第63話 「霧島征一郎」
配信拡散から三日後の朝。
藤村彩の執務デスクに、一通の公文書が置かれていた。
管理局の内部郵便ではない。ダンジョン庁本部の封蝋が押された、正式な書留だ。差出人の欄に、彩は見覚えのない部署名を見つけた。
『ダンジョン庁 深層特務課』
名前だけは知っている。組織図の端に記載され、深層に関する特殊案件を扱うとされる部署。だが、彩が管理官を務めた六年間で、この部署が実動したという話は一度も聞いたことがなかった。組織図上の幽霊。そう思っていた。
三日前、伊吹あかりの配信で『神代烈火』と『エルフ』のワードが爆発的に拡散されて以来、国が動くのは時間の問題だと覚悟はしていた。だが、これほど早いとは。
封を切る。中身はA4用紙一枚。文面は短かった。
『桜谷ダンジョン管理局管理官・藤村彩殿
深層核晶修復事案および異世界来訪者に関する件につき、面談の機会を頂戴したく存じます。本日午前十時、貴局にてお時間を頂けますでしょうか。
ダンジョン庁深層特務課 課長 霧島征一郎』
彩は文書を三回読み返した。文面は丁寧を通り越して慇懃だ。だが「本日午前十時」という指定は、こちらに断る猶予を与えていない。送達日と面談日が同日。受け取った時点で既に逃げ場がない。あの配信の拡散が、奴らに「迅速な保護」を名目として動く最高の口実を与えてしまったのだ。
時計を見た。午前八時四十七分。あと七十三分。
彩は缶コーヒーのブラックを喉に流し込み、局内通信を開いた。
『全員へ。本日十時、ダンジョン庁深層特務課の課長が来局。——各自、通常業務を装って待機』
◇◇◇
午前九時五十八分。管理局一階、正面玄関。
黒塗りの公用車が停まった。窓にはスモークフィルム。ナンバープレートは官用の特殊番号。
後部座席のドアが開き、一人の男が降り立った。
四十代前半。長身。銀縁の眼鏡。髪は短く整えられ、一本の乱れもない。ダークネイビーの三つ揃いのスーツは、仕立てが明らかにオーダーメイドだった。靴は黒の内羽根ストレートチップ。革に全く皺がない。
歩き方に無駄がなかった。一歩ごとの歩幅が正確に揃っている。周囲を威圧するのではなく、自然と道が開く種類の圧倒的な存在感。
受付の職員が弾かれたように立ち上がった。
「いらっしゃいませ。ご予約の——」
「深層特務課の霧島です。十時に藤村管理官とお約束をいただいております」
声は低く、穏やかだった。だが、その穏やかさの底に、石畳のような硬さがある。丁寧な言葉の一音一音が、正確に計算された配置で並んでいた。
「三階の第一応接室にご案内いたします」
「ありがとうございます。——あ、すみません」
霧島が受付のカウンター横に目を留めた。壁に貼られた管理局のポスター。『採掘者募集中! 掘って、見つけて、届けよう!』。イエヤスの配信以降に作られた新しいデザインで、シルエットのイラストがツルハシを振っている。
「いいポスターですね。採掘者の仕事が、ちゃんと伝わるデザインだ」
霧島は完璧な微笑みを残して、案内に従った。
◇◇◇
第一応接室。
彩は入口側の椅子に座り、手元のクリップボードを見つめていた。事前に調べた深層特務課の資料。
設置根拠はダンジョン庁設置法の附則。予算規模、非公開。所属人員、非公開。過去の活動実績——公式にはゼロ。
その「公式には」という事実が、この部署の厄介さを物語っている。
ドアがノックされた。三回。寸分違わぬ等間隔。
「どうぞ」
霧島が入室した。会釈は深すぎず浅すぎず、角度が完璧だった。
「お忙しいところ、突然のお願いで申し訳ございません。深層特務課の霧島です」
「桜谷管理局の藤村です。お掛けください」
霧島が対面の椅子に腰を下ろした。スーツに皺が入らない、訓練された座り方だった。
「まず、核晶修復の件。藤村管理官のチームが成し遂げた偉業に、庁として最大限の敬意を表します」
「恐縮です。現場のメンバーの力です」
「ええ。神代イエヤスさん、早瀬凛さん、氷室刃さん、雪平つむぎさん、伊吹あかりさん。全員の経歴と実績は拝見しました。素晴らしいチームですね」
