第61話 ② 千五百年の瞳 後編
翌朝。午前五時五十分。
イエヤスが管理局地上棟の空き個室を訪ねると、セリアはすでに起きていた。ベッドの上で膝を抱え、窓の外が白んでいくのを見つめている。エルフの睡眠は浅く短いのかもしれない。
イエヤスの顔を見た瞬間、セリアの表情が変わった。ベッドから降り、迷いなくイエヤスの袖を掴む。昨日と同じ左手。同じ力。
「……起きてたのか。朝飯喰う前に来たんだけどな。じゃあ、セリアの分も買ってくるわ」
「行く。一緒に」
覚えたてのこちらの言葉。発音は怪しいが、意志は完璧だった。
「いや、それは無——」
「行く」
翡翠の目に交渉の余地はなかった。イエヤスは頭を掻いた。二百二十歳のエルフと、朝六時前の廊下で押し問答をしている場合ではない。
廊下の角を曲がったところで、凛が立っていた。
壁に背を預け、腕を組んでいる。寮ではなく管理局の建物にいるということは、昨夜から詰めていたのだろう。目の下に薄い隈がある。
「……どこに行く気?」
「サンクスマート。朝飯」
凛の視線がセリアに移った。イエヤスの袖を掴んだまま離さない長耳の少女。凛の目が一瞬だけ細くなったが、すぐに管理局員の顔に戻った。
「保護対象を無断で外に出すのは規定違反よ。管理官の許可が要る」
「彩さん、起きてるかな」
「こんな大事件、後処理で昨夜から徹夜よ」
凛が先に立って歩き出した。彩の執務室に向かっている。
執務室のドアをノックすると、中から「どうぞ」と疲れた声がした。彩のデスクには缶コーヒーの空き缶が二本並んでいる。目の下の隈は凛より濃い。
「管理官。イエヤスがセリアさんを外に連れ出そうとしています」
「いや、ついてくるって言って離してくれないだけだ」
「うるさい、おんなじことでしょ」
「えーそうかぁ?」
「なんで、こんなときばっかり細かいのよ」
「細かいかぁ?」
凜はずっとセリアを睨んでいる。イエヤスはいつもより凜がイライラしているのが不思議で仕方なかった。腹が減っているのか?
「徹夜明けの頭に響くから、喧嘩はやめてくれない? だいたい想像つくから」
彩はペンを置き、セリアを見た。セリアはイエヤスの袖を掴んだまま、彩の目をまっすぐ見返した。
「……三十分以内。凛が同行。雪平さんのセンサー装着が条件。それから——」
彩は執務室の隅に目を向けた。棚の上に、管理局の災害対応備品が並んでいる。ヘルメット、防塵マスク、防護ゴーグル。彩はその中から一つを手に取った。
フルフェイスヘルメット。白。ダンジョン深層作業用の旧型で、バイザーがスモーク仕様になっている。
「これを被りなさい」
セリアが受け取り、両手で持ち上げて眺めた。翡翠の目に困惑が浮かんでいる。
「……これは、兜ですか?」
「近いわね。顔と耳を隠すための装備です」
セリアがヘルメットを被った。銀に近い金色の髪がバイザーの隙間から溢れ、長い耳が内側で潰れて悲鳴のような声が漏れた。
「痛——耳が——」
セリアは耳を無理やり折り畳んでヘルメットの中に押し込み、バイザーを下ろした。
白いフルフェイスヘルメットに、管理局備品の白いTシャツとスウェット。全身白。
凛が二秒ほど無言でセリアを見つめ、視線を逸らした。口元がわずかに歪んでいる。笑いではない。笑いを殺しているのだ。
彩は完成形を三秒ほど眺め、深く息を吐いた。
「……逆に目立つわね」
「目立ちます」
凛が即答した。
「でも、耳は見えない。今はそれでいいわ。——行ってらっしゃい。三十分」
イエヤスが缶コーヒーを一本、彩のデスクに置いた。砂糖入り。
「……頼んでないけど」
「落ちてた」
「嘘つくなら、もうちょっとうまいこと言って……わざわざ自販機で買ったでしょう」
イエヤスは答えず、セリアを連れて部屋を出た。彩は缶コーヒーを手に取り、プルタブを開けた。砂糖の甘さが、二徹目の脳に沁みた。
◇◇◇
午前六時十八分。サンクスマート桜谷駅前店。
凛が二歩前を歩き、イエヤスとセリアがその後ろに続く。セリアの左手はイエヤスの袖、頭にはフルフェイスヘルメット。スモークバイザーの奥で翡翠の目がきょろきょろと動いているが、外からは見えない。
凛は周囲を警戒しながら、時折後ろを振り返った。朝六時台の住宅街を、フルフェイスヘルメットの人間が歩いている。耳は隠れている。だが別の意味で通報案件だった。
自動ドアが開いた瞬間、セリアの全身が強張った。
透明な壁が自ら開いた。何の詠唱もない。魔法陣も見えない。セリアは反射的にイエヤスの背後に半歩退き、右手が背中——弓があるべき場所に伸びた。
「……結界術?」
フルフェイスヘルメットの中から、くぐもった声。
「自動ドア。電気で動いてる」
「電気?……知性を持つ壁……」
「ただのドアだ。中入るぞ」
凛がドアの前で振り返った。
「セリア。ここは店よ。ものを買う場所。武器は要らないから」
セリアはバイザー越しに凛を見た。イエヤスの近くにいることを許されている人間。それだけは分かっている。セリアは背中に伸ばした手をゆっくり下ろし、警戒を残したまま店内に足を踏み入れた。
蛍光灯の白い光。棚に並んだ商品。
