第61話 ① 千五百年の瞳 前編
セリアが管理局医務室で目覚めてから二日目の朝。
雪平つむぎは第三研究室に籠もっていた。
デスクの上にはモニターが三台。左にセリアの生体スキャンデータ、中央にスペクトル分析結果、右に既存種族のデータベース。
つむぎの目の下にはくっきりとした隈ができている。昨夜は寮に帰っていない。
研究者にとって、目の前にあるデータは悪夢であり、同時に夢そのものだった。
骨密度は人間の一・七倍。筋繊維の構造が根本的に異なり、細胞の再生速度は約三倍。そして——魔力親和率が人間の平均値の十二倍。
つむぎは分析結果の最終ページを開き、推定寿命の算出式を確認した。
細胞分裂の速度、テロメアに相当する魔力結合鎖の長さ、代謝と再生の均衡点。すべてのパラメータを代入すると、推定寿命は『約千五百年』。セリアが昨日自ら名乗った数字と一致する。
つむぎは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「千五百年……」
声に出してみた。数字として理解はできる。だが実感が追いつかない。
エルフ基準で二百二十歳。人間に換算すれば十六から十七歳相当。つむぎ自身とほぼ同い年ということになる。
だが、あの翡翠の瞳の奥に横たわる感情の深さは、十七歳のそれではなかった。人間の物差しでは測れない。
つむぎは端末を閉じ、印刷ボタンを押して立ち上がった。
これを持って、管理官のところへ行く。
◇◇◇
午前九時。管理局地上棟・第二会議室。
長机の上に、つむぎの二日間の全成果である報告書が置かれている。
出席者は五名。藤村彩、つむぎ、早瀬凛、伊吹あかり、そして入口近くの壁に背を預けて立つ氷室刃。
イエヤスはいなかった。セリアがイエヤスのそばを離れたがらないため、隣の控室で待機させている。
彩は報告書の最終ページを閉じ、全員を見渡した。
「雪平さん、お疲れさま。結論から言って頂戴」
「はい」
つむぎが立ち上がり、プロジェクターにスライドを投影した。
「骨密度、細胞再生速度、そして魔力親和率。全項目が人間の基準値を大きく逸脱しています。推定寿命は約千五百年。データベースの該当はゼロ。結論として——セリアさんは、この世界の生物ではありません」
会議室が静まった。長い耳を見た瞬間から全員が分かっていたことだが、データとして突きつけられると空気の重さが違う。
彩がペンを置いた。
「では、次に進みます。セリアさんからの正式な聴取を行います」
隣室からセリアが連れてこられた。イエヤスが隣を歩き、セリアの左手は昨日と同じようにイエヤスの袖をしっかりと掴んでいる。
ボロボロの旅装は管理局の備品の白いTシャツとスウェットに替わり、銀に近い金色の髪は洗われて光を反射していた。だが、髪の隙間から突き出た長い耳だけは隠しようがない。
彩が口を開いた。
「セリアさん。あなたがどこから来て、なぜここにいるのか。詳しく聞かせてもらえますか」
旧式と改良型の二つの翻訳魔具を併用し、つむぎがリアルタイムで補足しながらの聴取になった。
それでも、核心は伝わった。
姉エルティナーデは、烈火がいなくなった後、ふさぎこんでいる。笑わなくなった。弓を引かなくなった。セリアは姉を救うため、烈火を見つけて連れ帰るために「世界の膜(境界)」を越えてきた。
「膜は、通常は厚く、硬く、越えられません。ですが二十日ほど前……膜が、大きく震えました」
セリアが、こちらの言葉で拙く言った。
「向こう側から何かがぶつかったように。そして——一瞬だけ、薄くなった。戻れなくなるかもしれないと分かっていましたが、走りました。姉さまが、もう一日も待てないと思ったから」
彩のペンが止まった。凛が腕を解き、刃の目が初めてセリアに真っ直ぐ向いた。
つむぎが端末を見つめたまま、小さく呟いた。
「核晶修復の衝撃が……境界壁に影響を与えた……」
意味するところは明白だった。
イエヤスが黒ツルハシで核晶を叩いたあの日。その衝撃波が異世界との隔壁を一時的に薄くし、セリアが通り抜けた。
つまり——イエヤスの行動が、セリアをこちら側に呼び込んだ。
会議室の視線がイエヤスに集まった。
イエヤスは空いた右手で、無意識に自分の膝を強く握りしめた。
「……じゃあ、俺のせいか」
低い声だった。
「違う!」
凛が即座に、鋭く強い声で言い放った。イエヤスを睨みつける瞳に怒りに近い光がある。この男がすぐに全てを背負い込もうとする癖への苛立ちだ。
「核晶を修復しなければダンジョンが崩壊していた。あの判断は絶対に正しかった。結果としてセリアがこちらに来たことは、あんたの『責任』じゃない」
