第60話 「あの男の名前」
セリアが刃を見つめていた。
「セリアでいいだろう」と一刀両断した男。廊下の壁に背を預け、腕を組み、医務室の中を見ようとしない。だが、声だけは届けた。
セリアの翡翠の目が、その男の輪郭をなぞった。イエヤスとは似ているが、同じではない。目の色が違う。空気の質が違う。だが——名前を縮める、あの癖。
「……姉さまも」
声が小さかった。だが医務室の沈黙の中で、全員の耳に届いた。
「姉さまも、あの男にそう呼ばれた」
翻訳魔具が光り、セリアの言語とこちらの言葉が混じり合う。
「姉さまの名前はエルティナーデ。でも、あの男は——レッカは」
セリアは一度唇を引き結んでから、言った。
「"エルティ"と」
場の空気が変わった。
それまで漂っていた緊張も、困惑も、イエヤスのネーミング迷走によるコミカルな空気も——全てが一つの事実に収束した。
神代烈火は、向こうの世界で名前を勝手に縮めていた。長い名前を持つエルフの女性に出会い、そう呼び続けた。そしてその男の息子は今、同じことをしようとして盛大に失敗し、代わりにもう一人の血縁者が正解を出した。
氷室刃の顔に感情が走った。ほんの一瞬。眉間のしわがわずかに深くなり、そしてすぐに消えた。
父が向こうの世界で何をしていたか。父はそこでも父だった。自分勝手で、不器用で、他人の名前を好き勝手に縮めて、それでも呼ばれた相手に嫌われない——そういう人間だった。
セリアは刃を見つめていた。この男にも、あの人の影が落ちていることに気づいたのだろう。
セリアの視線がイエヤスに戻り、そしてまた刃に移った。
「……あの人の息子が、二人?」
医務室の温度が、また一段下がった。
刃の目がセリアを射抜いた。氷のような視線。だがその氷の下で、何かが軋んでいた。
イエヤスが口を開いた。
「ああ。刃は俺の兄貴だ。——母親は違うけどな」
事実だけを述べた。だがその事実の重さを、セリアは違う角度から受け取ったようだった。
セリアの翡翠の目が揺れた。レッカは向こう側で姉と暮らし、そしてこちら側にも妻と子がいた。二人。それも、母親の違う二人。
セリアの唇が震えた。
「姉さまは……知らない」
翻訳魔具がその言葉を拾った。
「姉さまは、レッカがこちら側に家族がいることを、知りません」
イエヤスは何も言わなかった。言えなかった。
セリアの手がイエヤスの袖を掴む力が変わった。弱くなったのではない。質が変わった。先ほどまでは「離さない」という衝動だった。今は——しがみつかなければ崩れるという、身体の悲鳴だった。
イエヤスが口を開いた。
「……俺も知らない」
静かな声だった。
「親父が何考えてたか。なんで向こうの世界に行ったのか。なんで帰ってきたのか。——全部、知らない。……知っているのは、親父がどうしようもなくバカだってことくらいだ」
セリアがイエヤスの顔を見上げた。
「お前の姉ちゃんが泣いてたのと同じで、俺と刃も——」
イエヤスは言葉を切った。廊下にいる兄の背中を見た。
「——何度か修行って言って殺されそうになったり、逆に殺そうとしてみたり、いろいろあった。二十年分な」
それ以上は言わなかった。感情を挟まない。事実だけを置く。だがその事実の硬さが、かえって二十年の重さを伝えていた。
セリアは長い間、イエヤスの顔を見つめていた。
「……同じ」
セリアが呟いた。
「あなたたちも。レッカに振り回された……」
翻訳魔具が最後まで変換しきる前に、セリアの目から再び涙が零れた。今度は静かな涙だった。自分たちだけが被害者ではないと気づいた時の、痛みを分かつ涙。
セリアがイエヤスの袖を掴む力が、少しだけ弱くなった。弱くなったが、離しはしなかった。
