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第59話 「連れて帰ります」後編

医務室のドアが開いた。

 早瀬凛が立っていた。

 亀裂に関する報告書の作成を中断して駆けつけたのだろう。手にはまだファイルを持っている。息がわずかに上がっている。


 凛の視界に、イエヤスの腕にしがみついている少女の姿が映った。

 昨日までベッドで眠っていた長耳の少女が、涙を流しながらイエヤスの袖を掴み、顔を寄せ、一言も離すまいとしている。イエヤスは困惑した顔で立っている。だが振り払ってはいない。


 凛の足が止まった。

 ファイルを持つ手の指先が白くなった。


 三秒。

 凛は無言でファイルを脇に抱え直し、医務室に一歩踏み入った。


「イエヤス。状況は」


 声は完璧に冷静だった。足の指先が靴の中で強く握りしめられていることは、誰にも見えない。


「起きた。俺のことレッカだと思ってる。違うって言っても信じてくれない」

「……そう」


 少女が凛の存在に気づいた。翡翠の目が凛を見て、明確な警戒の色を帯びた。イエヤスの腕を掴む力が強くなる。本能的な独占。自分が見つけた相手を、知らない人間に渡すまいとする動作。

 凛の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。


 その時、背後から別の足音が近づいた。


「——目が覚めたんですね。バイタルの変動を確認しました」


 雪平つむぎだった。端末を片手に、もう片方の手に携帯型の計測センサーを持っている。未知の存在を前に、研究者の顔になっていた。


 つむぎはベッドサイドに歩み寄り、少女に向かって端末の画面を見せた。生体スキャンの波形が表示されている。


「大丈夫です。痛いことはしません。……計測だけです」


 つむぎはセンサーを少女の手首に近づけたが、少女は反射的に腕を引き、イエヤスの背後に隠れるように身体を動かした。


「イエヤスさん。この子、あなたの後ろから動きませんね。少しだけ協力してもらえますか」

「おう。——なあ、大丈夫だから。この人は怖くない。ちょっと手を出してやってくれ」


 イエヤスが少女の肩に手を置き、つむぎの方を指した。少女はイエヤスの顔を見上げ、それからつむぎを見て、警戒を解かないまま恐る恐る手首を差し出した。イエヤスが触れている間だけ安心する。そういう構図になっていた。


 凛はその光景を見ていた。表情は動かさなかった。ファイルの角を指で弾く音だけが、かすかに響いた。



          ◇◇◇



 医務室の入口で、小さな衝突が起きた。

 伊吹あかりが廊下からやってきた。首からミラーレス一眼を下げている。未知の存在が目覚めたという情報を聞いて、記録者としての使命感が身体を動かしていた。


 あかりが医務室に入ろうとした瞬間、彩の手がカメラのストラップを掴んだ。


「没収」


 一語だった。彩はあかりの首からカメラを外し、自分のデスクの引き出しにしまって鍵をかけた。一連の動作に迷いがない。


「で、でも、記録は——」

「記録は管理局が正式に行います。個人の機材での撮影は今の段階では許可できません。……時が来たら、あなたに撮ってもらいます。今は、まだ早い」


 あかりは数秒黙って、それから小さく頷き、丸腰のまま医務室に入った。



 少女はイエヤスの腕を掴んだまま、周囲の人間を翡翠の目で順番に見ていた。

 白い服の女。短い刀を帯びた女。光る板を持った女。何も持っていないが目が鋭い女。

 そして——入口の枠の外、廊下の壁に背を預けている男。


 少女は最初、その男に気づかなかった。気配が薄い。だが、腰に帯びた太刀の存在感と、その男から流れてくる空気の質が、他の人間たちとは明らかに違った。

 冷たい。硬い。そして——どこかで感じたことのある種類の怒りを含んでいる。


 少女がイエヤスの袖を掴んだまま、こちら側の言葉で聞いた。


「……あの人は、だれ?」


 拙い日本語だったが、通じた。


 イエヤスが答えるより先に、氷室刃が廊下から口を開いた。


「……その名前を気安く呼ぶな」


 低い声だった。温度がない。だが、声の底に沈んでいる感情の重さは、医務室にいる全員に伝わった。


 少女が目を瞬かせた。意味が分からない。何の名前の話をしているのか。この男は誰で、なぜ怒っているのか。


 彩が一歩前に出た。


「氷室くん」


 名前を呼んだだけだったが、「ここではやめなさい」という意味が込められていた。刃は口を閉じた。


 イエヤスが息を吐いた。


「——なあ。お前の名前、教えてくれるか」


 少女はイエヤスの顔を見上げた。涙の跡が頬に残っている。汚れた銀髪が顔にかかっている。

 少女は息を吸い、背筋を正した。ボロボロの旅装には似つかわしくない、長い歴史を持つ種族の矜持を感じさせる仕草だった。


「——リュミエラセリア・ファ=エルティナーデ」


 流れるような発音だった。母音が多く、子音が柔らかく繋がり、一つの旋律のように響く。エルフ族の正式な命名法に基づいた、完全なる本名。


「エルフ族。齢、二百と二十」


 ここだけは、こちら側の言葉で言った。数字の発音は正確だった。おそらく烈火から教わったのだろう。


「姉エルティナーデを捨てた男——レッカを探して、境界を越えてきました」


 最後の一文は翻訳魔具を通し、やや機械的な抑揚で医務室に響いた。


 彩がペンを走らせる。つむぎが端末にデータを打ち込む。凛は腕を組んで壁に寄りかかっている。あかりは目を見開いたまま、この瞬間を脳に焼き付けている。


 イエヤスは少女の名前を聞いて、三秒ほど黙った。


 それから口を開いた。


「リュミエラ……」


 既に怪しい。


「……セリ……ファ……」


 迷子になっている。


「えっと——リュミちゃん?」


 少女の眉が寄った。


「いや、ファちゃんのほうがいいか?」


 眉がさらに寄った。


「エルちゃん?」


 少女の口が「何を言っているんだこの人は」という形に開いた。


「……ルミ?」


 もはや原形を留めていなかった。イエヤスは自分でも何を言っているか分からなくなり、頭を掻いた。

 医務室の空気が、緊張と混乱と困惑が入り混じった不思議な温度になっていた。凛が額を押さえている。つむぎが小さく息を吐いている。あかりが唇を噛んで笑いを堪えている。


 沈黙を破ったのは、廊下に立つ刃だった。


「——セリアでいいだろう」


 短く、低く、一刀両断だった。

 医務室が静まった。


 少女——セリアの翡翠の目が、廊下の男を見た。

 それから、イエヤスを見た。そしてまた刃を見た。


 セリアの唇が、かすかに震えた。


「……セリア」


 自分の名前を、こちら側の音で、初めて聞いた。

 短く、硬く、だが響きの底に——どこか聞き覚えのある、名前を縮める癖が滲んでいた。


 セリアは小さく頷いた。

 イエヤスの袖を掴んだまま、もう一度だけ刃を見て、視線を落とした。


 名前が決まった。

 この世界での、最初の名前。




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