第65話 「抵抗」
霧島征一郎が管理局を去ってから、四十八時間が経っていた。
藤村彩の執務室は、ここ二日で様相が一変していた。デスクの上には缶コーヒーの空き缶が五本、法規ファイルが三冊、付箋だらけのタブレット端末が二台。壁には管理局の組織図と、ダンジョン庁設置法の条文を印刷した紙が貼られている。
午前二時。蛍光灯の下で、彩は法務担当の職員と向かい合っていた。
「ここです、藤村さん。第十七条第一項の但し書き」
法務担当が条文の一節を指差す。彩の目が鋭くなった。
「『対象者の所属組織が当該事案に対応不能であると認められる場合に限り』——対応不能。この条件がある」
「はい。ただし、何をもって『対応不能』とするかの定義が曖昧です。霧島課長がどうとでも解釈できる余地が——」
「分かってるわ」
彩はペンを置き、額を押さえた。缶コーヒーの六本目に手を伸ばす。空だった。
「……でも、これが唯一の取っ掛かりよ。『対応不能ではない』ことを証明できれば、徴用の法的根拠が揺らぐ。そのための材料を、あと五日で揃える」
「五日では……」と言いかけた法務担当が、彩の目を見て口を閉じた。諦めという概念が存在しない、管理官の目だ。
「あと一時間。この条文の判例を全部洗い出してから寝るわ」
法務担当が退室した後、彩は一人になった執務室で天井を見上げた。
——あの子たちを、渡すわけにはいかない。
手帳のページをめくる。核晶修復の前に書いた文字が目に入った。
『緊急撤退の最終判断者:藤村彩。補足:いかなる個人的感情にも左右されず——』
彩は手帳を閉じた。今は個人的感情の話ではない。管理官としての職務だ。
——そういうことにしておく。
◇◇◇
同日午前十時。管理局三階、応接室へ向かう廊下。
霧島征一郎が、二度目の来訪を果たした。前回と同じ完璧なスーツ。同じ銀縁眼鏡。同じ穏やかな笑み。
だがその行く手に、黒髪のポニーテールの少女が立ちふさがっていた。
早瀬凛。腕を組み、背筋を伸ばし、微動だにしない。
「……おはようございます、早瀬さん」
霧島が足を止めた。凛は一歩も退かない。
「あの人は、うちのチームの採掘者です。断ります」
短く、硬く、有無を言わさない声だった。護衛として、最も単純で最も強い物理的な拒絶。
霧島は微笑んだ。
「早瀬家のお嬢さんですね。お父様の時代からの名門だ。その判断力は血筋ですか」
凛の拳が、白くなった。
「血筋は関係ありません。私個人の判断です」
「そうですか。——では、その判断の『法的根拠』を伺ってもよろしいですか?」
凛の唇が引き結ばれた。
法的根拠。その四文字が、凛の拒絶を無力化する。感情も、探索者としての実力も、法律の前では何の効力も持たない。霧島はそれを知り尽くしている。
「道を空けていただけますか。藤村管理官との面談の約束があります」
凛は三秒間、霧島を睨みつけた。銀縁眼鏡の奥の穏やかな目は、一切揺れていなかった。
凛が半歩、横にずれた。霧島が会釈して通り過ぎる。
その背中に、凛は低く告げた。
「……次は、法的根拠を持って立ちふさがります」
霧島は振り返らなかった。だが、歩く速度がほんの一瞬だけ遅くなった気がした。
◇◇◇
同日午後。管理局地上棟、第三研究室。
雪平つむぎは、三台のモニターに囲まれて猛烈な速度でキーボードを叩いていた。
画面に表示されているのは論文の原稿だ。
『深層核晶の共鳴修復における非定型打撃手法の定量分析——神代イエヤス・雪平つむぎ共著』。核晶修復時のデータを学術論文にまとめた、つむぎの切り札だった。
つむぎの戦い方は、データだ。
論文の冒頭に明記した一文がある。『本研究は、桜谷ダンジョン管理局所属特別採掘チームの活動成果に基づく』
核晶修復の学術的功績を「管理局の実績」として国際的な学術データベースに固定する戦略。霧島がイエヤスを徴用した場合、学術界が「研究者の所属変更による成果の帰属問題」として注視する。直接的な法的拘束力はないが、行政判断に影響を与える世論を形成できる。
つむぎの指が止まった。最終チェック完了。
「……投稿します」
送信ボタンを押した。「投稿完了」の表示。つむぎは眼鏡を外し、三時間しか寝ていない目の下の隈をさすった。
ドアがノックされ、イエヤスが顔を覗かせた。
「つむぎ、飯」
右手に鮭おにぎりが二つ。左手にパックのカフェオレ。
「……ありがとうございます。デスクに置いてください」
「お前、また寝てないだろ」
「データが完成したので、少し休めます。……あの、イエヤスさん」
「ん?」
「論文、投稿しました。共著者の、あなたの名前も載っています」
「おう。すげーな。で、それってモテるのか?」
つむぎは三秒間、無言でイエヤスを見つめた。
「……国際的な学術誌に名前が載ることは、知的コミュニティにおいて極めて高い評価を意味します。モテるかどうかは——保証しかねますが」
「そっか。まあいいや。つむぎが頑張ったんなら、きっといいことあるよ」
イエヤスは手を振って研究室を出ていった。
つむぎはおにぎりの包装を開けながら、モニターに映る『神代イエヤス・雪平つむぎ共著』の文字を見つめた。二人の名前が並んでいる。
頬が熱い。カフェオレを一口飲んで、冷ました。
◇◇◇
同日午後七時。伊吹あかりの定期配信。
──────【LIVE】同接:52,104──────
: あかりちゃんキター
: 今日の採掘レポートは?