◇◇◇
「……連れて帰ります」
セリアは繰り返した。翡翠の瞳が、再び強い光を帯びた。
「レッカを。姉さまのところへ。それが、私が来た理由です。レッカが去ったのは少し前ですから、今ならまだ間に合います」
「レッカ」と言った時、もうイエヤスの顔を見て言ってはいなかった。イエヤスがレッカでないことを、身体が気づき始めていた。顔は似ている。手も似ている。だが、この男の時間は若すぎる。
「……なあ、お前。親父がいなくなったのは『少し前』のことなのか?」
イエヤスの問いに、セリアは少し考えてから頷いた。
「はい。たった二十年ほどですから」
「お前、二十年を『少し』って言ってんのか?」
セリアは不思議そうに首を傾げた。
「私たちの齢は、千五百年は軽く超えます。二十年は……少しです」
イエヤスは天井を見上げた。
「……じゃあお前にとっちゃ、親父がいなくなったの、昨日みたいなもんなんだな」
「だから、そう言っています」
イエヤスは黙った。
セリアの涙はもう乾いている。だが、その乾いた目の奥に、人間には想像もつかない途方もない感情が静かに横たわっていた。途方もない時間の重さが、この少女の細い肩にかかっている。
セリアは首を傾げた。
「……レッカは、今どこにいるのですか」
こちら側の言葉で、ゆっくりと聞いた。医務室が沈黙した。
イエヤスが口を開きかけ、閉じた。答えを持っていない。父がどこにいるかなど、イエヤス自身が知りたいくらいだ。
藤村彩が一歩前に出た。管理官の顔だ。
「その質問には、順を追って答えるわ。まず——あなたの身体の治療が先よ。ここは安全な場所。誰もあなたを傷つけない」
翻訳魔具が彩の言葉を変換した。セリアはしばらく彩の顔を見つめ——それからゆっくりと頷いた。
だが、イエヤスの袖は離さなかった。彩はそれを見て、ほんの一瞬だけ眉を動かし——何も言わなかった。
「雪平さん、覚醒後のバイタルデータを記録して。凛——」
「報告書の続き、書いてきます」
早瀬凛は言い終わる前に踵を返した。背筋はまっすぐだった。だが、医務室のドアを閉める音が、いつもより少しだけ大きかった。
伊吹あかりがその背中を見て、何かを言いかけ、飲み込んだ。
彩は廊下の刃に目を向けた。
「氷室くん。もう下がっていいわ」
「……ああ」
刃は壁から背を離し、背を向けた。三歩歩いたところで足が止まった。
振り返らなかった。だが、止まった。五秒。
それから歩き出し、廊下の角を曲がって見えなくなった。足音は規則正しく、揺れがない。感情を足に乗せない歩き方。
だが今日は——ほんの少しだけ、歩幅が狭かった。
◇◇◇
午後五時。
彩はセリアの仮眠を指示し、全員を医務室から退出させた。セリアは衰弱が限界に近く、横になって十分で意識が落ちた。
イエヤスは少女の指が袖からゆっくり滑り落ちるのを見届けてから、静かに医務室を出た。
廊下。
夕方の光が窓から差し込んでいる。イエヤスは窓際に立ち、外を見た。
今朝、この同じ窓から見た空は青かった。それがもうオレンジに変わっている。たった一日で、世界の形が変わった。
「……どうすっかなあ」
誰にでもなく呟いた。
窓の外で、サンクスマート桜谷駅前店の看板が見えた。瀬田ユアが今頃レジを打っている。明日の朝もあそこで鮭おにぎりを買う。
——何個だ。一人増えたから、四つか。
イエヤスの思考は、常にそういう場所に着地する。世界がどれだけ変わっても、鮭おにぎりの個数を数えるところから始める。それが神代イエヤスという人間だった。
四つ。
たぶん。
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