全員の名前をフルネームで、一切の淀みなく列挙した。彩の背筋に冷たいものが走った。完全に調べ上げられている。
「——では、本題に入らせていただいてよろしいですか」
霧島が銀縁眼鏡の位置を直した。微細な動作だったが、その前後で男の空気が変わった。穏やかさは残っている。だが、その穏やかさが研ぎ澄まされた刃物になった。
霧島がテーブルの上に、薄いファイルを置いた。表紙には『機密』の朱印。
「二点ございます」
「伺いましょう」
「第一に。二級採掘者・神代イエヤスさんの、深層特務課への特別徴用について」
彩の指が、膝の上で強く握りしめられた。
「第二に。異世界来訪者・リュミエラセリア・ファ=エルティナーデさんの身柄を、国の管理下に移す件について」
応接室の空気が凍った。彩は出されたお茶に手をつけなかった。
「……法的根拠を伺っていいですか」
「もちろんです」
霧島は資料を開かなかった。暗唱した。
「ダンジョン庁設置法第十七条第一項。『深層に関する事案において、庁は必要と認める人材を、所属機関の同意を要せず、特別徴用することができる』。第二項——」
「結構です」
彩が遮った。声は平静だったが、握りしめた拳の爪が掌に食い込んでいた。
「……その条文は知っています。ただし、施行以来一度も適用された実績がない例外条項のはずですが」
「ええ。ですから、今回が初めての適用になります。三日前の伊吹あかりさんの配信……庁内でも大きな話題になりましてね」
霧島が微笑んだ。穏やかで、完璧な笑みだった。
「まさか、あの神代烈火氏が通信を繋いでくるとは。ネット上ではすでにエルフや異世界の存在について様々な憶測が飛び交い、混乱が生じています。事態はもはや一管理局の手に負える範疇を超えました。国が責任を持って、彼らを『保護・管理』する必要があります」
「藤村管理官。誤解のないように申し上げますが、これは強制ではありません。特別徴用は対象者の同意を前提としています。ただし、同意が得られない場合の手続きについても、設置法第十八条に——」
「存じています」
彩の声が、一段低くなった。
「同意が得られない場合、庁長官の命令により仮徴用が発動される。仮徴用中は管理局の指揮権が停止し、対象者は深層特務課の直轄管理下に置かれる。——つまり、断っても断らなくても結果は同じだと。そうおっしゃりたいんですね」
霧島は否定しなかった。代わりに、穏やかな声で言った。
「藤村管理官は聡明な方ですね。お話が早くて助かります」
彩の歯が、奥で軋んだ。
応接室の外の廊下では、凛が壁に背を預けて立っていた。防音扉越しでも、中の声の温度が一方的に下がっていく不均衡が読み取れる。
別室ではつむぎが血眼になって深層特務課の情報を検索し、刃は腕を組んだまま、足の指先を靴の中で強く握りしめていた。
姿の見えない巨大な「国」という圧力が、彼らの日常を外側から包囲しつつあった。
応接室。
彩は沈黙の後、一つだけ質問をした。
「霧島課長。イエヤスとセリアさんを欲しがる理由を、具体的に伺えますか。『ネットの混乱を収めるための保護』という建前だけでは、管理官として納得できません」
「ごもっともです」
霧島は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。その数秒間だけ、銀縁の奥にあった目が剥き出しになった。
穏やかな目だった。だがその底に、彩がこれまで見たことのない種類の『執念』が沈んでいた。何かを、ずっと前から知っていて、今日この瞬間を待っていた目。
「深層の最奥部に、核晶とは別の『構造物』が存在する可能性が浮上しています。十年以上前……神代烈火氏の深層踏破時に断片的に報告されたデータに基づく仮説です」
「構造物?」
「詳細は機密です。ただし、神代イエヤスさんの聴覚——深層の音を感知する異常な能力は、この構造物の探索に不可欠。同様に、異世界来訪者であるセリアさんの魔力親和率は、構造物の解析に——」
「要するに」
彩が遮った。
「イエヤスの耳と、セリアさんの身体が欲しい。人材としてではなく——ただの道具として」
