりですか」
「事実を述べています」
彩は烏龍茶を一口飲んだ。氷がカランと鳴る。
褒め言葉だ。事実でもある。管理官としての彩の能力は、桜谷管理局の規模に収まるものではない。霧島はそれを見抜いている。
だが。
彩は箸を置いた。まだ一口も食べていない。霧島の顔をまっすぐに見た。
「あの子たちは二級かもしれない。始末書の常連で、規則違反の前科が山ほどある。でも——核晶を直したのはあの子たちです。あなたの特務課じゃない」
霧島は表情を変えなかった。
「私は、自分が必要だと思う場所にいます。それだけです」
声は静かだった。
だが、声の底に——核晶修復の前夜、屋上で一人きりで手帳に書いた『いかなる個人的感情にも左右されず』の一行と同じ硬さがあった。あの時に握りしめた覚悟が、今ここで、もう一度試されている。
霧島は三秒ほど黙った。それから冷酒を一口飲み、箸で干物をつまんだ。
「……そうですか」
感情の色がない声だった。失望でも、怒りでも、落胆でもない。ただ、結果を確認した声。
「気が変わったらいつでもどうぞ。席は空けておきます」
霧島が会計を済ませ、立ち上がった。コートを羽織り、カウンターの端の彩に軽く会釈する。
「干物、冷めますよ。食べていってください。——おいしい店でしょう」
暖簾をくぐり、店を出ていった。
彩は一人残った。烏龍茶の氷が溶けて、グラスの表面に水滴が垂れている。手つかずの干物の盛り合わせから、湯気がゆっくりと消えていく。
彩は箸を取り、干物を一切れ口に運んだ。
——おいしかった。悔しいくらいに。
スマートフォンが震えた。画面を見る。イエヤスからだった。
『彩さん、メシ食いました? コンビニでおにぎり買おうとしたら十円足りなくて、ユアさんにまたツケになりました。すんません』
彩はスマートフォンを裏返しに置き、天井を見上げた。
「……なんで、こういうタイミングで連絡してくるのよ」
声が、ほんの少しだけ掠れていた。
干物をもう一切れ食べた。目の奥が熱い。冷たい烏龍茶で、無理やり流し込んだ。
◇◇◇
同時刻。小料理屋の向かい、路地の電柱の影。
氷室刃は、壁に背を預けて立っていた。
暖簾から霧島が出てくるのを確認した。革靴の音が遠ざかっていく。等間隔。乱れない。あの男はどんな場面でも歩幅を崩さない。
刃はポケットの紫の魔鉱石に手を触れた。暗闘に備えて持ってきたものだ。
使う必要はなかった。霧島は暴力を使う男ではない。法と言葉だけで戦場を作る男だ。殴って止められるなら、どれだけ楽か。
五分後、彩が暖簾をくぐって出てきた。顔は見えない。うつむいている。
刃は声をかけなかった。かける理由がない。護衛任務の対象は彩ではなくイエヤスだ。
——では、なぜここにいる。
自分でも分からなかった。
あのスーツの男と彩が二人きりで食事をすると聞いた時、ポケットの魔鉱石を無意識に握りしめ、気づけばここに立っていた。それだけだ。
彩の足音が遠ざかる。管理局の方角へ。
刃は電柱の影から出て、反対方向に歩き始めた。寮への最短ルート。
歩幅は正確に揃っている。霧島と同じように。だが、その速度は少しだけ速かった。夜風が冷たかったが、ポケットの魔鉱石が体温でほんの少しだけ温まっていた。
◇◇◇
翌朝。午前六時十二分。サンクスマート桜谷駅前店。
「鮭おにぎり四つ。——あと、昨日のツケ、来月まとめて払います」
「それ先月も聞いた」
瀬田ユアがレジを打ちながら、いつもの無表情で返す。
「……なぁ、ユアさん」
「なに」
「すげーいい条件の仕事があるんだけど、今のチームから離れなきゃいけないって言われたら、どうする?」
ユアの手が、一瞬だけ止まった。
レジのバーコードリーダーが、ピッと小さく鳴った。
「あたしに聞いてどうするの。あんたのチームのこと、あたしは何も知らないし」
「知らないから聞いてる。チームの中の奴に聞くと、みんな困った顔するんだ」
ユアはおにぎりを袋に入れながら、少し考えた。
「……あんたさ、毎朝ここに来るじゃん」
「うん」
「寮からは遠いのに、わざわざ二十分歩いて来る」
「ユアさんがいるから」
「——そこじゃなくて」
ユアがカウンターに肘をつき、イエヤスを見た。ギャルメイクの奥の、妙に真剣な目だった。
「あんたが毎朝ここに来るのは、条件がいいからじゃないでしょ。近くにもっと安いコンビニあるし、おにぎりの品揃えだってうちより多い店あるし」
「……」
「条件がいい場所と、自分がいたい場所って、違うんじゃないの」
イエヤスは数秒、黙った。
ユアの言葉が、頭の中で鳴っている。条件がいい場所と、いたい場所。
「……ユアさん、たまにすげーいいこと言うよな」
「言ってない。常識だよ、そんなの。——五百二十円ね。あ、十円足りないのは分かってるから、何も言わなくていい」
イエヤスが笑った。いつもの、屈託のない笑顔だった。
「ありがとな。考えてみるわ」
「考えなくても、もう答え出てるでしょ」
自動ドアが閉まった。
ユアは付箋に『イエヤス −10円(7回目)』と書き足し、ペンを置いた。
「……条件がいい場所より、いたい場所か」
自分で言っておいて、自分の胸に刺さっている。
高校を辞めて、一人で夜勤をして、蛍光灯の下でレジを打ち続ける毎日。条件がいいとは、到底言えない。
でも——あの馬鹿が毎朝来る。それだけで、夜勤の長い夜が少しだけ短くなる。
ユアはカウンターに突っ伏した。
「……あたしも、ここにいたいから、いるんだけどね」
有線放送のJ-POPが、静かに次の曲に変わった。
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