第59話 「連れて帰ります」前編
少女が目を覚ましたのは、発見から六時間後——午後三時四十二分だった。
管理局医務室。白いカーテンに囲まれたベッドの上で、少女の瞼が震え、薄く開いた。翡翠色の瞳が、ぼんやりと天井の蛍光灯を捉える。見たことのない光源。見たことのない天井。知らない匂い。
少女の身体がびくりと強張った。
反射的に上半身を起こそうとして、全身に走った痛みに顔をしかめる。擦り傷だらけの腕、打撲だらけの脚。起き上がるだけで視界が揺れた。
それでも少女は周囲を見回した。白い壁。計測機器。知らない文字が並ぶ端末の画面。何もかもが異質だった。
そこで、少女の視界に人影が映った。
ベッドの脇の丸椅子に、一人の青年が座っていた。椅子の背に腕を乗せ、その上に顎を預けて、目を閉じている。作業着のような服装で、右手の指先にタコがある。何かの道具を長年握り続けた手。
少女の呼吸が止まった。
顔。その顔を、知っている。
輪郭。鼻筋。口元の角度。記憶の中にある人間の顔と、寸分違わず重なる。二十年前——いや、エルフの時間感覚では「少し前」、境界の向こう側で姉の隣にいた男の顔。
少女の目から涙が溢れた。
言葉にならない声が出た。翡翠の瞳が潤み、喉の奥から感情だけが音になって溢れ出た。
少女がベッドから飛び出した。
衰弱した身体がどこにそんな力を残していたのか、計測機器のコードを引きちぎり、点滴のスタンドを倒し、裸足のまま床を蹴って——イエヤスに飛びついた。
「——ッ!?」
イエヤスが目を開けた時には、少女の腕が首に巻きついていた。椅子ごと後ろに倒れかけ、咄嗟に片足で踏ん張る。
少女が叫んでいた。
聞いたことのない言語だった。音の響きは柔らかいが、感情は激しい。涙声で、必死で、喉が枯れるのも構わずに言葉を叩きつけている。
医務室の隅に置かれた装置が、淡い光を放った。
魔力紋様解析器。ダンジョンの壁面や鉱石に刻まれた未知の紋様——人間のどの言語体系にも属さない魔力パターンを読み取り、意味のある単語に変換するための研究機材だ。核晶修復の際に深層で検出された異常紋様の解析用として、つむぎが管理局の研究部門から借り受け、そのまま医務室に放置していたものだった。
本来は碑文や鉱石の刻印を対象とする装置であり、生きた音声に反応する設計ではない。だが少女の叫びに含まれる魔力パターンが、鉱石の紋様と同じ体系に属していたのだろう——装置が勝手に起動し、断片的な単語を途切れ途切れに吐き出し始めた。精度は低い。だが、意味は拾えた。
『——探した——ずっと——』
『——姉さまが——泣いて——』
『——連れて帰る——』
少女の腕の力が強い。首に巻きついた細い腕が、まるで二度と離すまいとするように締まっている。イエヤスは少女の背中に手を添えたまま、困惑した顔で立ち尽くしていた。
「と、とりあえず落ち着いてくれ」
少女には届いていない。あるいは届いていても、止まれない。二百年以上を生きた存在が、長い旅路の果てにようやく目的の顔を見つけた。その感情の奔流を、言葉一つで止められるはずがなかった。
イエヤスは少女の肩を掴み、そっと身体を引き離した。少女が抵抗するが、イエヤスの腕力には敵わない。二十センチほどの距離ができ、少女の涙に濡れた翡翠の目がイエヤスの顔を至近距離で見つめた。
イエヤスは真っ直ぐに少女の目を見て、はっきりと言った。
「俺はレッカじゃない。——イエヤスだ」
少女の涙が止まった。正確には、涙は流れ続けていたが、表情が止まった。理解できないものを見る目。
イエヤスがもう一度言った。
「イエヤス。レッカの——息子だ」
翻訳魔具が反応した。『息子』という単語が少女の言語に変換されて小さく響く。
少女の眉が寄った。首を振った。信じていない。
少女の手がイエヤスの頬に伸びた。両手で顔を挟み、左右に動かし、角度を変えて凝視する。輪郭を確かめるように指先が顎のラインをなぞり、鼻筋を辿り、額に触れた。
少女が何かを呟き、翻訳魔具が拾う。
『——同じ顔。同じ匂い。鉱石が、聴こえる匂い——』
少女はイエヤスの手を掴んだ。指先のタコに触れ、掌を開かせ、じっと見つめた。道具を握り続けた手。鉱物を叩き続けた手。
『——この手も。同じ——』
少女が再びイエヤスの腕に縋りついた。今度は飛びつくのではなく、袖を両手で掴んで離さない。離したら消えてしまうとでも言うように。
「連れて帰る。連れて帰ります。姉さまのところへ」
この一文だけは、翻訳魔具を通さずとも意味が伝わった。少女が覚えている数少ないこちら側の言葉——おそらく烈火から聞いた言葉で、必死に紡いだ日本語だった。発音は拙いが、意志だけは完璧に伝わっていた。
イエヤスは少女の手を振り払わなかった。困った顔のまま、どうしたものかと医務室の入口に目を向けた。




