第67話 ①「霧島の手 前編」
昨夜の対策会議は、重苦しい空気に包まれたまま終わった。
チームごと国に確保される危険性が浮上したものの、設置法という絶対的な大義名分を盾にする霧島に対し、地方の管理局が打てる即効性のある対抗策は出なかった。彩は「私が法的な抜け道を探す。それまで絶対に軽はずみな行動はしないこと」とだけ告げて解散させたが、状況の不利は誰の目にも明らかだった。
そして翌日。
霧島からの具体的なアクションは、彩たちの想定を上回る早さでやってきた。
提案は、管理局の第一応接室で行われた。
霧島征一郎が対面に座り、テーブルの上に薄いファイルを置いた。表紙には『深層特務課 特別出向契約書(案)』と印字されている。
イエヤスは椅子に浅く腰掛け、ファイルを見つめていた。隣に藤村彩が座っている。早瀬凛は壁際に立ち、腕を組んでいる。他のメンバーは別室で待機中だ。
「神代イエヤスさん。正式な提案をさせていただきます」
霧島の声は穏やかだった。いつもと同じ、石畳のように硬い穏やかさ。
「深層特務課への出向。期間は一年間。待遇は現在の三倍を保証します。最新の装備と予算は国が全額負担。そして——深層への優先アクセス権を付与します」
霧島が眼鏡の位置を直し、イエヤスの目をまっすぐに見た。
「あなたが掘りたい場所を、国が用意します。今の管理局の設備では、深層は踏破できない。君の力を最大限に活かすには、うちに来るべきだ」
応接室が静まった。
イエヤスは黙っていた。いつもなら即答する男だ。「モテるのか」と聞くか、「飯は出るのか」と聞くか、そのどちらかで三秒以内に結論を出す男。
その男が、珍しく黙り込んでいる。
——掘りたい場所を、掘れる。
正直に言えば、その言葉は刺さった。
深層の最奥。核晶の向こう。あの壁の奥から聞こえてきた、命の音。セリアが越えてきた境界の、さらに先。イエヤスの耳だけが拾う、まだ誰も触れたことのない鉱脈の気配。
そこに行ける。国の力で。最高の装備と、潤沢な予算と、深層への自由なアクセスを手にして。
イエヤスは口を開いた。
「……チームは?」
霧島の表情が微かに動いた。想定していた質問だろう。
「必要に応じて、個別に契約可能です。早瀬さん、氷室さん、雪平さん、伊吹さん——それぞれの専門性に応じた出向契約を結ぶこともできます。セリアさんの処遇についても、特務課として責任を持って対応します」
「指揮系統は?」
この質問をイエヤスが自ら発したことに、凛が目を見開いた。指揮系統。イエヤスの語彙にはなかったはずの言葉だ。
「特務課の管轄になります。現在の藤村管理官の指揮系統からは——離れます」
彩の指が、膝の上で強く握りしめられた。だが声は出さない。管理官としてここで口を挟むことは、イエヤスの判断を歪めることになるからだ。
「……考える時間、もらっていいっすか」
「もちろん。一週間お待ちします」
霧島がファイルを閉じ、立ち上がった。
「契約書の写しは置いていきます。ご検討ください。——藤村管理官、本日はお時間をいただきありがとうございました」
霧島が応接室を出ていった。廊下に響く革靴の音が、規則正しく遠ざかっていく。
残された応接室で、数秒間の沈黙が落ちた。
「……イエヤス。特務課に行けば、モテるかもね」
凛が沈黙を破った。わざと突き放すような、強がりの言葉だった。最新の装備で深層を掘る国家直属の探索者。名声も金も手に入る。
いつもなら「マジで!?」と食いつくはずの男が、黙った。
「……そうなのか。でも——」
歯切れが悪い。凛は胸の奥がチクリと痛むのを堪え、さらに煽った。
「なによ? モテたくないの?」
「いや……モテたいのはモテたいんだけどさ」
イエヤスは頭を掻きながら、まっすぐに凛を見た。
「なんか、お前といる方が楽しい気がして」
「——っ!」
凛の顔に、一瞬で朱が差した。心臓が跳ね上がり、用意していた皮肉が全部吹き飛んだ。
「……っ、ばか」
凛は壁から背を離し、逃げるようにドアに向かった。