霧島は否定しなかった。眼鏡をかけ直し、穏やかな笑みを取り戻す。
「道具、という表現は本意ではありませんが。適材適所、とお考えいただければ。……イエヤス本人に、話を通していただく必要があります」
「私に、あの子を差し出す役をやれと?」
「管理官から——彼が信頼する人間から説明していただくのが、最も円滑かと」
彩はテーブルの上のお茶を一口飲んだ。冷めきっていた。
「……お時間を、いただけますか」
「もちろん。一週間ほどお待ちします。それ以上は——庁長官の命令が先に動く可能性がありますので」
霧島が立ち上がった。会釈し、テーブルの上に『機密』ファイルを置いたまま、ドアに向かった。
「最後に一つだけ」
彩が呼び止めた。霧島が振り返る。
「イエヤスに会っていただけますか。顔を見てから帰ってほしい」
管理官としての意地だった。あの子たちを書類上の駒としてしか見ていないこの男のペースを、少しでも乱してやりたかった。
霧島の眉がわずかに動いた。予定にない提案だったのだろう。だが、断る理由もない。
「……ぜひ」
◇◇◇
第一応接室に、イエヤスが入ってきた。
カーゴパンツに作業用ブーツ。黒ツルハシは彩に「置いてきなさい」と言われたため持っていない。
「うす。呼ばれたんで来ました」
イエヤスは霧島を見た。完璧なスーツ。銀縁眼鏡。管理局でも見たことのない種類の、隙のない大人だった。
「初めまして。ダンジョン庁深層特務課の霧島征一郎と申します」
霧島が手を差し出した。イエヤスは一瞬だけ手を見つめてから、無造作に握り返した。
霧島の手が、イエヤスの掌を包む。
そのまま、霧島は三秒間、イエヤスの手を離さなかった。指先の無数のタコ。掌の岩のような硬さ。ツルハシを何万回と握り続けた手。
「……掘る人間の手だ」
霧島が呟いた。声のトーンが、ほんのわずかに変わっていた。事務的な穏やかさが消え、ひどく個人的な——古い記憶を辿るような声。
「お父上と、同じ手をしていらっしゃる」
イエヤスは首を傾げた。
「親父を知ってるんすか」
「ええ。昔、少しだけ」
霧島が手を離した。銀縁眼鏡の奥の目が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、別の色を帯びた。
穏やかさの底の、もっと深い場所にある感情。天賦の才を持つバケモノに勝てなかった、二番手の男の悔恨と執着。
だがそれは、イエヤスが瞬きをする間に完璧な笑顔の下へ隠された。
「今日は顔を見に来ただけです。詳しい話は、藤村管理官からお聞きになってください」
霧島は会釈を残し、応接室を出た。
廊下で凛とすれ違った。霧島は軽く会釈し、凛は氷のような目で睨み返した。すれ違いざまに凛が感じたのは、香水でも革靴の匂いでもなかった。
——この男には、一切の隙がない。
霧島が正面玄関を出て黒塗りの公用車に乗り込むまで、凛はその背中から目を離さなかった。
◇◇◇
午前十一時。管理局地上棟、藤村彩の執務室。
彩は椅子に深く沈み込み、天井を見上げていた。テーブルの上に、霧島が置いていったファイルが開いたまま残されている。
合法だ。
全てが、完全に合法だ。
設置法第十七条。条文の一字一句に隙がない。あかりの配信を隠れ蓑にして、霧島はこの法律を武器にイエヤスとセリアを奪いに来た。対抗する法的手段を、彩は持っていない。
猶予は一週間。
彩は缶コーヒーに手を伸ばしたが、空だった。新しいものを買いに行く余裕すらない。
執務室のドアがノックされた。
「彩さん。イエヤスっす。さっきの人、なんだったんすか」
彩はドアの向こうの声を聞いて、数秒だけ目を閉じた。
「……入って」
ドアが開いた。イエヤスが入ってくる。後ろに凛がいる。廊下の奥につむぎの白衣が見える。刃の黒い影が、さらにその奥にある。
全員が、待っていた。
彩は椅子から立ち上がった。管理官の顔になった。
「——座りなさい。あんたたち全員に、話すことがある」
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