「いや——でも」
「でも、じゃない!」
会議室が一瞬静まった。
イエヤスは凛の真っ直ぐな目を見て、それから前を向いた。そして、静かだが迷いのない声で言った。
「帰れるようになるまで、俺が面倒見る」
「は?」
凛、つむぎ、あかりの三人の口から、完全に同タイミング、同音量で声が漏れた。
彩は深く額を押さえた。予想はしていたが、頭痛が軽くなるわけではない。刃だけが、壁に背をつけたまま表情を変えなかった。
セリアは翻訳魔具を通じてその言葉を聴き、小さく首を傾げた。
「なぜ、あなたが?」
「なぜって言われても——俺が壁叩いたせいでお前がこっちに来ちまったんだろ。だったら、俺がどうにかしないと筋が通らないじゃん」
イエヤスにとってはそれだけの単純な理屈だった。
セリアはイエヤスの目を見つめた。数秒。翡翠の瞳が何かを探るように動き、そして止まった。
何も言わなかったが、イエヤスの袖を掴む左手の力が、ほんの少しだけ強くなった。
◇◇◇
午前十一時四十分。彩が最後の質問を行った。
「セリアさん。あなたが通過した後、壁はどうなりましたか」
「閉じました。振り返った時には、もう通れなくなっていました」
会議室の空気が重くなった。境界壁は再び閉じた。セリアには帰る手段がない。
彩はペンを置いた。
「聴取は以上です。ですが……セリアさん。一つ、見せたいものがあります」
彩がファイルから一枚の写真を取り出した。
数年前、ダンジョン庁の式典で撮影された神代烈火の記録写真。白髪交じりの壮年の男。目元には深いしわがある。
「これが、現在のレッカです」
セリアの翡翠の瞳が写真に落ちた。
画像の中の人物の顔を認識した瞬間——セリアの目が見開かれ、指先が震えながら写真に触れた。
「これが……レッカ……?」
セリアが知っている烈火は若く、黒髪で、笑うと目が細くなる男だった。写真の男は白髪で、顔の骨格は同じだが、時間が上から何層も塗り重ねられている。
『……こんなに、変わるのですか。人間は』
翻訳魔具が、小さすぎる声を拾い上げた。会議室の誰も答えられなかった。
エルフにとって二十年は瞬き。だが人間にとって二十年は——顔が変わるほどの歳月。
「……あの人は、こんなに脆いものだったのですか」
こちら側の言葉だった。怒りも悲しみもなかった。ただ、純粋な驚愕。「人間の寿命は短い」と知識で知っていても、自分が知っている顔がこれほど変わるという現実を突きつけられれば、理解の次元が変わる。
刃は写真を見ていなかった。壁に背をつけたまま、天井の一点を凝視していた。父がどれだけ老いたかなど、見たくなかった。
セリアは写真を両手で持ち、胸の前に引き寄せた。
「……姉さまは、これを知らない。姉さまが待っている相手は、あの頃のレッカです。でも……それでも。姉さまは待っています」
セリアはイエヤスを見上げた。
「あなたは、レッカの息子。顔が、同じ」
「よく言われる。親父そっくりだって」
「……少し、安心しました。あの顔が、まだこの世界にあることが」
彩が聴取記録の最終行に書き加えた。
『境界壁の現状:閉鎖。被聴取者に帰還手段なし』
「本日の聴取は以上です。セリアさんには、しばらくの間、管理局の保護下で仮住まいしていただきます」
イエヤスが立ち上がった。
「じゃあ、昼飯にしよう。セリア、腹減ってるだろ。鮭おにぎり」
最後の単語だけはセリアに通じた。昨日、医療スタッフが試しに出した鮭おにぎりを、セリアは目を丸くしながら三つ食べたのだ。
二人が会議室を出ていく。
凛がその背中を見送った。ファイルを持つ手の力が強くなり——そしてゆっくり、緩めた。深く息を吐いた。
◇◇◇
午後二時。彩の執務室。
ノックの音とともに、つむぎが入ってきた。手に薄いファイルを持っている。
「管理官。一つ、ご報告が。境界壁の閉鎖について、セリアさんの証言と波形データを照合しました。結論から言うと——壁は確かに閉じていますが、修復前の状態に完全に戻ったわけではありません」
「どういうこと」
「壁の厚さは九十七パーセントまで回復していますが、残りの三パーセントが——薄いままです。もう一度、核晶級の衝撃が加われば、再び開く可能性がゼロではない、と」
彩は数秒黙った。
三パーセントの脆さ。それは希望であり、同時に危険でもある。
「当面は秘匿。あなたと私だけの情報にします。イエヤスにもセリアさんにも、まだ言わない」
「了解です。……ですが、いつか言わなければならない時が来ると思います」
「分かっています」
つむぎが出ていった。
彩は渡されたファイルをデスクの引き出しにしまい、鍵をかけた。