白いTシャツにスウェット、フルフェイスヘルメットの人物がコンビニの通路を歩いている。
レジの瀬田ユアが顔を上げた。
レジを打つ手が止まった。ただし今回は、耳のせいではない。
「……イエヤスくん。なんであの人フルフェイス?」
「いろいろあったんすよ」
「いろいろ」
「ああ」
「まさかと思うけど、強盗じゃないよね?」
「違ぇよ」
セリアの足が、おにぎりの棚の前で止まった。バイザーを上げて覗き込む。三角形の物体が透明な膜に包まれて整然と並んでいる。
「……錬金術を陳列して、何を企んで?」
真顔だった。米を炊き、具材を包み、海苔で巻き、この形状に整え、透明な膜で保護する。彼女には錬金術に等しい技術に見えていた。
長い耳がバイザーの隙間から飛び出した。
ユアの目が、その耳を捉えた。レジを打つ手が、本日二度目の完全停止。
「……コスプレ?」
「ガチ」
凛が背後から「余計なことを言わないで」と小声で釘を刺したが、遅かった。
ユアは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。朝の六時十八分にコンビニのレジで処理すべき情報の範囲を、明らかに超えていた。
「……またハーレム要因が増えたわね。フルフェイスエルフ。キャラ立ち過ぎでしょ。」
ユアはレジの下から付箋を取り出し、何かを書き加えた。
「ハーレムとかじゃねぇって——」
「そう思っているのはアンタだけじゃない?」
「錬金術師よ……ハーレム、とは何ですか」
セリアが聞くとユアがレジから身を乗り出し、イエヤスを指差した。
「あんたの隣にいる男の性だよ。ちなみに錬金術師じゃなくてただの店員ね。石ころを金に変えられたら働かなくても済むのにねー!」
凛が低い声で言った。
「ユア。三十分しかないの。会計を」
「はーい。五百二十円でーす」
店の外に出た。
セリアがバイザーの奥からおにぎりを見つめている。包装を開けたそうに指先が動いているが、フルフェイスヘルメットが邪魔で口に届かない。
「……食べられません」
くぐもった声が、バイザーの中から漏れた。
「戻ってからだ。あと十五分、我慢しろ」
セリアはおにぎりを両手で胸に抱え、大事そうに歩き始めた。フルフェイスヘルメットにスウェット姿の人間が、おにぎりを宝物のように抱えて住宅街を歩いている。凛は前を歩きながら、通報されないように祈りつつ、振り返らないことに全神経を集中していた。振り返ったら笑ってしまうからだ。
ユアがレジの中からガラス越しに三人の背中を眺め、付箋にもう一行書き加えた。
『朝から賑やか。おにぎり四つ時代の幕開け』
コンビニから管理局への帰り道、つむぎと合流した。手に携帯型センサーを持っている。
「あ、ちょうどよかった。セリアさん、これを手首に」
つむぎがバンド型のセンサーをセリアの手首に巻いた。
「心拍、体温、魔力循環のデータがリアルタイムで取れます。……えっと、簡単に言うと、あなたの身体の音を聴く道具です」
「身体の、音……」
セリアはセンサーを見つめた。それからイエヤスを見た。
「あなたも……鉱石の音を聴くと言いましたね」
「ああ」
「この人も、同じことをしている?」
「まあ、似たようなもんだ。つむぎは数字で聴く」
つむぎが少しだけ目を見開き、それから端末に視線を戻した。イエヤスに「似たようなもの」と言われたことを、つむぎは記録しなかった。記録する必要がなかった。覚えているから。
◇◇◇
管理局地上棟。空き個室。
セリアはベッドの上に座り、イエヤスに教わりながらおにぎりの包装を開けた。フィルムを引っ張る方向を三回間違え、四回目でようやく海苔が露出した。
「……錬金術の封印が、解けた」
「封印じゃねぇよ。包装だ」
セリアがおにぎりを一口食べた。 翡翠の瞳が見開かれた。
「……おいしい」
完璧な発音だった。「おいしい」は「鮭おにぎり」と並んで、セリアがこの世界で最も早く習得した日本語になった。
凛は部屋の入口に立ったまま、四つ目のおにぎりを開けた。イエヤスが何も言わずに四つ買ったのは、凛が同行することを分かっていたからだ。
凛はそれに気づいていた。気づいた上で、何も言わなかった。おにぎりを一口齧り、廊下の窓から朝の空を見上げた。
◇◇◇
その夜。
管理局の空き個室。セリアはベッドの上で、デスクに置かれた老いた烈火の写真を月明かりで見つめていた。
白い髪。しわ。変わってしまった輪郭。
あの男が、こんなに変わった。たった二十年で。エルフにとっての瞬きで。
「……脆い」
セリアは写真を胸に当てた。
人間は脆い。寿命が短い。老いるのが速い。消えるのが速い。
だから——姉さまは、急がなければならなかった。
だから——私も、急がなければならない。
セリアはベッドに潜り込んだ。
明日もあの店に行く。あの袖を掴んで。帰る方法が見つかるまで——いや、帰る方法を見つけるために。
翡翠の瞳が閉じた。
手首のセンサーが、人間のそれとは違うゆっくりとした心拍を刻み続けていた。
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