第66話 「セリアの弓」
霧島からの二度目の要求は、翌朝届いた。
藤村彩の端末に表示された公文書。件名は『異世界来訪者の能力評価に関する事前審査の実施について』。名目は行政手続き。身柄移管の前段階として、セリアの戦闘能力と知覚能力を国が査定するという内容だった。
彩は文面を三回読み、缶コーヒーを一口飲んだ。苦い。
拒否したい。だが「事前審査」という行政上の体裁を突かれると、管理局側に拒否の法的根拠がない。セリアは管理局の「保護対象」であって「所属メンバー」ではない——少なくとも書類上は。
逆に言えば、ここでセリアが『能力の底が知れない、制御不能な危険存在』だと見なされれば、霧島に「一地方の管理局では対応不能だ」という徴用の大義名分を完璧に与えてしまう。
彩は十五分考えた。
完璧に管理し、能力を数値化できていると証明して見せつけるしかない。さらに言えば——この国が公式に認める「査定データ」は、彩が密かに準備している『反撃の切り札』のために絶対に必要なものだった。
彩は返信を打った。
『査定の実施を了承します。ただし以下の条件を付します。一、査定場所は管理局施設内とする。二、管理局スタッフが立ち会う。三、査定項目は事前に書面で通知する。四、査定結果の利用目的を明記する』
条件闘争だ。全面拒否ができないなら、土俵を自分の側に寄せる。それが管理官の戦い方だ。
霧島からの返答は十分後。四条件すべて承認。あまりにもあっさりと。
——最初から、この条件で通すつもりだったのだ。
彩の背筋に、冷たいものが走った。霧島は管理局の施設で、管理局のスタッフの目の前で、セリアの能力を「正当に」評価する。そしてその評価結果を、徴用の追加根拠として使う。全てが、法の枠内で完結する。
「……本当に、嫌な男」
缶コーヒーを握り潰した。空き缶が六本目になった。
◇◇◇
査定当日。管理局地下二階、模擬訓練場。
広い空間に、的が三つ並んでいた。距離は三十メートル、五十メートル、七十メートル。壁面には計測センサーが埋め込まれ、打撃力・速度・精度がリアルタイムで記録される。
セリアは訓練場の中央に立っていた。管理局支給の白いTシャツとスウェット。フルフェイスヘルメットは外している——査定に顔の隠蔽は不適切だと霧島側が指摘したためだ。銀に近い金色の髪と長い耳が、蛍光灯の下で目立つ。
訓練場の見学エリアには、霧島と彼の部下が二名。彩がクリップボードを持って立ち、早瀬凛が壁際で腕を組んでいる。雪平つむぎはタブレット端末を三台並べ、伊吹あかりは「公式記録員」としてカメラを回している。
氷室刃は訓練場の入口に背を預け、腕を組んだまま動かない。
神代イエヤスはセリアのすぐ後ろに立っていた。セリアの左手がイエヤスの袖を掴んでいたが、査定開始の合図と同時に、セリアはその手を離した。
管理局が用意した弓をセリアに手渡す。エルフの弓とは形状が違う。セリアは数秒間、弓の重心と弦の張りを指先で確かめた。
「……軽い。弦も柔らかい。ですが、使えます」
セリアが構えた。左足を半歩前に出し、右手で弦を引く。背筋がまっすぐに伸び、全身から余計な力が抜ける。二百年間弓を引き続けた者の、呼吸するように自然な構え。
一射目。三十メートル。
矢が的の中心に吸い込まれた。音すらほとんどしない。
二射目。五十メートル。
同じ場所。一射目の矢の軸に、二本目の矢が触れるほどの精度。
三射目。七十メートル。
的の中心。三本の矢が、ほぼ一点に集中している。
霧島の部下が思わず声を漏らした。
「……七十メートルでこの集弾率は、人間の射手では不可能です」
霧島は黙って端末にメモを打ち込んでいた。表情は変わらない。
彩が一歩前に出た。
「弓術の査定は以上です。次に、管理局側から追加の査定項目を提案します」
霧島が顔を上げた。事前通知にない項目だ。眼鏡の奥で、かすかに目が細くなった。
「条件の三番——査定項目は事前に書面で通知する、でしたね」
「ええ。ですが、同条件には『管理局側からの追加提案を排除しない』とも書かれていないわ。査定の目的が『能力の正確な評価』であるならば、戦闘能力だけでなく知覚能力の評価も含めるべきよ。——異論はある?」
霧島は三秒ほど黙った。それから、穏やかに微笑んだ。
「ありません。どうぞ」
彩が振り返り、つむぎに目配せした。つむぎが頷き、立ち上がった。
◇◇◇
訓練場の壁面パネルが開き、内部に埋め込まれた岩盤サンプルが露出した。中層から採取された天然の岩盤。内部の鉱脈構造は肉眼では見えないが、管理局のデータベースには記録されている。
「セリアさん。この壁を見てください」
つむぎの声は落ち着いていた。眼鏡の奥の目に、研究者の冷徹な光が宿っている。
「壁の中に、鉱脈が走っているのが見えますか?」
セリアは壁に近づき、翡翠の瞳を細めた。数秒。
「……見えます。青い脈が、左上から右下に向かって走っています。深さは……私の身長の三十倍ほど。太さは、腕を広げたくらい」
つむぎの指が、タブレットの上を走った。
「方位〇七五。深度約四十八メートル。魔力含有鉱脈。推定幅約二メートル」