: 霧島の件どうなったの
: チーム大丈夫?
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「はいはいはーい! あかりチャンネルです! 今日もイエヤスくんたちの活動をお届けしますよー!」
あかりの声は、いつも通り明るかった。
だが、今日の配信には明確な意図がある。
画面には、中層第四坑道でのチームの採掘風景が映されていた。イエヤスが壁を叩き、つむぎがデータを記録し、凛が周囲を警戒し、フルフェイスヘルメットのセリアが鉱脈の色を報告し、刃が通路の奥に立っている。
特別なことは何もない。いつもの日常。いつもの仕事。
それが、あかりの武器だった。
霧島への直接的な言及は一切しない。政治的な発言もしない。ただ、このチームが今日も機能していること、全員がそれぞれの役割を果たしていることを、淡々と映し続ける。
「見てください、今イエヤスくんが壁を三回叩きました。鉱脈の位置を特定してます。——つむぎちゃん、データは?」
『方位一二〇、深度約三メートル。反応強度はAランク相当です』
「出ましたAランク! さすがですねー!」
──────【LIVE】同接:54,891──────
: 安定のAランク
: このチーム壊す意味がわからん
: 霧島って人、これ見てないのかな
: 見てるだろ。見た上で動いてるんだよ
: あかりちゃんの配信が一番の証拠だよな
: このチームを守りたい
──────────────────────
視聴者は分かっている。この配信がただの採掘レポートではないことを。あかりが何を守ろうとしているかを。
数字は五万を超えている。この数字そのものが、世論の盾となり、チームの存在価値を可視化する力になる。
配信終了後、あかりは編集室で一人、企画ノートに一行だけ書いた。
『配信は盾になれる。カメラは武器になれる。——そのために、撮り続ける』
◇◇◇
同日深夜。管理局職員寮。
氷室刃は、自室のデスクで薄いファイルを読んでいた。
霧島征一郎の公開経歴。深層特務課の設立年度と予算推移。特務課が関与したとされる案件の一覧——公式には「該当なし」だが、関連部署の予算執行に不自然な増減がある年度が三箇所。
刃は万年筆でメモを取っていく。
霧島と神代烈火が初期要員選抜プログラムの同期であること。深層特務課の設立時期と、ダンジョン庁設置法第十七条の起草者が霧島自身であるという未確認情報。
全てが、一つの仮説を指し示していた。
——この男は、二十年前から準備していた。
烈火の報告書。『奥に何かある。でかい。俺一人じゃ無理だった』。
霧島はあの一行を十年かけて分析し、法律を書き、制度を作り、今日この瞬間のために全てを組み上げた。
努力の方向が違うだけで、執念の深さは敬意に値する。
だが、だからこそ危険だ。この男は感情で動かない。法と論理だけで戦場を組み立てる。殴って止められる相手ではない。
刃はポケットから紫の魔鉱石を取り出した。七つ目。いつの間にか、また増えていた。蛍光灯の下で、鈍い紫の光が明滅する。
「……面倒な男が出てきたな」
誰に言うでもなく呟いた。
明日、この情報をチームに共有する。刃にできるのは、敵の輪郭を明らかにすることだ。斬る相手が見えないなら、まず形を知る。
刃はメモを引き出しにしまい、灯りを消した。
◇◇◇
翌朝。午前六時十五分。サンクスマート桜谷駅前店。
「鮭おにぎり四つ」
「四つ? 個数増えたね」
瀬田ユアがレジを打ちながら言った。
「セリアの分」
「ああ、フルフェイスの子ね。今日は一緒じゃないの?」
「まだ寝てる。エルフは朝弱いのかもしれない」
「エルフが朝弱い……ファンタジーの格が下がるわね」
イエヤスがポケットから小銭を出し、並べる。数える。
「……あ」
「十円?」
「十円」
ユアの右眉がぴくりと跳ねた。付箋を見る。『イエヤス −10円(6回目)』。
「あんたさ、二級に昇格して給料上がったんでしょ。なんでまだ十円足りないの」
「装備の調整費が思ったより高くて」
ユアはため息をつき、六回目のツケを記録した。それから、レジの下から唐揚げ串を一本取り出し、袋に入れた。
「これはおまけ。……なんか最近、あんたの周り大変そうだから」
「え、知ってんの?」
「知らないよ。でも、あんたの顔見りゃ分かる。いつもよりちょっとだけ、眉間にシワ寄ってる」
イエヤスは自分の額に触れた。
「マジ? シワとかモテないだろ」
「知らないわよ。——さっさと食べて、いつも通り掘ってきな」
「うす。ユアさん、ありがとな」
自動ドアが閉まった。
ユアはカウンターに肘をつき、去っていく背中を見送った。
いつもより少しだけ肩が重そうに見えた。あの馬鹿の肩に何が載っているのかは知らない。ダンジョンのことも、偉い人が何を要求しているのかも、全部知らない。
知っているのは、あの男が毎朝ここに来ることと、鮭おにぎりを食べること。そしてたまに、十円足りないこと。
それだけでいい。それだけが、ユアの持ち場だ。
「……あたしにできるのは、おにぎり取っとくことぐらいだけどね」
誰もいない店内で呟いた。
有線放送のJ-POPが、静かにループしていた。
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