「報告書の作業がある。先に戻るわ!」
ドアの開閉は静かだった。だが、足音は逃走と呼べるほど速かった。
イエヤスと彩だけが残った。
「……彩さん。俺、どうすりゃいいっすかね」
「私に聞かないで。あんたの人生は、あんたが決めなさい」
声は平静だった。管理官の声だった。
だが、書類を持つ手が——ほんの少しだけ、震えていた。
イエヤスはそれに気づかなかった。契約書の表紙を指先でなぞり、黙って考え込んでいた。
◇◇◇
その後。別室で待機していたメンバーの元へ。
イエヤスが第三研究室に顔を出すと、雪平つむぎ、伊吹あかり、セリアの三人が心配そうに待っていた。
あかりがカメラを膝に置いたまま、上目遣いで尋ねた。
「イエヤスくん……遠い所へ行っちゃうの?」
「待遇三倍で、深層も掘れるらしい」
あかりの肩が落ちる。
「そ、そっか……。配信、一緒に出られなくなるね。私、もっと可愛いサムネ作れるように頑張るから……だから、たまには出てくれないかな」
すがるような声だった。イエヤスは不思議そうに首を傾げた。
「あかりさんのサムネ? いつも可愛いじゃん。俺、あれ気に入ってんだけどな」
「えっ」
あかりの顔が、林檎のように赤く染まった。
つむぎが端末を抱きしめ、少しだけ早口で言った。
「と、特務課の設備は最新かもしれません。でも、あなたの打撃音の波形を一番正確に解析できるのは、わたしのシステムです。……他の研究者じゃ、ダメなんです」
普段の論理的なつむぎらしからぬ、感情の乗った必死な声だった。
「ああ。つむぎの作った地図が一番掘りやすいよ。つむぎの数字、俺好きだし」
「え、えっとそれはどういう意味でしょうか! 定義をしっかりしてください!」
つむぎがイエヤスに詰め寄るが、イエヤスは頭を掻いて困惑側だ。
「いや、むずかしーことはわかんね」
セリアがイエヤスの隣に寄り添い、その左腕の袖を両手できゅっと掴んだ。
「私は……ここがいい」
翡翠の瞳が、潤んで見上げた。
「そして―――あなたの隣がいいです。鮭おにぎりも、一緒に」
「まあ、鮭おにぎりは一人で食うより並んで食った方がうまいよな。セリアのは俺が開けてやんねーと海苔破れるし」
イエヤスは笑って、セリアの銀髪をぽんぽんと無造作に撫でた。セリアの長い耳が、嬉しそうにぴくぴくと動く。
「……ま、ちょっとコンビニ行ってくるわ」
イエヤスが研究室を出ていく。
残された三人の少女は、それぞれ真っ赤な顔で顔を見合わせ——そして深くため息をついた。
この男の天然のタラシ具合は、国が直轄で管理すべきかもしれない。
ドアを閉め、廊下を数歩歩いたところで、イエヤスは足を止めた。
角の壁に背を預けている黒い影があった。氷室刃だ。
「……聞いてたか」
「あんな声で騒げば、嫌でも聞こえる」
刃の声は平坦だった。研究室での騒ぎを指しているのだろうが、応接室での霧島の提案も当然把握しているはずだ。
イエヤスは刃の横に並び、窓の外を見た。夕暮れが迫っている。
「一番奥に行けるのは、やっぱ気になるよなぁ」
「行きたければ行け。あの男の船に乗るのが、一番速い」
刃はイエヤスの顔を見ない。ただ、冷たい目で廊下の先を見つめている。
「俺が行ったら、お前どうする」
イエヤスが問うと、刃の腕の組み方がほんの少しだけ硬くなった。
「俺の護衛任務は、この管理局でのものだ。国や、あの男のシステムに組み込まれる気はない」
「……そっか」
イエヤスが特務課に行くということは、ここで刃と道を違えることも意味していた。
「お前、親父の影を追うのはごめんだもんな」
「興味がないだけだ」
刃は短く切り捨てた。だが、ポケットの中の右手が微かに動くのを、イエヤスは見逃さなかった。
イエヤスは短く息を吐き、再び歩き出した。
「……行ってくるわ。鮭おにぎり」
すれ違いざま、刃が前を向いたまま低く言った。
「暗くなる。迷うなよ」
それは夜道のことか、それとも別のことか。イエヤスは振り返らずに右手を軽く上げ、そのまま歩き続けた。