セリアの言葉を、つむぎがリアルタイムで数値に変換している。「身長の三十倍」をセリアの身長から逆算して深度に変換し、「腕を広げたくらい」をメートル単位に置き換える。
霧島の部下が端末のデータを確認し、顔色を変えた。
「……実測値との誤差、二パーセント以内です」
見学エリアの空気が変わった。
だが、つむぎは止まらなかった。
「イエヤスさん。同じ壁を叩いてください」
イエヤスが前に出た。黒ツルハシを構え、壁に三回、軽く打音を入れる。こん、こん、こん。目を閉じ、耳を澄ませる。
「……ここから右に二メートルの位置。奥に硬い層がある。その裏側に、もう一本鉱脈がある。さっきのより細い」
つむぎの指が再び走る。
「方位〇八三。深度五十二メートル付近。硬質岩盤層の背後に二次鉱脈。推定幅〇・八メートル」
霧島の部下がデータベースを参照する。二次鉱脈の記録が——あった。ただし、この鉱脈は地質調査の精密スキャンでしか検出できなかったもので、人間の感覚で捉えた記録は存在しない。
つむぎがタブレットを操作し、二つのデータを重ね合わせた画面を訓練場の大型モニターに投影した。
青い線がセリアの「視覚」データ。赤い線がイエヤスの「聴覚」データ。二つの線が岩盤の三次元モデルの上で交差し、重なり合い、一枚の地図を形成していく。
単独では断片だった情報が、二つ揃うことで立体的な鉱脈マップになる。深度、方位、幅、硬度、周囲の岩質——全てが、従来の計測機器を使わずに、人間とエルフの感覚だけで描き出されている。
つむぎがモニターの前に立ち、振り返った。
「イエヤスさんの耳が、音の地図を作ります。セリアさんの目が、光の地図を作ります。わたしは、その二枚を重ねて——『本当の地図』にします」
つむぎの声は静かだったが、確信に満ちていた。
「この三人の組み合わせでしか作れないデータです。機器では再現できません。個人を切り離しても意味がないんです」
訓練場が静まり返った。
霧島は、モニターに映る三次元マップを見つめていた。銀縁眼鏡の奥の目が——初めて、微かに動いた。
二十二年前。神代烈火が二日で中層を抜けた時、霧島は「分析不可能」と結論づけた。法則がない。再現性がゼロ。報告書にまとめられない。
だが今、目の前で起きていることは違う。再現性がある。データに変換できる。三人の感覚が噛み合った時にだけ成立する、チームとしてのシステム。
烈火は一人だった。だからこそ、分析できなかった。
この少年は——一人ではない。
「……なるほど」
霧島が呟いた。声のトーンが、ほんのわずかに変わっていた。穏やかさの下に、計算の歯車が回る音が混じっている。
「イエヤスさんやセリアさん個人ではなく、このチームの構造そのものが、深層攻略の鍵というわけですか」
彩の背筋が強張った。
霧島の結論は正しい。だが、その結論が導く次の一手は——個人の徴用ではなく、チーム全体の確保だ。
霧島が端末を閉じ、立ち上がった。
「本日の査定結果は、正式なレポートとして提出します。——藤村管理官。あなたのチームは、想像以上でした」
褒め言葉だった。だがその裏に、「だからこそ丸ごと手放さない」という冷徹な意志が透けている。
霧島が訓練場を出ていく。革靴の音が、静かな廊下に規則正しく響いた。
◇◇◇
残されたチームの間に、沈黙が落ちた。
凛が最初に口を開いた。
「……まずいわね。個人じゃなくてチームごと、って方向に変わった」
刃が壁際から短く言った。
「予想の範囲内だ」
「範囲内って……あんた、最初から分かってたの?」
「つむぎの実演が完璧すぎた。霧島がチームの価値に気づかないはずがない」
つむぎの顔が、さっと青ざめた。
「わたしのせいで——」
「違うわ」
彩がクリップボードを脇に抱え、つむぎを真っ直ぐに見た。
「雪平さんの判断は正しい。もしここで能力を隠して低い評価を出せば、霧島は『地方の管理局では未知の存在を管理しきれていない』と正論を振りかざし、大義名分のもとセリアさんやイエヤスをバラバラに奪っていったはずよ」
凛がハッとして彩を見た。
「……だから、あえて完璧な連携を見せつけて、『対応不能』という徴用の口実を潰したのね」
「ええ。それに、セリアさんを法的に私たちのチームへ組み込むためには、国も文句が言えない客観的な能力データがどうしても必要だったの」
イエヤスが、黒ツルハシを肩に担ぎ直して笑った。
「俺も、隠して弱いフリするより、全力見せて『こいつらには手を出すな』って思わせる方が好きだ」
イエヤスの声には、いつもの「モテたい」も「腹減った」もなかった。
つむぎは数秒、イエヤスの顔を見つめた。それから、小さく頷いた。
「……はい。わたしのデータは、間違っていません」
「おう。間違ってない」
彩が全員を見渡した。
「霧島の標的がチーム全体に変わった以上、こちらもいよいよ『本命の切り札』を打つわ。——全員、今夜、会議室に集合。対策を練るわよ」
全員が頷いた。
セリアだけが少し遅れて、イエヤスの袖をそっと掴み直してから、深く頷いた。
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